第4章 幼少期の冒険と教育 科学はいたずらのはじまり
最初に異変に気づいたのは、台所にいたみさをだった。
庭から、空一郎の声が聞こえた。
「いくぞ。三、二――」
そのあと、軽い破裂音がした。
みさをが窓を開けると、白い粉のついた三兄弟が、一斉にこちらを見た。
庭の机には、泡のあふれた実験用の容器がある。海一郎の記録端末にも、小さな飛沫が付いていた。
「何をしたの」
陸一郎が答えようとしたが、空一郎が先に手を挙げた。
「ふたをした」
「ふたをしちゃいけない実験に?」
「……もっと飛ぶと思って」
俊介が庭へ出てきた。
容器と、机の上の教材を見比べる。
「誰が、手順を変えていいと言った?」
「誰も」
空一郎が言った。
「分かっていて、変えた?」
「少しだけなら、いいかと思った」
「その『少し』を確かめるために、手順があるんだよ」
俊介はまず、三人の顔と手に異常がないか確かめた。それから、机の上のものを片づけた。
「今日は、ここまで」
「記録だけ――」
海一郎が言いかけた。
「記録はする。失敗したことも、変更したことも、全部書く」
陸一郎が、汚れた教材を見た。
「僕が、止めればよかった」
「陸だけの責任じゃない」
みさをが言った。
「ただ、危ないと思ったら、兄弟でも止めていい。嫌がられても」
空一郎は下を向いた。
しばらくして、海一郎の端末を見た。
「ごめん。壊れた?」
「今は、動く」
「あとで、掃除する」
「勝手に開けないで」
その返事に、空一郎は小さく頷いた。
三兄弟にとって、庭と近所の林は、毎日少しずつ変わる研究室だった。
雨が降れば、水の流れる道を追った。
風が吹けば、紙飛行機を持ち出した。
見知らぬ虫を見つければ、三人で一つの図鑑をのぞき込み、名前が見つからないと、祖父の家へ持っていった。
陸一郎は、調べたことを分類した。
海一郎は、何かを測る道具を作った。
空一郎は、道具ができる前に現場へ行った。
「待てって言っただろ」
林の奥で追いついた陸一郎が言うと、空一郎は倒木の下を指した。
「いた」
小さな虫が、湿った木の表面を歩いていた。
「先に言ってくれれば、容器を持ってきたのに」
「だから、逃げる前に見つけたんだよ」
海一郎が、二人の間にしゃがんだ。
「まだいる。今は、けんかしなくていい」
三人は並んで虫を見た。
名前が分からなくても、脚がどう動くか、何を避けるか、見ていれば幾つもの発見があった。
ある日、兄たちは葉を入れた瓶を持って帰ってきた。
「薬になるらしい」
陸一郎が言った。
みさをは、その瓶を食卓から離した。
「何で調べた?」
「昔の薬草の本」
「その本には、効くことをどう確かめたか、書いてあった?」
陸一郎は頁を開き直した。
「……使われていた、と書いてある」
「使われていたことと、効いたことは、同じ?」
海一郎が首を振った。
空一郎は、瓶の匂いを嗅ごうとして止められた。
「お茶みたいだったから、ママに飲んでもらおうと思った」
「気持ちは、ありがとう。でも、飲む前に聞いてほしい」
「少しでも?」
「少しかどうかも含めて、分からないから」
みさをは瓶に大きな紙を貼った。
――観察用。飲まない。
「科学者は、何でも試す人じゃないの?」
空一郎が尋ねた。
「何を、誰に、どこまで試していいか考える人でもあるの」
「じゃあ、これは?」
「まず、正確に名前を調べる。触ってよいものか確認する。それから、観察できることを決めよう」
陸一郎は、古い本の横に新しい図鑑を置いた。
その日の発表会には、「分かったこと」より、「まだ分からないこと」の方が多く書かれた。
