第2章 俊介とみさをの出会い――哲学と医学が交わるとき
柊俊介の講義で、最初に手を挙げたのは、医学部から来た若い医師だった。
東京大学・駒場キャンパス。
分野横断の公開講義が開かれていた教室で、俊介は黒板に描いた図の前に立っていた。
「人間は、過去をそのまま保存しているわけではありません。思い出すたびに、現在の状態で組み直している。では、私たちが『同じ自分である』と感じる連続は、どこにあるのでしょうか」
後方で、手が上がった。
「質問してもよろしいですか」
「どうぞ」
「記憶の再構成と、時間そのものへの介入は、分けて考える必要があると思います。今の説明だと、その二つがつながって聞こえます」
俊介はチョークを置いた。
「その通りです。今のところ、そこをつなぐ実証はありません」
「では、先生のいう『時間を戻る自由度』は、神経系に確認された性質ではなく、物理モデル上の仮定ですね」
「はい」
教室が少し静かになった。
俊介は彼女を見た。
「説明の省略を、見つけられてしまいました」
「すみません。臨床では、その省略が気になるので」
「謝る必要はありません。医学部の方ですか」
「附属病院の脳神経外科です。葛城みさをと申します」
俊介の目が、わずかに動いた。
「補助記憶系の研究をされている、葛城先生?」
「まだ試作段階ですが」
「昨年の発表を読みました。外部記憶に、患者自身が拒否権を持つ設計ですね」
今度は、みさをが驚いた。
「そこを読んでくださったんですか」
「むしろ、そこが気になりました。普通は、どれだけ記憶できるかを先に説明するでしょう」
「覚えていることが、いつも本人のためになるとは限りませんから」
俊介は、黒板の図を見直した。
「……講義のあと、少しお話しできますか」
喫茶室に着いたころには、夕方になっていた。
俊介はコーヒーを頼み、みさをは紅茶を頼んだ。
「さっきは、ずいぶん遠慮なく聞いてしまいました」
「助かりました。あのまま話していたら、学生が、意識と時間をつなぐ技術はもう完成していると思ったかもしれない」
「完成していたら、私は仕事が増えそうです」
「脳神経外科に?」
「帰ってきた人が、出発した人と同じかどうか、確認を頼まれそうでしょう」
俊介は笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「確認できますか」
「今の医学では、断言できません。会話も記憶も同じでも、本人が違うと感じているかもしれない」
「本人が同じだと言ったら?」
「それは、大切に扱うべき言葉です。でも、その一言で全部の問題が終わるとは思いません」
俊介はカップを持ち上げ、飲まずに戻した。
「僕は物理をやっていますが、いつも、その先で止まります。記述できたことと、分かったことは同じなのか、と」
「哲学の話ですね」
「専門家に怒られない程度には、考えているつもりです」
みさをは少し笑った。
俊介は、その笑いを見てから尋ねた。
「葛城というお名前で、もし違っていたら申し訳ないのですが――葛城善一博士とは」
「父です」
「やはり」
「父の論文を?」
「何度も読みました。結論に賛成できないところもあります。ただ、問いの立て方には影響を受けました」
「父が聞いたら、喜びます」
「批判もあると言いましたよ」
「なおさらです。どこが違うと思うか、説明しろと、帰してくれなくなるかもしれません」
俊介は笑った。
みさをも笑ったが、紅茶に目を落としたとき、少しだけ表情が変わった。
「母も、同じ研究をしていました」
「……アヤ博士ですね」
「ご存じでしたか」
「共同論文で。事故のことも、記録では」
俊介はそこで言葉を止めた。
みさをは頷いた。
「私は、幼かったので、覚えていることは少ないんです。声も、映像で聞いて覚え直した部分があります」
喫茶室の向こうで、食器の重なる音がした。
