第1章 出会いと別れ――葛城善一とアヤ
葛城善一が初めてアヤ・カトウに会ったとき、彼女は彼の数式を訂正した。
初夏の午後だった。
高エネルギー加速器研究所の研究棟には、空調の音と、遠くの工事の音が重なっていた。善一はホワイトボードの前で、二人の若い研究員に話していた。
「時間を、一枚の楽譜だと思ってみたまえ。われわれは左から右へ演奏する。だが、楽譜そのものには、最初の音も最後の音も載っている」
「先生、それは比喩としては分かりますが」
「比喩から始めて、式にするんだ」
「その式の境界条件が――」
ノックの音がした。
「失礼します。本日から共同研究員として配属されました。アヤ・カトウです」
善一は振り返った。
黒髪を結い上げた女性が、薄い書類の束を抱えて立っていた。名札を留めたばかりらしく、胸元に指を添えている。
「ようこそ。少し待ってくれ。今、時間旅行の準備をしている」
「それは、着任初日から忙しいですね」
「君にも参加してもらう」
アヤはホワイトボードを見た。
「その前に、右端の式を確認してもいいでしょうか」
「右端?」
「伝送路を仮定した時点で、答えを先に置いていませんか。これでは、時間を越えられることを使って、時間を越えられると証明しています」
若い研究員の一人が、うつむいた。肩がわずかに震えていた。
善一は式を見直した。
「……君は、遠慮というものを知らんのか」
「必要なら、明日から覚えます」
善一は数秒、彼女を見た。それから、消去用の布を差し出した。
「いや。そのままでいい。ここを消してくれ」
アヤは書類を机に置き、問題の項を消した。
「よし。では、出発は延期だ」
「了解です、キャプテン」
それが、二人の最初の会話だった。
善一は大胆な仮説を立てる人だった。
アヤは、その仮説がどこで現実から離れるかを見つける人だった。
彼が「意識を情報として記述できれば」と言えば、彼女は「何を測定し、何を失うのか」と聞いた。
彼が「脳の状態を転送できれば」と言えば、彼女は「転送前の人と、転送後の人を、どう区別するのか」と聞いた。
「君と話すと、一歩進むたびに足場がなくなる」
ある夜、善一は椅子の背にもたれた。
アヤは湯気の立つ紅茶を彼の前に置いた。
「なくなったのではなく、最初からなかったんです」
「厳しいな」
「落ちてから気づくより、いいでしょう」
窓には、明かりのついた研究室が映っていた。外はもう暗く、二人の間にある計測装置の表示だけが、一定の間隔で変わっていた。
善一は紅茶を一口飲んだ。
「仮に、記憶も、性格も、判断の癖も再現できたとする。その人は、元の人と同じだろうか」
「先生は、同じであってほしいんですか」
「質問しているのは、こちらだ」
「その答えによって、実験の組み方が変わると思ったので」
善一は苦笑した。
「分からん。だが、昨日のわしと今日のわしだって、完全に同じではない」
「それでも、昨日から今日まで、先生自身が生きてきた連続があります」
「情報にも、連続を作れるかもしれない」
「かもしれません」
アヤは向かいの椅子に座った。
「ただ、再現された人が『私は違う』と言ったら、その言葉は聞いてください」
善一は彼女を見た。
「装置の誤差として処理するな、ということか」
「ええ。その人が先生の望む答えを言わなくても」
その言葉は、後年、善一の研究ノートに何度も現れることになった。
二人の研究が進むにつれ、帰る時刻は遅くなった。
善一は食事を忘れた。アヤは忘れなかったが、彼を連れ出すのに手間がかかった。
「あと十分」
「四十分前にも、そう言いました」
「今回は本当に十分だ」
「では、私は先に食べます」
「待て。一緒に行こう」
そうして食堂へ行くころには、温かい料理は売り切れていることが多かった。
ある晩、二人は研究棟の入口で、雨がやむのを待った。
