第3章 四兄妹の誕生と命名――時空を翔ける名を継ぐ者たち
窓の外で、雪が降っていた。
東京大学附属病院の渡り廊下は、夜になると人通りが少なくなった。ガラスの向こうには、白くなり始めた屋上と、まだ幾つもの明かりが灯る病棟が見える。
みさをは、手術着から着替えたばかりだった。コートを腕に掛け、窓際に立っている。隣では俊介が、持ってきた紙袋の中を探っていた。
「温かい方、どっちだったかな」
「持ってみれば分かるでしょう」
「いや、途中で少し冷めてしまって」
差し出された紅茶を受け取り、みさをは両手で包んだ。
「ありがとう。ちょうど、何か飲みたかった」
「手術は?」
「終わった。あとは、明日の朝にどうなっているか」
俊介は頷いた。
以前なら、何がどうなれば成功なのか、細かく聞いただろう。今は、彼女が話したいところまで待てるようになっていた。
しばらく二人で雪を見た。
「こんな夜でも、誰かが生まれているんだね」
俊介が言った。
「ええ。誰かが退院して、誰かが入院して。病院って、夜になっても一日が終わらないの」
「君も?」
「私は、これから終わりにしたい」
「では、帰ろう」
しかし、みさをは動かなかった。
「ねえ。もし時間を戻れたら、医者は困るかもしれないね」
「困る?」
「違う判断をすれば助けられたかもしれない人がいる。戻れると知ったら、どこまで戻ればいいのか、分からなくなると思う」
俊介は、紅茶の蓋に落ちた水滴を見た。
「一度戻って、結果がよくなったとしても、もっとよくできたのではないかと考える?」
「きっと」
「……それは、終わらないね」
「父を見ていると、時々そう思う」
みさをは紅茶を一口飲んだ。
「でも、これから生まれる子には、そういう後悔ばかりを背負わせたくない。失敗したら、次に何ができるか考えてほしい」
「僕たちに似たら、考える時間が長そうだ」
「あなたに似たら、ね」
「君も、十分に長いよ」
みさをが笑った。
俊介は、その顔を見てから、彼女のお腹に目を落とした。
「今日も、まだ実感がない」
「私は、少し気持ちが悪いので、実感があります」
「代われないかな」
「代わってほしいときは、ちゃんと言います。まず、帰って夕食を作って」
「それならできる」
二人は窓を離れた。
俊介の研究ノートには、まだ名前のない子のために、幾つかの候補が書かれていた。
その頁が、一人分では足りなくなることを、彼はまだ知らなかった。
「三人、います」
診察室で担当医が言ったとき、俊介は、画面ではなく、みさをを見た。
みさをは画面を見ていた。
「三胎、ということですね」
「はい。ここが一人目。こちらが二人目で、その奥に三人目です」
担当医は、それぞれの位置を示した。
俊介は椅子を少し前へ動かした。
「すみません。三人というのは……」
「赤ちゃんが三人です」
「一度に?」
みさをが、そこで彼を見た。
「別々だったら、今この画面に三人はいないでしょう」
「そうだね。分かってる。分かってはいるんだけど」
担当医は二人の様子を見ながら、説明を続けた。
今後は、より注意深く経過を見る必要があること。早く生まれる可能性も見込み、出産後の体制まで相談していくこと。
みさをは幾つか質問し、俊介はメモを取った。
診察室を出たあと、彼は廊下の椅子に座った。
「大丈夫?」
「うん」
「顔が白い」
「今、家の間取りを考えていた」
「もう?」
「寝る場所が三ついる。抱っこする腕は四本あるけど、僕たちが寝る時間は――」
「俊介」
彼女は隣に座った。
「一度に、全部解かなくていい」
俊介はメモを閉じた。
「……そうだね」
「私も、驚いてる」
「そうなの?」
「平静に見えた?」
「とても」
「医者だから、まず説明を聞いただけ。今は、少し怖い」