「父は、母を救うために時間の研究を続けています」
俊介は何も言わず、続きを待った。
「私は、今、目の前にいる人を助けたいと思いました。だから医学に進んだんです。でも、脳を調べているうちに、結局、父と同じ問いに戻ってきてしまった」
「同じ問いでも、見ている場所は違うのでは」
みさをが顔を上げた。
「お父上は、失った人へ向かっている。あなたは、まだそこにいる人から始めている」
彼女はしばらく黙った。
「……そう言ってもらったのは、初めてです」
それから二人は、互いの研究室を訪ねるようになった。
最初は、紹介した論文の続きだった。
やがて、話題は論文だけではなくなった。
俊介は、みさをの勤務が終わる時刻を気にするようになった。みさをは、彼が送ってくる長い文章に、当直の合間に短い返事をした。
『その仮定では、患者が疲れます』
『装置の負荷の話ですか』
『人間の話です』
俊介はその返事を印刷し、机に置いた。
ある夜、病院の廊下で待っていると、みさをが手術室の方から歩いてきた。
「遅くなりました」
「大丈夫ですか」
「患者さんは、今のところ落ち着いています」
「あなたの方です」
みさをは足を止めた。
「ああ……少し、眠いです」
「食事は」
「これから」
「では、今日は議論をやめましょう」
「珍しいですね」
「反論されないと、僕ばかり話してしまう」
「眠っていても、変なことを言ったら起きますよ」
二人は病院を出た。
近くの店で、みさをは温かい汁物を頼んだ。俊介が研究の話を始めかけると、彼女は箸を持ったまま彼を見た。
「今日は、やめるんでしょう」
「……そうでした」
「別の話は、できませんか」
俊介は困った顔をした。
「何を」
「子どものころ、何をして遊んでいました?」
「地図を描いていました」
「地図?」
「実在しない国の。道路と鉄道を引いて、どこに都市ができるか考えて」
みさをは笑った。
「今と、あまり変わりませんね」
「あなたは?」
「父の研究室で、待っていました」
俊介は箸を止めた。
みさをは、少し考えてから付け加えた。
「でも、悪い思い出ばかりではありません。研究員の方が、よく相手をしてくれました。父が何かを見つけた日は、帰り道でずっと話してくれた」
「分かりましたか」
「ほとんど。でも、うれしいことは分かりました」
その晩、俊介は彼女を駅まで送った。
別れ際、次に会う約束をした。
研究の用事は、特になかった。
俊介が善一の家を訪れたのは、秋の終わりだった。
玄関で挨拶を終える前に、書斎へ案内された。
「君の論文を読んだ」
善一は机に三枚の紙を並べた。
「二頁目に聞きたいことがある」
「お父さん」
みさをが後ろから言った。
「まず、お茶を出して」
「茶は、話しながらでも飲める」
「俊介さんは、査読を受けに来たんじゃないの」
善一の手が止まった。
その言葉を、昔、別の声で聞いたことがあった。
「……そうだったな」
彼は紙を重ねた。
俊介は、その小さな変化を見た。
書斎の窓辺には、銀色の装置が置かれていた。善一の視線が一度そこへ動き、また戻った。
お茶が来ると、結局、論文の話が始まった。
ただ、その日の善一は、娘が口を挟むたびに話を止めた。
「君は、過去に介入できると思うか」
善一が尋ねた。
「理論上の可能性は検討しています。実現できるとは、まだ言えません」
「できたとしたら」
「変化がどう伝わるのかを、先に知りたいです」
「知るには、試すしかない場合もある」
みさをがカップを置いた。
「試したあとで、戻せない場合もあるでしょう」
善一は娘を見た。
俊介は、二人の間に長く続いている会話があることを感じた。
「僕も、会ってみたい人はいます」
彼は慎重に言った。
「でも、僕が会いに行ったことで、その人が僕を知らない人生を失うのだとしたら、簡単には決められません」
善一は答えなかった。
しばらくして、机の紙を裏返した。