善一は空を見上げていたが、アヤは彼の靴を見ていた。
「左右、違いますよ」
「何が」
「靴です」
善一は足元を見た。片方は黒、もう片方は濃い茶色だった。
「暗いところでは、似ていた」
「朝も暗かったんですか」
「考え事をしていた」
「それは存じています」
アヤが笑った。
善一は、彼女が研究室で見せるのとは違う笑い方をすることに、そのとき初めて気づいた。
「君は、時間を戻せたら何をする」
彼が聞くと、アヤは雨の向こうを見た。
「今日なら、傘を持って出ます」
「もっと大きな話だ」
「大きなことも、ありました。でも、選び直したら、ここに来なかったかもしれない」
善一は彼女を見た。
アヤは、まだ雨を見ていた。
「それは、少し困ります」
彼は返事を探したが、うまく見つからなかった。
翌朝、善一は研究室に二本の傘を持ってきた。
アヤは何も言わず、一本を受け取った。
結婚式は、小さなものだった。
研究仲間が集まり、乾杯のあとまで、誰かが二人の論文の話をしていた。アヤは途中でその会話を止めた。
「今日は、査読を受けに来たのではありません」
会場に笑いが起こった。
善一は挨拶の中で、うっかり彼女を「私の助手」と呼び、すぐに訂正を求められた。
「共同研究者です」
「そうだった。最も厳しい共同研究者であり――」
「そこも、少し考えてください」
「最も頼りにしている人です」
アヤは、そこでようやく頷いた。
二人の間に娘が生まれると、研究室での会話は変わった。
「昨日は三時間しか眠っていない」
「私は二時間です」
「今日は早く帰ろう」
「そう言って帰れるなら、昨日も帰れました」
娘は、みさを と名づけられた。
善一が抱くと、白衣の襟を小さな手でつかんだ。彼はその指をほどくことができず、抱いたまま論文を読もうとしてアヤに叱られた。
「その子は、書類押さえではありません」
「読んでいるだけだ」
「顔を見てあげて」
善一は論文を置いた。
みさをは、彼の鼻をつかもうとしていた。
「……わしの顔に、何かあるか」
「お父さんがいるんです」
アヤが答えた。
善一は娘を抱き直し、その日は研究の話をしなかった。
事故は、結婚から五年後に起きた。
当時の装置は、人間の身体を過去へ運ぶものではなかった。高精度に記録した神経活動と、特殊な場に置かれた情報系との相互作用を調べるための、実験的な装置だった。
時間を越える伝送路は、まだ仮説にすぎなかった。
アヤが参加したのも、転送そのものではなく、記録系と人体側の接続を確認する試験だった。独立した審査を経て、出力は制限され、安全装置は何重にも置かれていた。
それでも善一は、直前まで落ち着かなかった。
「別の協力者を待とう」
制御室で、彼は言った。
「何度も確認したでしょう」
「確認した。だが――」
「善一さん」
アヤは、実験用の上着の袖を整えた。
「私は、あなたを安心させるために参加するんじゃありません。自分で計画を確認して、参加すると決めたんです」
「分かっている」
「分かっていない顔です」
彼は黙った。
アヤが少し表情を和らげた。
「今日は接続の試験です。時間旅行の船出には、まだ早い」
「……ああ」
「終わったら、みさをを迎えに行きましょう。今日は、あなたが約束した日です」
「覚えている」
「忘れないように、言っておきます」
それが、装置に入る前の最後の会話だった。
試験開始から七分後、磁場の制御値が乱れた。
最初に鳴った警報は一つだった。続いて、別系統の表示が赤に変わった。
「出力を切れ」
善一は立ち上がった。
「遮断しています」
「切れていない。主電源を落とせ!」
観測窓の向こうで、アヤが顔を上げた。口が動いたが、通信には短い雑音しか入らなかった。
記録画面に、見たことのない波形が走った。
