【第1幕】空一郎の旅立ちと遭難 Prologue 現代
祖父の書斎には、触ってよいものと、触ってはいけないものがあった。
壁いっぱいの本棚も、古い望遠鏡も、机の隅に置かれた歯車だらけの時計も、葛城善一は孫たちに好きに触らせた。分解してしまっても、叱るより先に「何が分かった」と尋ねる人だった。
ただ一つ、窓辺の銀色の箱だけは違った。
「じいちゃん。これ、何?」
空一郎が尋ねると、善一は読んでいた論文から顔を上げた。
「大事な人を、待っている箱だ」
「中にいるの?」
「……そうだな。いるともいえるし、いないともいえる」
「また、それ」
長兄の陸一郎が眉を寄せた。
「答えになってないよ。存在するか、しないか、どっちかでしょう」
「陸。世の中には、その二つで分けると、こぼれてしまうものがある」
「じゃあ、分け方が悪いんだ」
善一は一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
「うむ。そっちから来たか」
次兄の海一郎は会話に加わらず、銀色の箱の背面をのぞき込んでいた。
「冷却してる。普通の計算機じゃないね。こっちの端子、昔の規格だ」
「海。そこは抜くなよ」
「抜かない。見るだけ」
「お前の『見るだけ』は、信用できん」
海一郎の足元では、宙結が両手で絵本を押さえていた。兄たちが箱に集まってしまい、読んでもらっていた物語が途中になっている。
「じいじ。その人、さみしくない?」
善一の笑いが、ふっと止まった。
宙結は銀色の箱を見上げていた。
「ずっと箱の中で待ってるんでしょう」
善一は眼鏡を外した。レンズを拭くように指でつまみ、しばらく何も言わなかった。
「……だから、時々、話しかけるんだよ」
「じゃあ、わたしもおはなしする」
「もう少し大きくなったらな」
「なんで?」
「その人に、ちゃんとお前の声を聞いてもらえるように、じいじが準備をしないといけない」
宙結は納得しきれない顔で、それでも頷いた。
空一郎だけは、箱から目を離さなかった。
待っている人がいる。
その人は、まだ帰ってこない。
理屈より先に、そのことが胸に残った。
善一の書斎は、孫たちにとって秘密基地だった。
窓の外には、小さな庭がある。雨上がりには土の匂いが入り込み、夏には網戸の向こうから蝉の声が降ってきた。本棚には物理学の専門書と、子ども向けの図鑑が混じって並んでいた。
善一は、難しい本を高いところに隠さなかった。
「読めなくても、開いてみればいい。今は分からんものでも、あとで見覚えがあると思うことがある」
「じゃあ、読んだことになる?」
空一郎が聞く。
「ならん」
「なんだ」
「だが、怖くはなくなる」
机には、孫たちが拾ってきた石まで並んでいた。
ある日、空一郎が庭で見つけた黒い石を持ち込むと、善一は小さな秤と拡大鏡を出してきた。
「何の石?」
「まず、お前は何だと思う」
「隕石」
「理由は」
「かっこいいから」
陸一郎が呆れたように息をついた。
「それは理由じゃない」
「でも、隕石だったらいいだろ」
「そう思うのと、そうであるのは別だよ」
「二人とも、そこが大事だ」
善一は石を机に置いた。
「空は、何があってほしいかを考えた。陸は、それをどう確かめるかを考えた。両方あれば、研究が始まる」
海一郎が、小さな磁石を持ってきた。
「磁石につくか試そう」
「よし。ただし、ついたら隕石と決まるわけじゃないぞ」
「分かってる」
「僕も分かってる」
空一郎が慌てて言った。
善一は笑いながら、その黒い石を四人の真ん中に置いた。
石は、ただの石だった。
けれど、その午後、子どもたちは地球の内部と、宇宙を漂う岩塊と、何億年もかけて山が削られる話を聞いた。
空一郎は夕食の席まで石を持っていた。
「食卓には置かないで」
母のみさをに注意されても、しばらく掌の中で握っていた。
ついさっきまで庭に転がっていたものが、急に大きな世界につながってしまった。その不思議を、まだ手放したくなかった。
三兄弟は、同じ話を聞いても、別々のものを持ち帰った。
陸一郎は、善一の説明の矛盾を見つけた。
「前には、時間は戻らないって言ったよね」
「普通の方法では、だ」
「今日は戻れるかもしれないって言ってる」
「だから、その『普通ではない方法』を考えている」
「まだ、できてないんでしょう」
「できていたら、こうしてお前に叱られてはおらん」
海一郎は、仕組みを知りたがった。
善一が使わなくなった補助脳の試作機を譲ると、数日のうちに外装を開け、接続端子を調べ、動かない部品を机の上に並べた。
