↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/126

第3章 四兄妹の誕生と命名――時空を翔ける名を継ぐ者たち


 窓の外で、雪が降っていた。

 東京大学附属病院の渡り廊下は、夜になると人通りが少なくなった。ガラスの向こうには、白くなり始めた屋上と、まだ幾つもの明かりが灯る病棟が見える。

 みさをは、手術着から着替えたばかりだった。コートを腕に掛け、窓際に立っている。隣では俊介が、持ってきた紙袋の中を探っていた。

「温かい方、どっちだったかな」

「持ってみれば分かるでしょう」

「いや、途中で少し冷めてしまって」

 差し出された紅茶を受け取り、みさをは両手で包んだ。

「ありがとう。ちょうど、何か飲みたかった」

「手術は?」

「終わった。あとは、明日の朝にどうなっているか」

 俊介は頷いた。

 以前なら、何がどうなれば成功なのか、細かく聞いただろう。今は、彼女が話したいところまで待てるようになっていた。

 しばらく二人で雪を見た。

「こんな夜でも、誰かが生まれているんだね」

 俊介が言った。

「ええ。誰かが退院して、誰かが入院して。病院って、夜になっても一日が終わらないの」

「君も?」

「私は、これから終わりにしたい」

「では、帰ろう」

 しかし、みさをは動かなかった。

「ねえ。もし時間を戻れたら、医者は困るかもしれないね」

「困る?」

「違う判断をすれば助けられたかもしれない人がいる。戻れると知ったら、どこまで戻ればいいのか、分からなくなると思う」

 俊介は、紅茶の蓋に落ちた水滴を見た。

「一度戻って、結果がよくなったとしても、もっとよくできたのではないかと考える?」

「きっと」

「……それは、終わらないね」

「父を見ていると、時々そう思う」

 みさをは紅茶を一口飲んだ。

「でも、これから生まれる子には、そういう後悔ばかりを背負わせたくない。失敗したら、次に何ができるか考えてほしい」

「僕たちに似たら、考える時間が長そうだ」

「あなたに似たら、ね」

「君も、十分に長いよ」

 みさをが笑った。

 俊介は、その顔を見てから、彼女のお腹に目を落とした。

「今日も、まだ実感がない」

「私は、少し気持ちが悪いので、実感があります」

「代われないかな」

「代わってほしいときは、ちゃんと言います。まず、帰って夕食を作って」

「それならできる」

 二人は窓を離れた。

 俊介の研究ノートには、まだ名前のない子のために、幾つかの候補が書かれていた。

 その頁が、一人分では足りなくなることを、彼はまだ知らなかった。

     

「三人、います」

 診察室で担当医が言ったとき、俊介は、画面ではなく、みさをを見た。

 みさをは画面を見ていた。

「三胎、ということですね」

「はい。ここが一人目。こちらが二人目で、その奥に三人目です」

 担当医は、それぞれの位置を示した。

 俊介は椅子を少し前へ動かした。

「すみません。三人というのは……」

「赤ちゃんが三人です」

「一度に?」

 みさをが、そこで彼を見た。

「別々だったら、今この画面に三人はいないでしょう」

「そうだね。分かってる。分かってはいるんだけど」

 担当医は二人の様子を見ながら、説明を続けた。

 今後は、より注意深く経過を見る必要があること。早く生まれる可能性も見込み、出産後の体制まで相談していくこと。

 みさをは幾つか質問し、俊介はメモを取った。

 診察室を出たあと、彼は廊下の椅子に座った。

「大丈夫?」

「うん」

「顔が白い」

「今、家の間取りを考えていた」

「もう?」

「寝る場所が三ついる。抱っこする腕は四本あるけど、僕たちが寝る時間は――」

「俊介」

 彼女は隣に座った。

「一度に、全部解かなくていい」

 俊介はメモを閉じた。

「……そうだね」

「私も、驚いてる」

「そうなの?」

「平静に見えた?」

「とても」

「医者だから、まず説明を聞いただけ。今は、少し怖い」

 俊介は、彼女の手を握った。

 帰り道、二人は善一に電話をした。

『三人か』

 受話器の向こうで、しばらく物音がした。

「お父さん?」

『いや。椅子を引いた』

「座らないと聞けない話だった?」

『うれしい話にも、準備が要る』

 俊介が、ようやく笑った。

 善一は続けた。

『何をすればいい』

「まだ、これから決めるところ」

『では、決まったことから教えてくれ。研究室の連中には、今から予定を空けてもらう』

「研究室全体を巻き込まないで」

『一人で三人分、抱こうとは思っておらんよ』

     