祖父の善一は、実験を始める前の支度が長かった。
孫たちは、すぐに何かが起こると思って集まる。善一は机を片づけ、装置を点検し、一人ずつ座る場所を決めた。
「じいちゃん。まだ?」
「まだだ」
「説明、昨日も聞いた」
「昨日聞いた者は、今日、説明できる」
その日は、小さな鐘を透明な容器の中に置いた。
装置が動くにつれ、鐘は鳴り続けているのに、音が遠くなっていった。
空一郎が、椅子から立ちかけた。
「壊れた?」
「見てみろ」
中の鐘は動いている。
海一郎が容器に顔を近づけた。
「音を運ぶ空気が、減ったんだ」
「そうだ」
宙結も、兄たちの間から見ていた。
「鐘は、鳴ってるの?」
「動いているのは、見えるね」
善一が答えた。
「じゃあ、聞こえないだけ?」
「そういうことだ」
宙結は、しばらく鐘を見た。
善一は装置を止め、空気を戻した。音が再び大きくなると、空一郎が笑った。
「魔法みたい」
「仕組みを知らん人には、そう見えるかもしれんな」
「知ってたら、魔法じゃない?」
「少なくとも、これは違う」
陸一郎が尋ねた。
「説明できないことがあったら?」
「すぐに魔法とも、間違いとも決めんことだ。装置を調べる。見方を変える。別の人にも確かめてもらう」
「それでも分からなかったら?」
「分からんと書いておく」
空一郎は不満そうだった。
「それ、負けたみたいだ」
善一は彼を見た。
「分からんことを、分かったふりで使う方が怖い」
声は穏やかだったが、その一言だけは、いつもの調子と違った。
孫たちは黙った。
善一は少し間を置き、装置の覆いを閉じた。
「だから、次を調べられるように、記録を残すんだよ」
海一郎が最初に作った小さな車は、真っすぐ走らなかった。
使われなくなった玩具の部品と、学習用の制御板を組み合わせたものだった。前に物があると止まるはずが、左へ曲がり続けた。
「曲がる機能は、頼んでない」
海一郎は床に腹ばいになり、車輪を見た。
空一郎が手を伸ばした。
「押せば走る」
「押さないで。何が悪いか分からなくなる」
陸一郎は、部品の一覧を読んでいた。
「左右で、車輪が違う」
「大きさは同じだよ」
「でも、表面が違う」
海一郎は車輪を外した。
空一郎が、外された車輪を転がした。
宙結は、その転がり方を見ていた。
「こっち、すぐ止まる」
三人が妹を見た。
「ほら」
宙結は二つを並べて、同じように押そうとした。
陸一郎がしゃがんだ。
「押す強さも、そろえないと」
「じゃあ、お兄ちゃん、やって」
海一郎は机から板を持ってきた。
「坂にして、同じところから転がそう」
その日、車は夕方まで完成しなかった。
しかし四人は、車輪を何度も転がした。
宙結は、最後までそこにいた。
妹が兄弟会議に参加するようになったのは、紙飛行機の競争がきっかけだった。
陸一郎は飛んだ距離を測った。
海一郎は飛び方を撮影した。
空一郎は何度も投げ、そのうち一機を屋根に乗せた。
「一番遠いのは、僕」
「最後のは、測れないだろ」
「見れば分かる」
「同じところから投げてない」
「風も変わった」
宙結は玄関の段に座り、兄たちの言い争いを聞いていた。
「それ、同じ紙?」
海一郎が振り返った。
「違う」
「じゃあ、折り方がいいのか、紙がいいのか、分かるの?」
陸一郎が自分の記録を見た。
空一郎は屋根を見上げた。
「遠くに飛んだのは、分かる」
「でも、お兄ちゃんたち、それを聞いてないよ」
海一郎が笑った。
「確かに」
宙結は段から下りてきた。
「私も、折る」
「難しいぞ」
空一郎が言った。
「教えて」