「今日は、論文の続きはやめよう」
みさをが驚いたように父を見た。
「君は、みさをと、どんなところへ出かけるんだ」
今度は、俊介が返答に困った。
「……病院の近くの食事の店が、多いです」
「それでは、いかんな」
「お父さんに言われたくありません」
善一が笑った。
俊介はようやく、肩の力を抜いた。
冬の夜、俊介はみさをに結婚を申し込んだ。
研究棟の外には冷たい風が吹いていた。二人は屋上に上がったが、あまりの寒さに、すぐ階段の踊り場へ戻った。
「星を見る計画だったんでしょう」
「そのつもりでした」
「観測条件の確認が不足していますね」
「認めます」
みさをは手をこすり合わせた。
俊介は上着のポケットに入れた小さな箱を、まだ出せずにいた。
「今日は、何か話があるんですか」
彼女が尋ねた。
「どうして」
「さっきから、私の質問に、短く答えてばかりいるので」
俊介は息を吐いた。
「君といると、考えていたことを、途中で変えられるんです」
「いつも反論するから?」
「それもあります。でも、研究がうまくいかなかった日でも、君に会えば、その一日を失敗だけで終わらせなくて済む」
みさをは黙って聞いた。
「これからも、そういう日がたくさんあると思う。君の仕事が大変な日も、僕が何もできない日も」
「ありますね。きっと」
「そのとき、同じ家に帰りたい」
俊介は箱を出した。
「結婚してくれませんか」
みさをは、その箱と、彼の顔を順に見た。
「……今日は、研究の相談ではなかったんですね」
「違います」
「よかった。寒いところで難しい式を出されたら、帰ろうと思っていました」
彼女は笑った。
俊介も笑おうとしたが、返事を待っていることを思い出し、黙った。
みさをは、彼の手に自分の手を重ねた。
「はい。私も、あなたと帰りたいです」
二人は結婚し、やがて四人の子を授かった。
最初の子には、陸一郎。
次の子には、海一郎。
三人目には、空一郎。
「ずいぶん広がりましたね」
みさをは、生まれたばかりの三男を抱いて言った。
「これで、だいたいの場所には行ける」
俊介が答えると、善一が横から口を出した。
「まだ足りん」
「お父さん。名前をつける話で、宇宙開発の計画ではありません」
それでも、末の娘が生まれたとき、二人は「宙」という字を選んだ。
宙結。
「ちゅゆ、と読むのか」
善一は、寝台の中の小さな顔をのぞき込んだ。
「ええ」
「難しい名だな」
「お父さんも、そのうち慣れます」
善一は、孫娘の指にそっと触れた。
小さな手が、彼の指を握った。
「……結ぶ、か」
彼はその字を、確かめるように口にした。
陸一郎は父の服の裾を引き、海一郎は寝台の仕組みを調べようとして止められ、空一郎は背伸びして妹を見ようとした。
「僕が抱いていい?」
「座ってからね」
みさをが答えた。
「落とさないよ」
「落とすつもりの人は、いないの」
俊介が椅子を持ってきた。空一郎は腰を下ろし、両腕を差し出した。
妹を抱くと、いつも落ち着きのない彼が、動かなくなった。
「……軽い」
「まだ、小さいから」
「僕が大きくする」
陸一郎が笑った。
「それは、お父さんとお母さんの仕事だよ」
「僕だって、手伝えるだろ」
「何をするの」
空一郎は少し考え、腕の中の妹を見た。
「どこか行きたくなったら、連れていく」
「その前に、帰り道を覚えておいてね」
みさをが言った。
善一は、そのやり取りを黙って聞いていた。
病室の窓には、夕方の光が差していた。
彼は帰宅したあと、研究ノートの新しい頁に、四人の名前を書いた。
その下へ、アヤに話しかけるつもりで、短い一文を添えた。
――みさをの家が、またにぎやかになった。
窓辺の装置を起動すると、聞き慣れた声が返ってきた。
『今日は、何を話しますか』
善一は椅子に座った。
「孫の話だ」
画面に応答の表示が灯った。
「四人になったんだよ、アヤ」
その夜は、数式を書かなかった。




