第六十二章 帰らなかった人
星司は、サラの名を呼んだ。
自分の声は聞こえなかった。
蒸気の噴き出す音が、建屋の壁と屋根を震わせていた。
白い霧の向こうで、人が倒れる。
サラが入口にいた作業員を引き離し、柱の陰へ押し込んだ。その姿までは見えた。
星司はそちらへ走りかけた。
足元を、何かが転がった。
割れた保温材だった。
彼は止まった。
噴き出す蒸気へ飛び込めば、自分も倒れる。
「元弁を閉めろ!」
今度は、喉が痛むほど叫んだ。
機関係が反対側の建屋へ駆けた。
星司は近くの作業員をつかみ、外へ向かせた。
「全員、離れて! 裏の通路は使うな!」
警報の鐘が鳴った。
電気の警報ではなかった。
入口の綱を、記録係が両手で引いていた。
試験場の電源が切られ、新しいポンプの回転音が落ちていく。
それでも、旧排水機へ送られる蒸気は、すぐには止まらなかった。
長い管の中に残った圧が、裂けた場所から噴き続けている。
星司は柱の陰へ回った。
熱い飛沫が、左の頬と首へ当たった。
息を吸おうとしたところで、誰かに上着を引かれた。
「そっちは駄目です!」
若い試験員だった。
星司は彼の腕を振りほどきかけた。
白い霧の中から、サラの声がした。
「星司、下に二人!」
彼は顔を上げた。
下の点検区画。
床より低い場所に、まだ作業員が残っていた。
サラは、閉じかけた点検扉へ肩を当てていた。
外れた配管の一部が手すりへ落ち、扉の開く範囲を塞いでいた。
裏の通路には資材が置かれている。
逃げるには、こちらへ上がるしかなかった。
「一人ずつ!」
サラは下へ声をかけた。
石床へ掌を当てる。
扉脇の石が低く鳴り、ずれた手すりがわずかに持ち上がった。
隙間が開く。
最初の作業員が身体を横にして抜け、もう一人へ手を伸ばした。
星司は反対側から近づいた。
サラの顔が見えた。
目を細め、息を詰めている。
「もう、離れて!」
彼は叫んだ。
サラは答えず、二人目が通るのを見ていた。
管を支えていた金具が外れた。
重い配管が沈み、手すりをさらに押した。
サラの身体が傾いた。
星司は腕を伸ばした。
指先が、彼女の袖へ触れた。
つかんだと思った。
次の瞬間、横から押す力に身体をさらわれた。
風だった。
サラが返した掌を、星司は見た。
彼の背中が扉枠へぶつかった。
床へ落ちる。
息が抜けた。
目の前を、最後の作業員が這っていった。
星司は起き上がろうとした。
左腕に力が入らなかった。
蒸気の音が弱くなったとき、空にはまだ明るさがあった。
救護班が入った。
星司は壁へ背を預け、誰かに頬を冷やされていた。
「妻が、中に」
自分が同じ言葉を繰り返していることに、彼は気づかなかった。
「分かっています。救出しています」
「サラです。灰色の耳の」
「分かっています」
担架が通った。
星司は立とうとした。
膝が折れ、試験員に支えられた。
サラの片手が、担架の端から下がっていた。
手首には、朝、彼が留め直した革の帯があった。
術を使うときに袖が落ちないよう、二人で長さを直したものだった。
「サラ」
彼女は振り向かなかった。
医療院で、灯花は兄の名を見つけた。
負傷者の一覧の途中に、柊星司とあった。
その少し下に、サラの名があった。
「私は受付と連絡を続けます」
灯花は、そばの職員へ言った。
「家族への説明は、担当の先生からお願いします」
言葉を最後まで言ってから、紙を持つ手が震え始めた。
椅子の背へ手を置き、息を整えた。
次の担架が入ってくる。
彼女は道を空けた。
運ばれてきた男が、妻を呼んでいた。
灯花は名を尋ね、記録へ書いた。
自分の兄へ走っていきたかった。
だが、この男にも、知らせを待つ家族がいた。
暁人が着いたとき、星司は処置室にいた。
頬と首に布が当てられ、左腕は固定されている。
「星司」
弟は扉を見た。
兄だと分かると、すぐに視線を廊下へ戻した。
「サラは」
「今、聞いてくる」
「僕には、何も言ってくれない」
暁人は、処置を続ける医師を見た。
医師は短く首を振り、廊下へ出るよう目で示した。
外に、別の医師が待っていた。
暁人は数歩近づいた。
説明は、ゆっくりだった。
救出されたときの状態。
大きな損傷があったこと。
手を尽くしたが、呼吸も脈も戻らなかったこと。
暁人は途中で、一度、聞き直した。
聞き取れなかったのではなかった。
星司へ伝えたのは、担当の医師だった。
暁人と灯花は、その場にいた。
星司は最後まで聞いた。
「会えますか」
「お会いできます」
「では、行きます」
彼は右手で寝台の縁を押した。
立ち上がれず、もう一度やり直そうとした。