俊介は、彼女の手を握った。
帰り道、二人は善一に電話をした。
『三人か』
受話器の向こうで、しばらく物音がした。
「お父さん?」
『いや。椅子を引いた』
「座らないと聞けない話だった?」
『うれしい話にも、準備が要る』
俊介が、ようやく笑った。
善一は続けた。
『何をすればいい』
「まだ、これから決めるところ」
『では、決まったことから教えてくれ。研究室の連中には、今から予定を空けてもらう』
「研究室全体を巻き込まないで」
『一人で三人分、抱こうとは思っておらんよ』
妊娠中、俊介は以前より頻繁に台所に立った。
食事の支度をしながら論文を読んで鍋を焦がし、その後は、台所へ研究資料を持ち込まないという規則ができた。
善一は小さな衣類を買ってきた。
三着とも同じものだった。
「区別がつかないでしょう」
みさをが言うと、彼は困った顔になった。
「一人だけ違うのも、よくないと思ってな」
「まだ、本人たちは気にしないと思うけど」
「わしが気にする」
みさをは服を広げた。
袖が、彼女の指ほどしかなかった。
善一はその向こうで、娘の顔を見ていた。
「無理はするなよ」
「分かってる」
「お前の『分かってる』は、昔から――」
「お父さんの娘だから」
善一は、それ以上言えなくなった。
出産の日、俊介は待合の椅子で、同じ頁を何度も読んでいた。
文章は、頭に入っていなかった。
隣の善一も、眼鏡を掛けたり外したりしていた。
「お義父さん」
「何だ」
「みさをが生まれたときも、こうでしたか」
「いや。わしはもっと落ち着きがなかった」
「今も、あまり」
「今は、年を取った分、動きを抑えている」
俊介は膝の上の本を閉じた。
「僕は、何もできませんね」
「今日は、そういう役目だ」
「待つだけですか」
「呼ばれたとき、ちゃんと立てるようにしておけ」
ようやく説明を受けたとき、俊介は勢いよく立ち上がり、脚がしびれていたことに気づいた。
善一が肘をつかんだ。
「言っただろう」
三人の男の子が生まれた。
それぞれの状態を確認するため、赤ん坊たちは新生児の診療を担当するスタッフに託された。みさをも、引き続き経過を見てもらうことになった。
すぐに全員を抱けるわけではなかったが、俊介は説明を聞きながら、何度も頷いた。
みさをに会うと、彼はまず「ありがとう」と言った。
彼女は疲れた顔で、少し笑った。
「三人、見た?」
「見た」
「どうだった」
「小さかった」
「そうね」
「でも、指があった。ちゃんと、爪も」
みさをの目に涙が浮かんだ。
「当たり前のことなのにね」
「うん」
俊介はベッドの脇に座った。
「一番小さい子が、手を動かしていた」
「どんなふうに?」
「何か、つかもうとしているみたいに」
みさをは目を閉じ、少し休んでから言った。
「じゃあ、その子にも、つかむものを用意しないと」
命名の相談は、病室で始まった。
俊介は候補を書いたノートを持ってきたが、頁を開く前に、みさをから尋ねられた。
「その厚さ全部、名前?」
「説明も入っている」
「説明は、あとにして」
善一は、窓際の椅子に座っていた。口を出したそうだったが、今日は両親の話を聞くと決めているらしい。
「一番目の子は、陸一郎」
俊介が言った。
「陸?」
「立って暮らす場所があるように。何かを始めるとき、足元を確かめられるように」
「いいね」
「二番目は、海一郎」
「どうして海?」
「僕たちが見ている場所の外にも、世界があると知ってほしい。海は、隔てることもあるけど、渡ればつながるから」
善一が小さく頷いた。
俊介は最後の名前を見た。
「三番目は、空一郎」
みさをは、先ほど夫が話した、小さな手を思い出した。
「何かをつかもうとしていた子ね」
「見えているところだけで、世界が終わると思わないように」