彼は紙を一枚渡した。
宙結の飛行機は、最初、すぐに床へ落ちた。
四人は膝をついて、それを拾った。
妹の一言で会議をやり直すことは、その後、珍しくなくなった。
夏の終わり、空一郎は雨水を集める仕掛けを作ろうとした。
目的は、庭の小さな水車を、晴れた日にも回すことだった。
海一郎は古いポンプを調べ、陸一郎は必要な水の量を計算した。
やがて、装置は動いた。
水車が回り、小さなランプが灯った。
「ついた!」
空一郎が声を上げた。
宙結も手を叩いた。
しかし、見に来た俊介は、ポンプの配線をたどった。
「この水を上へ運ぶのに、電気を使っているね」
「うん」
「でもその仕掛けで取り戻せるのは、その一部だ」
陸一郎が、計算用の端末を見た。
「……損してる」
「永久に回ると思った?」
空一郎は少し迷い、頷いた。
俊介は、水車を止めなかった。
「でも、水が流れると何ができるかは、分かった」
「役に立つ?」
「どこから水を持ってくるかによる」
善一は、その話を聞いて、机に一本の線を描いた。
「この水が、上の山から来るとしよう」
続いて、川と、水車と、畑を描く。
「お前たちが水車を作った。下流には、水を使って暮らす人がいる。全部せき止めたら、どうなる」
「困る」
宙結が答えた。
「では、少しだけなら?」
陸一郎が言った。
「どれくらい使っていいか、決める」
「誰が決める?」
「……みんなで」
空一郎は、善一の描いた水車を指した。
「でも、作ったのは僕たちだよ」
「作るのに使った水は?」
善一が聞く。
空一郎は答えなかった。
海一郎が、川の線を下流へ延ばした。
「ここにも、水車を作れば?」
「水が足りればな」
「じゃあ、上から順番に増やしたら、最後の人は?」
陸一郎が黙り込んだ。
善一は鉛筆を置いた。
「機械が動いたあとにも、考えることはある」
その夕方、空一郎は庭の水車を見ていた。
回すことばかり考えていたときには、見えていなかったものがあった。
水の来る場所。
水の行く場所。
その間にいる人。
まだ名前も知らない、遠くの人々だった。
秋になるころ、海一郎は学習用の対話AIを、自作の端末に接続した。
最初は、部品の名前を尋ねるためだった。
しかしAIは時々、もっともらしい間違いを答えた。
「さっきと違う」
海一郎は画面に向かって言った。
『説明に誤りがありました』
「どうして間違えた?」
返ってきた説明も、十分ではなかった。
陸一郎は、参考資料を別の画面に開いた。
「こっちには、違うことが書いてある」
「じゃあ、全部、自分で調べるの?」
空一郎が聞いた。
「全部じゃない。でも、大事なところは確かめる」
海一郎は、その答えを記録した。
宙結は、端末の横に座っていた。
「この子、怒らないね」
「そういう仕組みだから」
「分からないって言ったらいいのに」
海一郎は手を止めた。
「……そうだね」
それから彼は、答えに根拠がない場合は、無理に説明を作らず、保留するよう設定を変えた。
宙結は、端末に話しかけた。
「知らなかったら、知らないって言ってね」
機械は短く返事をした。
海一郎は、その声を聞きながら考えた。
答えを増やすだけでは、よい相手にならない。
何を答えないかも、作らなければならないのだ。
善一の家へ泊まった夜、空一郎は書斎に戻ってきた。
兄たちと宙結は、もう布団に入っていた。
善一は机に向かい、古い記録を見ていた。画面の隅に、欠けた文字列と、不規則な波形がある。
「寝られんのか」
「うん」
「昼に走りすぎたか」
「じいちゃん。あの信号」
善一は、椅子を少し回した。
