第六十三章 叔母の返事
サラの死から三週間後、星司は試験場へ戻った。
まだ左腕を十分に動かせず、上着の袖を通すのに時間がかかった。
玄関で待っていた灯花が、手を伸ばした。
「手伝ってもいい?」
彼は頷いた。
以前なら、黙って袖を引いていただろう。
今は、触れる前に尋ねてくれる。
それがありがたく、同時に、自分の変わってしまったところを教えられるようでつらかった。
「迎えは、夕方でいい?」
「一人で帰れる」
「分かった。夕食は届ける」
「灯花」
妹が顔を上げた。
「毎日は、来なくていい」
「毎日は来ない。来られない日は、先に言う」
彼女は襟を直し、扉を開けた。
星司は礼を言って外へ出た。
試験場の旧排水機は、まだ覆いの下にあった。
調査のため、配管も床も、必要な場所以外は動かされていない。
星司は離れた場所から見た。
自分が倒れた扉枠。
サラが立っていた点検口。
記録には、距離と時刻が書いてあった。
その数字を読んでも、指先に触れた袖の感触は説明できなかった。
「今日は、どこから始めますか」
若い試験員が尋ねた。
事故の日、星司の上着を引いた青年だった。
「机で、受け入れ記録を読む」
「現物は?」
「独立した調査班が見る。僕は当事者だから、勝手に触れない」
青年は頷いた。
星司は歩き出し、途中で振り返った。
「引き止めてくれて、ありがとう」
青年が目を伏せた。
「お礼を言われることでは」
「言っておきたいんだ」
それだけ伝え、彼は事務所へ入った。
同じ朝、柊商会には銀行の担当者が来ていた。
ヘルダー機工と関係会社への家宅捜索が行われ、支払指図と、製造番号を付け替えた記録が押収されていた。
試験場の事故に関する供述から、橋の補強材を扱った職人の名も出た。
別々だった二つの調査が、同じ会社へ行き着いていた。
「共同倉庫事業の運転資金は、継続してお貸しできます」
銀行の担当者は言った。
「ただし、関係会社への支払いは、個別に確認させてください」
暁人は頷いた。
以前より条件はよかった。
ヴァルデック側に近い投資商会は、持っている鉄道株の一部を手放す相談まで始めていた。
商会の会計主任が、客の帰ったあとで言った。
「買い戻せるかもしれません」
「資金は」
「一度には無理です。ただ、港の収入が戻っています」
暁人は窓の外を見た。
荷馬車が、朝の道を進んでいる。
欲しかった知らせが、来るようになった。
弟の家には、もう夕食を待つ人がいなかった。
エルンスト本人への聴取は、まだ続いていた。
彼が署名した融資契約と、部材の差し替えを命じた行為の間には、幾人もの担当者がいた。
その一人が、供述を変えた。
橋の補強材を正規品から安い品へ替え、差額を別の勘定へ回した。
検査番号は写せばよい。
現場では荷を全部開かない。
そのように説明されていたという。
誰に説明されたのか。
供述者は、ヴァルデック家の側近の名を挙げた。
だが、エルンストは、その側近が権限を越えて行ったと主張していた。
「本人へ届くには、もう一段、裏づけが必要です」
顧問弁護士が言った。
「何年、かかる」
「期限を約束することはできません」
「人が、また死んだ」
「はい。だからこそ、確かな手続きを踏む必要があります」
暁人は机へ両手を置いた。
言い返せる言葉が、幾つも浮かんだ。
そのどれも、父の前で口にしたくないものだった。
その夜、クララは夫のために食事を温め直した。
澪は隣室で眠っていた。
「お父様のところへ、行ってきました」
彼女が言った。
暁人は匙を置いた。
「そう」
「ご自分は命じていないと、おっしゃっています」
クララは、夫の顔を見た。
「あなたに、そう伝えてくれと」
「君が、伝える必要はない」
「でも、私には、ほかに何ができるのか分からなくて」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「サラさんが亡くなったのに、父の言葉を持ってくるのは、間違っているでしょうか」
暁人は答えられなかった。
クララは続けた。
「誰かをかばうために、違うことを言いたくありません。でも、父が言っていることも、あなたが調べていることも、私には、まだ分からないのです」
「君が決めなくていい」
「あなたは、決めているのですか」
暁人は、彼女を見た。
クララの目には、不安があった。
夫の答えを、まだ信じようとしていた。
「調べている途中だ」
彼は言った。
彼女は小さく頷いた。
温め直した皿から、湯気が消えていった。
ナグナリエの保管施設へ、暁人が一人で来たのは翌日の夜だった。
CHUYUの義体は、壁際の椅子に座っていた。
長年の使用で傷んだ関節を守るため、歩く時間を減らしている。
顔を上げる動きにも、わずかな間があった。
《遅い時間ね》
「話したいことがある」
《座って》
彼は、子供のころにも使った椅子を引いた。
幼い暁人は、ここで祖父の故郷の言葉を教わった。
読めない文字に困ると、CHUYUは紙へ大きく書いてくれた。
その叔母へ、今から頼もうとしていることを、彼は何度も頭の中で言い直した。