 妊娠中、俊介は以前より頻繁に台所に立った。

 食事の支度をしながら論文を読んで鍋を焦がし、その後は、台所へ研究資料を持ち込まないという規則ができた。

 善一は小さな衣類を買ってきた。

 三着とも同じものだった。

「区別がつかないでしょう」

 みさをが言うと、彼は困った顔になった。

「一人だけ違うのも、よくないと思ってな」

「まだ、本人たちは気にしないと思うけど」

「わしが気にする」

 みさをは服を広げた。

 袖が、彼女の指ほどしかなかった。

 善一はその向こうで、娘の顔を見ていた。

「無理はするなよ」

「分かってる」

「お前の『分かってる』は、昔から――」

「お父さんの娘だから」

 善一は、それ以上言えなくなった。

     

 出産の日、俊介は待合の椅子で、同じ頁を何度も読んでいた。

 文章は、頭に入っていなかった。

 隣の善一も、眼鏡を掛けたり外したりしていた。

「お義父さん」

「何だ」

「みさをが生まれたときも、こうでしたか」

「いや。わしはもっと落ち着きがなかった」

「今も、あまり」

「今は、年を取った分、動きを抑えている」

 俊介は膝の上の本を閉じた。

「僕は、何もできませんね」

「今日は、そういう役目だ」

「待つだけですか」

「呼ばれたとき、ちゃんと立てるようにしておけ」

 ようやく説明を受けたとき、俊介は勢いよく立ち上がり、脚がしびれていたことに気づいた。

 善一が肘をつかんだ。

「言っただろう」

 三人の男の子が生まれた。

 それぞれの状態を確認するため、赤ん坊たちは新生児の診療を担当するスタッフに託された。みさをも、引き続き経過を見てもらうことになった。

 すぐに全員を抱けるわけではなかったが、俊介は説明を聞きながら、何度も頷いた。

 みさをに会うと、彼はまず「ありがとう」と言った。

 彼女は疲れた顔で、少し笑った。

「三人、見た?」

「見た」

「どうだった」

「小さかった」

「そうね」

「でも、指があった。ちゃんと、爪も」

 みさをの目に涙が浮かんだ。

「当たり前のことなのにね」

「うん」

 俊介はベッドの脇に座った。

「一番小さい子が、手を動かしていた」

「どんなふうに?」

「何か、つかもうとしているみたいに」

 みさをは目を閉じ、少し休んでから言った。

「じゃあ、その子にも、つかむものを用意しないと」

     

 命名の相談は、病室で始まった。

 俊介は候補を書いたノートを持ってきたが、頁を開く前に、みさをから尋ねられた。

「その厚さ全部、名前?」

「説明も入っている」

「説明は、あとにして」

 善一は、窓際の椅子に座っていた。口を出したそうだったが、今日は両親の話を聞くと決めているらしい。

「一番目の子は、陸一郎」

 俊介が言った。

「陸?」

「立って暮らす場所があるように。何かを始めるとき、足元を確かめられるように」

「いいね」

「二番目は、海一郎」

「どうして海?」

「僕たちが見ている場所の外にも、世界があると知ってほしい。海は、隔てることもあるけど、渡ればつながるから」

 善一が小さく頷いた。

 俊介は最後の名前を見た。

「三番目は、空一郎」

 みさをは、先ほど夫が話した、小さな手を思い出した。

「何かをつかもうとしていた子ね」

「見えているところだけで、世界が終わると思わないように」

「遠くへ行きすぎたら、困るけど」

「帰ってくる場所は、僕たちが作る」

 みさをは、三つの名前をゆっくり口にした。

「陸一郎、海一郎、空一郎……三人とも、一郎なのね」

「生まれた順で、一人だけ長男の名前にするのも、違う気がしたんだ」

「本人たちが聞いたら、喜ぶかしら」

「嫌だと言われたら、説明する」

「そのノートで?」

 俊介はノートを閉じた。

「短くする」

 善一が笑った。

「その名なら、呼びやすい。陸、海、空」

「お父さんは?」

「わしか」

「何か、候補があったんでしょう」

 善一は少し迷い、首を振った。

「今、なくなった。いい名前だ」

     