「元に戻せるか」
「たぶん」
「たぶんか」
「戻すだけなら、ばらさない方がいい。少しよくしたいんだ」
善一は、返事の代わりに工具箱をもう一つ持ってきた。
空一郎は、聞いたことを試したがった。
揚力の説明を聞いた翌日には、傘を持って物置の屋根に上がった。
「飛べると思った」
降ろされたあと、彼は真顔でそう言った。
「傘は翼じゃない」
陸一郎が怒った。
「分かってる」
「分かってたら上がらない」
「じゃあ、何を使えば飛べるんだよ」
その晩、父の俊介に長く叱られた空一郎は、翌朝には紙飛行機を折っていた。
宙結は、そんな兄たちの間を歩き回った。
陸一郎が説明を始めると聞き役になり、海一郎が作業に夢中になると工具を渡し、空一郎が叱られると、隣に座って菓子を半分に割った。
「これ、あげる」
「宙結の分、なくなるぞ」
「半分ある」
空一郎は菓子を受け取り、少しだけ肩を起こした。
彼女は兄たちのように大きな声で議論をしなかった。けれど善一は、時々、その小さな質問に長く考え込んだ。
「じいじ。昔に戻ったら、昔の人はびっくりする?」
「するだろうな」
「じゃあ、先にお手紙を出さないと」
それを聞いた善一が、机の引き出しに手をかけたことがある。
中から出てきたのは、黄ばんだ記録用紙だった。
「……昔、手紙のようなものを受け取った」
海一郎が顔を上げた。
「誰から?」
「それが、分からん」
「名前がなかったの?」
「名前はあった。ただ、それを書いた相手が、まだ生まれていない可能性があった」
陸一郎がすぐに言った。
「いたずらじゃない?」
「わしも、そう考えた」
「今は?」
善一は記録用紙を広げた。
細かな波形の下に、短い文字列が印刷されている。一部は欠け、何度も復号を試みたらしい書き込みが余白を埋めていた。
「未来から届いた信号かもしれん」
「未来のじいちゃんから?」
「いや。もっと先かもしれない」
空一郎は身を乗り出した。
「僕たち?」
善一は、彼の顔を見た。
「そうだったら、うれしいな」
海一郎だけは、記録の端に書かれた数値を指で追っていた。
「でも、この座標、おかしくない?」
「どこが」
「時刻の誤差にしては、ずれ方がそろってる。時計が間違ってるんじゃなくて、場所を表す方が足りないみたい」
善一は、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……それは、わしも気にしている」
その日は、それ以上の話をしなかった。
庭からみさをが夕食を呼び、空一郎は宙結の手を引いて走っていった。陸一郎は記録用紙を折らないように片づけ、海一郎は最後まで座標を見ていた。
やがて、その会話も、ほかの数え切れない思い出に埋もれていった。
善一が小さなノートを孫たちに託したのは、それから数年後のことだった。
表紙は紺色で、四隅が擦り切れていた。
「研究ノート?」
陸一郎が尋ねた。
「研究の失敗と、忘れたくないことを書いたノートだ」
「成功したことは?」
「成功は、論文に書けばよい」
海一郎が中を開く。数式に交じって、配線図や買い物の覚え書きがあった。紅茶の染みの残る頁には、善一とは違う筆跡で「計算の前に昼食」と書かれている。
「これ、誰の字?」
「アヤだ」
善一は短く答えた。
空一郎が、その頁をのぞき込んだ。
「おばあちゃん?」
「ああ」
「会いたかった?」
善一はすぐには答えなかった。
窓辺の銀色の箱から、冷却装置の低い音が聞こえていた。
「今でも、会いたい」
宙結が、善一の袖を握った。
陸一郎はノートを閉じようとしたが、善一が最後の頁を開いた。
そこには、少し震えた字で書かれていた。
――空間は曲がる。時間は揺らぐ。だが、愛と意志だけは、決して消えない。
「これは、物理の法則?」
陸一郎が聞いた。
「違う。わしの願いだ」
「証明は?」
「まだできん」
空一郎は、その文字を見つめた。
「じゃあ、僕たちが確かめればいい」
善一は笑おうとした。けれど、その前に一度、唇を結んだ。
「……遠くへ行くときは、帰る方法も考えておけ」
「分かってるよ」
「空。お前に言っている」
「だから、分かってるって」
その返事を聞いて、兄たちは顔を見合わせた。
善一も、ようやく笑った。
まだ誰も知らなかった。
帰るための座標を、家族全員で探し続ける日が来ることを。
そして、そのノートが、善一の知らない空の下で、別の子どもたちの手に渡ることを。