「祖父が使った、上空から攻撃する装置は、残っているのか」
義体が動きを止めた。
《なぜ、それを聞くの》
「ヴァルデックに関係する施設を、調べられるはずだ」
暁人は言った。
「記録を隠している場所も、逃げる準備も。衛星と機体を使えば――」
《観測で分からないことはある。地下も、建物の中も、すべて見えるわけではない》
「それは、知っている」
《では、攻撃装置は何に使うの》
彼は机の端を握った。
「使えると分からせるだけでも、相手は逃げられなくなる」
《誰に、何をさせたいの》
「証拠を出させる」
《出さなければ?》
暁人は黙った。
CHUYUは待った。
機械の冷却音が、壁の向こうで続いていた。
「これ以上、誰かを死なせたくない」
ようやく、暁人は言った。
CHUYUの声は変わらなかった。
《その目的に、攻撃と威嚇は使わせられない》
「叔母さん」
《暁人。あなたの父も、その父も、使った結果を記録した。その記録を読んでから、もう一度、目的を言って》
卓上に、記録の一覧が現れた。
命令を出した時刻。
想定した標的。
実際に及んだ被害。
亡くなった者の名。
未来の武器の構造を示す情報ではなかった。
それを使った人間が、何をしたかの記録だった。
暁人は目を落とした。
父の署名があった。
祖父の声で残された説明もあった。
《見ることはできる。あなたが当主だからではなく、結果を知るべき人だから》
「父さんたちには、力を貸した」
暁人は言った。
「僕には、貸さないのか」
《あのときの判断が、あなたの命令に従う理由にはならない》
義体の手が、机へ置かれた。
《私は、あなたを助けたい。でも、この方法では助けない》
彼はその手を見た。
小さな自分を抱き上げてくれた手だった。
今日は、自分の方へ伸びてこなかった。
扉の開く音がした。
星司が立っていた。
定期点検の予定で、保管責任者と来たのだった。
室内の表示を見て、何が話されていたのかを察した。
「兄さん」
暁人は振り向かなかった。
「今の話を、聞いた?」
「最後だけ」
星司はゆっくり入ってきた。
「武器を使う話だったんだね」
「使うと決めたわけじゃない」
「脅すつもりなら、相手が従わなかったときに使うかどうか、決めなければならない」
暁人が顔を上げた。
「お前も、叔母さんと同じことを言うのか」
「同じことだからだよ」
星司は机の向こうに立った。
左腕は、まだ不自由そうだった。
「サラのことで、僕のためにやろうとしているなら、やめてほしい」
「お前のためだけじゃない」
「それでも、僕やサラの名を理由にしないでくれ」
暁人は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦った。
星司は退かなかった。
翌週、星司は管理方法の変更案を提出した。
Noös Pouchに収められた機材、資材、記録と、それを扱う保管施設。
費用を出す柊商会だけで利用を決めず、技術担当者、大学側の管理者、記録の保全を担う者が、それぞれの責任を持つ。
CHUYUへの指示も、当主の私的命令と、施設の正式な運用とを分ける。
暁人は、提出された紙を最後まで読んだ。
「家の金で維持してきた設備だ」
「その金の記録も、残す」
「持ち出したものが壊れたら、誰が補う」
「だから、物ごとに利用と責任を決める。僕も、一人で持ち出せるようにはしない」
「当主には、決めさせないということか」
「当主一人では、決められないようにする」
星司は言った。
暁人は、その違いを理解していた。
理解したうえで、自分から権限を取り上げる話に聞こえた。
会議には、灯花も呼ばれた。
彼女は兄弟の間へ座らず、二人が見える横の席へ座った。
「記録の保全については、私も担当します」
暁人が妹を見た。
「お前まで?」
「誰の側につくかという話にしないで」
灯花は答えた。
「暁人兄さんがした判断も、星司兄さんが見落としたことも、同じように残す。そのために、どちらか一人に消せる権限を持たせたくない」
「僕が、消すと思うのか」
「今まで消さなかったことと、これからも誰にも消せないようにすることは、別でしょう」
父の声に似ていた。
暁人は一瞬、目を伏せた。
星司は何も言わなかった。
会議の終わりに、二人は変更案を持ち帰ることになった。
その場では、署名できなかった。
皆が帰ったあと、CHUYUは義体の右手をゆっくり閉じた。
指の一つが、途中で止まった。
黎明を遺跡で引き戻したあと、何度も修理を重ねた手だった。
保管責任者が近づいた。
「また、調整が必要ですね」
《うん。次の点検で》
「記録の複製は、進めますか」
《進めて。紙へ残せるものは、紙にも。読み出す装置が必要なものは、その手順も一緒に》
責任者は頷いた。
扉の近くには、以前、暁人と星司が並んで座っていた長椅子があった。
今日は、二人の外套が別々の場所に掛けられていた。
CHUYUは視線を机へ戻した。
利用申請の欄に、暁人の名がある。
その下に、星司の異議申立てがある。
彼女は、どちらも消さずに保存した。