「遠くへ行きすぎたら、困るけど」
「帰ってくる場所は、僕たちが作る」
みさをは、三つの名前をゆっくり口にした。
「陸一郎、海一郎、空一郎……三人とも、一郎なのね」
「生まれた順で、一人だけ長男の名前にするのも、違う気がしたんだ」
「本人たちが聞いたら、喜ぶかしら」
「嫌だと言われたら、説明する」
「そのノートで?」
俊介はノートを閉じた。
「短くする」
善一が笑った。
「その名なら、呼びやすい。陸、海、空」
「お父さんは?」
「わしか」
「何か、候補があったんでしょう」
善一は少し迷い、首を振った。
「今、なくなった。いい名前だ」
三人が家にそろうと、生活は、何一つ予定どおりに進まなくなった。
一人が眠ると、一人が泣いた。ようやく二人が落ち着いたころ、残る一人が目を開けた。
俊介は記録表を作った。
みさをは役に立つと認めたが、表の最後に書かれた「推定就寝時刻」を消した。
「ここは、予測しない方がいい」
「傾向はあるはずだ」
「三人に、その傾向を守るよう頼める?」
善一が手伝いに来た日は、俊介が洗濯物を干し、みさをが眠った。
孫を抱いた善一は、書斎での大声を出さなくなった。
「陸か」
赤ん坊の顔をのぞく。
「……海か?」
胸元の目印を確かめる。
「空だったか。すまんな」
その声を聞いて、俊介が笑った。
「まだ、僕も間違えます」
「名前は三つ、用意できても、顔を覚えるのは別の仕事だな」
善一は、小さな背中をゆっくり撫でた。
数年後には、三人を見間違えることはほとんどなくなっていた。
同じ時刻に生まれ、同じ家で育っていても、同じことをする子どもたちではなかった。
陸一郎は、風呂に持ち込む玩具の数を決めた。
海一郎は、玩具の船がなぜ転覆するのか調べた。
空一郎は、転覆した船に別の玩具を乗せ、救助に向かった。
「それ、沈むよ」
海一郎が言った。
「沈む前に着けばいい」
「着く場所がないでしょう」
「じゃあ、陸の膝」
「僕は島じゃない」
その瞬間、俊介の顔へ湯が跳ねた。
「全員、いったん停船!」
浴室の外で、みさをが声を掛けた。
「何をしてるの?」
「海難救助」
「あなたが?」
「今は、僕が救助されたい」
扉の向こうから笑い声がした。
俊介は三人を順に見た。
きれいな名前の由来に、水浸しの床のことは書いていなかった。
宙結が生まれたのは、春だった。
兄たちは、家に帰ってきた妹を、少し離れて見ていた。
「触っていい?」
最初に聞いたのは空一郎だった。
「手を洗ってから。顔は、強く触らないでね」
海一郎が、妹の手を見た。
「こんなに小さいのに、指、全部動く」
俊介は思わず、みさをを見た。
彼女も、同じことを思い出したらしい。
陸一郎は、用意された小さな衣類と、寝床を確かめていた。
「僕たちのときも、これだった?」
「三つ並んでいたよ」
「大変だったね」
「今、分かってくれたか」
俊介が言うと、陸一郎は真面目に頷いた。
名前は、宙結。ちゅゆ、と呼ぶことになった。
「宙は、空と同じ?」
空一郎が尋ねた。
「つながっているけど、同じではないかな」
俊介が答えた。
「結は?」
「結ぶ、という字」
「何を?」
俊介が説明を考えていると、みさをが妹の手を兄たちに見せた。
「まずは、あなたたちと」
空一郎が人差し指を差し出した。
宙結の手が、その指を握った。
「つかまった」
「引っ張らないでね」
「引っ張らない」
彼は、いつになく静かだった。
みさをは四人を見渡し、俊介に言った。
「兄たちを支える子になる、とかは、まだ言わないでおこうね」
「そうだね」
「この子にも、この子の行きたいところがあるから」
俊介は頷いた。
宙結は、兄の指を握ったまま眠った。
四人分の未来は、まだ、どの研究ノートにも書かれていなかった。