「未来から来たかもしれない、という話か」
「送った人は、何をしてほしかったんだろう」
「それが、まだ分からん」
「返事はした?」
「何度か、試した」
「返ってきた?」
「確かめられる返事は、なかった」
空一郎は机の横に立った。
「困ってるのかもしれない」
善一は孫を見た。
「なぜ、そう思う」
「知らない人に、わざわざ呼びかけるんだから」
善一は、画面へ視線を戻した。
自分の研究を証明する資料として、何度も読み直してきた信号だった。
その向こうにいる者が何を望んでいたのか、確かに、彼はまだ答えを持っていなかった。
「……そうかもしれんな」
「分かったら、教えて」
「ああ」
空一郎は書斎を出かけ、扉のところで振り返った。
「返事、待ってるかもしれないから」
善一は、孫が廊下を歩いていく音を聞いた。
画面には、相変わらず解けない座標が残っていた。
子どもたちが眠ったあと、俊介とみさをは、リビングで洗濯物を畳んだ。
三兄弟のシャツは、よく似ていた。
膝の破れたズボンだけは、ほぼ迷わず空一郎の山へ置けた。
「また、ここ」
みさをが穴を指した。
「本人は、枝が悪いと言っていた」
「枝には、言い分を聞けないわね」
俊介は、小さな靴下を二つそろえた。
「陸は、正しくやろうとするほど、自分で抱えるね」
「頼られると、断れないところもある」
「海は、困ったときに言ってくれない」
「困っている途中を、人に見せたくないのかもしれない」
みさをは、空一郎のシャツを裏返した。
ポケットから、小石が一つ落ちた。
「空は?」
「困ったら、その場にいる人を呼ぶ」
「そこは、助かるわ」
「呼ぶ前に、行ってしまうけど」
二人は笑った。
俊介は、宙結の服を畳んだ。
「宙結は、三人をよく見ているね」
「でも、いつも止め役にしないようにしないと」
「うん。あの子も、失敗していいんだ」
しばらく、衣類の擦れる音だけが続いた。
俊介が言った。
「子どもができる前は、何を教えるかばかり考えていた」
「今は?」
「今日、何をしていたのか、ちゃんと聞くのも難しい」
「四人とも、一度に話すからね」
「聞いていない方が、『僕の話は』って言う」
「私たちが、二人しかいないのが問題ね」
「補助脳を増やしても、耳は増えない」
みさをは笑い、最後の一枚を畳んだ。
「明日は、少し早く帰れる?」
「帰るつもり」
「つもり、じゃなくて」
「帰る」
「じゃあ、四人の話を、順番に聞きましょう」
そのとき、廊下で小さな足音がした。
空一郎が、宙結の手を引いて立っていた。
「ちゅゆが、起きた」
宙結は眠そうな顔で、母へ手を伸ばした。
「怖い夢?」
みさをが抱き上げると、娘は頷いた。
「何の夢だった?」
「お兄ちゃんが、いなくなった」
空一郎は、母の腕の中の妹を見た。
「いるよ」
宙結は、彼のシャツをつかんだ。
「どこにも行かないで」
空一郎は少し困った顔をした。
明日は、林へ行くつもりだった。
「……行っても、帰ってくるよ」
彼が言うと、宙結はまだ手を離さなかった。
俊介が立ち上がり、息子の肩に手を置いた。
「今日は、隣で寝てあげて」
「うん」
空一郎は妹の背中を、ぎこちなく撫でた。
しばらくすると、宙結の手から力が抜けた。
四人が眠る部屋へ、両親は二人を連れて戻った。陸一郎は寝返りを打ち、海一郎は布団から片足を出していた。
みさをがその足をしまい、俊介が枕元の端末を消した。
空一郎は妹の隣に横になった。
「ここにいるから」
小さな声で、もう一度言った。
宙結が聞いたかどうかは、分からなかった。
それでも彼は、妹が眠るまで、そばにいた