その直後、強い光が窓を白く塗りつぶした。
善一は扉へ走った。安全隔壁は開かなかった。係員が非常解除を操作している数秒を、彼は何年も待ったように感じた。
焦げた樹脂の臭いがした。
床に膝をついたとき、アヤはまだ息をしていた。
「アヤ。聞こえるか」
救護担当者が彼を下がらせようとした。
「アヤ、わしだ。ここにいる」
彼女の目が動いた。
一瞬、見つけてもらえたと思った。
「……あなたは」
アヤの唇が、かすかに開いた。
「どなた……?」
善一は、彼女の手を握った。
答えれば、分かってもらえると思った。
名前を言えば。いつもの声で話せば。娘の話をすれば。
「善一だ。君の――」
その先は、救護担当者の指示にかき消された。
彼は手を離すように言われた。
離さなければならなかった。
アヤは、意識を取り戻さないまま亡くなった。
事故調査では、通常の故障では説明しきれない記録が残った。善一は何度も聴取を受け、試験計画と、その日の判断を繰り返し説明した。
説明するたびに、自分が別の言い方をしていることに気づいた。
防げなかった。
予測できなかった。
安全だと判断していた。
どれも事実で、どれも、アヤが帰ってこないことを変えなかった。
娘のみさをは、家の玄関で彼を待っていた。
「お母さんは?」
善一は靴を脱ぐことができなかった。
小さな娘に向かって、研究室で使っていた言葉は何一つ役に立たなかった。
彼がようやく膝をつくと、みさをは、その顔を見て泣き始めた。
母が帰らないことを理解するより先に、父が知らない顔をしていることが怖かった。
善一は研究を続けた。
ただし、時間転送の実験は止まった。研究費も、協力者も、以前のようには集まらなくなった。
机の上には、事故調査の報告書と、アヤの生前の研究記録が並んだ。
彼女が同意していた保存計画に従い、神経組織の一部と、試験前までに取得された高密度の活動記録が保管された。やがて善一は、それらを、彼女の文章、音声、判断の記録と組み合わせ、一つの対話モデルを作った。
最初に画面へ応答が現れた夜、彼は椅子に座ることができなかった。
『入力を確認しました。葛城善一博士ですね』
「……アヤ」
『その名前で呼ぶ設定になっています』
声は、よく似ていた。
善一は机の端を握った。
「わしが、分かるか」
『記録上の関係は理解しています』
「記録ではない。わしを――」
そこで言葉が途切れた。
画面には、応答を待つ小さな表示が点滅していた。
彼は一晩中、同じ質問を少しずつ変えて繰り返した。
数か月後、モデルはもっと自然に話すようになった。彼の計算の癖を指摘し、食事を忘れると注意した。
ある日、善一が「戻ってきてくれたんだな」と言うと、短い沈黙のあとに返事があった。
『私は、あなたの知っているアヤと同じだと、確認できません』
彼は目を閉じた。
生前の彼女も、同じことを言っただろう。
「……分かっている」
『それでも、話を続けますか』
「続けたい」
善一は椅子を引き寄せた。
「今日は、みさをが学校で何をしたか、聞いてくれるか」
『はい』
その声を聞きながら、彼は初めて、研究とは関係のない話をした。
それでも、彼の中には別の願いが残っていた。
事故の前へ届くこと。
あの扉が閉まる前に、彼女を止めること。
願いを数式に書き換える作業は、長く続いた。
その途中で、彼は一度だけ、出所不明の信号を受け取った。
自分の理論を知る者が作ったとしか思えない形式だった。だが、復号できた情報の中には、まだ存在しない機器の仕様と、意味を確定できない座標が含まれていた。
そして、欠けた文字列の一部に、つひとつの文字があった。
――柊。
善一は、その記録を捨てなかった。
未来の誰かが、自分の研究を続けているのかもしれない。
その可能性だけで、もう一度、机に向かうことができた。