 三人が家にそろうと、生活は、何一つ予定どおりに進まなくなった。

 一人が眠ると、一人が泣いた。ようやく二人が落ち着いたころ、残る一人が目を開けた。

 俊介は記録表を作った。

 みさをは役に立つと認めたが、表の最後に書かれた「推定就寝時刻」を消した。

「ここは、予測しない方がいい」

「傾向はあるはずだ」

「三人に、その傾向を守るよう頼める?」

 善一が手伝いに来た日は、俊介が洗濯物を干し、みさをが眠った。

 孫を抱いた善一は、書斎での大声を出さなくなった。

「陸か」

 赤ん坊の顔をのぞく。

「……海か?」

 胸元の目印を確かめる。

「空だったか。すまんな」

 その声を聞いて、俊介が笑った。

「まだ、僕も間違えます」

「名前は三つ、用意できても、顔を覚えるのは別の仕事だな」

 善一は、小さな背中をゆっくり撫でた。

     

 数年後には、三人を見間違えることはほとんどなくなっていた。

 同じ時刻に生まれ、同じ家で育っていても、同じことをする子どもたちではなかった。

 陸一郎は、風呂に持ち込む玩具の数を決めた。

 海一郎は、玩具の船がなぜ転覆するのか調べた。

 空一郎は、転覆した船に別の玩具を乗せ、救助に向かった。

「それ、沈むよ」

 海一郎が言った。

「沈む前に着けばいい」

「着く場所がないでしょう」

「じゃあ、陸の膝」

「僕は島じゃない」

 その瞬間、俊介の顔へ湯が跳ねた。

「全員、いったん停船!」

 浴室の外で、みさをが声を掛けた。

「何をしてるの?」

「海難救助」

「あなたが?」

「今は、僕が救助されたい」

 扉の向こうから笑い声がした。

 俊介は三人を順に見た。

 きれいな名前の由来に、水浸しの床のことは書いていなかった。

     

 宙結が生まれたのは、春だった。

 兄たちは、家に帰ってきた妹を、少し離れて見ていた。

「触っていい?」

 最初に聞いたのは空一郎だった。

「手を洗ってから。顔は、強く触らないでね」

 海一郎が、妹の手を見た。

「こんなに小さいのに、指、全部動く」

 俊介は思わず、みさをを見た。

 彼女も、同じことを思い出したらしい。

 陸一郎は、用意された小さな衣類と、寝床を確かめていた。

「僕たちのときも、これだった?」

「三つ並んでいたよ」

「大変だったね」

「今、分かってくれたか」

 俊介が言うと、陸一郎は真面目に頷いた。

 名前は、宙結。ちゅゆ、と呼ぶことになった。

「宙は、空と同じ?」

 空一郎が尋ねた。

「つながっているけど、同じではないかな」

 俊介が答えた。

「結は?」

「結ぶ、という字」

「何を?」

 俊介が説明を考えていると、みさをが妹の手を兄たちに見せた。

「まずは、あなたたちと」

 空一郎が人差し指を差し出した。

 宙結の手が、その指を握った。

「つかまった」

「引っ張らないでね」

「引っ張らない」

 彼は、いつになく静かだった。

 みさをは四人を見渡し、俊介に言った。

「兄たちを支える子になる、とかは、まだ言わないでおこうね」

「そうだね」

「この子にも、この子の行きたいところがあるから」

 俊介は頷いた。

 宙結は、兄の指を握ったまま眠った。

 四人分の未来は、まだ、どの研究ノートにも書かれていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。