灯花が隣へ膝をついた。
「椅子を持ってくる。座ったまま行こう」
「歩ける」
「分かってる。でも、今は座って行こう」
星司は、彼女の顔を見た。
それから、小さく頷いた。
サラは、別の部屋にいた。
顔の周りが、静かに整えられていた。
星司は椅子を寄せてもらい、右手を伸ばした。
頬へ触れようとして、途中で止まった。
代わりに、彼女の手を取った。
爪の脇に、少し土が残っていた。
午前中、水路の測量をしたときのものだと思った。
「今日は、僕が先に帰るはずだった」
彼は言った。
灯花が口元を押さえた。
「一緒に見ようって、言ったんだ」
星司は妻の手を包んだ。
「待ってて、と」
サラの返事を、思い出そうとした。
あのとき、彼女は何と言っただろう。
何度考えても、蒸気の音ばかりが戻ってきた。
葬儀は、山の集落で行われた。
サラの祖母は、棺の前へ椅子を置かれても座らなかった。
星司の左腕を見て、まず尋ねた。
「眠れているかい」
星司は首を振った。
「そうか」
老女は、それ以上、励まさなかった。
サラが式の日に植えた木のそばへ、集落の子供たちが花を置いた。
まだ細い幹だった。
新しい葉が、何枚も出ていた。
暁人は少し離れて立っていた。
集落の代表たちが、事故の調査へ自分たちも加わりたいと求めた。
術者が現場で何を感じ、どの作業を担っていたか。
会社の記録だけでは残らないことがある。
暁人は受け入れた。
そのやり取りを、星司は聞いていた。
事故で亡くなったのは、サラ一人ではなかった。
旧排水機の係員一人と、補修に入っていた作業員一人も戻らなかった。
病院には、まだ重い傷を負った者がいた。
サラに入口から引き離された若者は、葬儀で星司へ頭を下げた。
「私が、逃げるのが遅くて」
星司は、しばらく若者を見た。
「君が、悪いんじゃない」
「でも」
「彼女が助けたかった人に、死ねばよかったと思ってほしくない」
言い終えると、彼は顔を伏せた。
自分にも、同じことを言わなければならない。
だが、できなかった。
家へ戻ると、食卓に鍋が置いてあった。
事故の朝、サラが仕込んだものだった。
近所の女性が、傷まないうちにと、残っていた煮込みを片づけてくれていた。
鍋は洗われ、いつもの場所へ戻されていた。
星司は蓋を開けた。
何も入っていなかった。
後ろで、灯花が立ち止まった。
「何か、温かいものを作ろうか」
「いらない」
「少しだけでも」
「……二人分、作ってしまうから」
灯花は、返事をしなかった。
星司は鍋の蓋を戻した。
「僕は、一人分が、どれくらいなのか分からない」
妹は椅子を引いた。
「今日は、私も食べる」
彼は頷かなかった。
断りもしなかった。
調査で、壊れた弁箱の破片が回収された。
受け入れ時に水圧試験をしたものと、現物の細部が違っていた。
取付け後の追加作業で、交換された疑いがあった。
試験場の保管庫には、取り外された方とみられる弁箱が残っていた。
刻印は似せてあった。
星司は、写真と測定結果を寝台で読んだ。
検査に合格した物を確かめても、その後で替えられれば守れない。
また、同じことが起きた。
彼は報告書を閉じた。
次の紙には、追加作業費の支払いについて書かれていた。
商会側が、支払いの実行を待っていたこと。
現場への事前照会を控えたこと。
その判断をした者の名があった。
暁人が訪ねてきたのは、その翌日だった。
星司は、自宅の居間へ通した。
サラが座っていた椅子へ、兄が座りかけた。
「そこは、やめて」
暁人は動きを止め、別の椅子を引いた。
机の上に、調査資料があった。
「読んだんだね」
「ああ」
星司は、右手で一枚を押し出した。
「追加作業の費用を、別の会社が払うと知っていた」
「知っていた」
「僕には、知らせなかった」
暁人は頷いた。
「通常の申請で、現場が確認すると考えた。取引を止めれば、相手が――」
「記録を消すと思った?」
「……そうだ」
星司は、兄を見た。
「僕には、品物の検査を頼んだ。相手の動きを全部知っていたわけじゃない」
「分かっている」
「分かっていなかったから、知らせなかったんだろう」
暁人は答えられなかった。
「あのとき、納入を止めると言った」
星司の声は低かった。
「兄さんは、受け取っても使わなければ危険はないと言った。だから僕は、検査と作業の管理で守れる範囲を考えた」
「僕の判断だった。責任は取る」
「どうやって」
暁人は顔を上げた。
「費用の話じゃない」
「分かっている」
「サラは、帰ってこない」
廊下で、灯花の足音が止まった。
星司は兄の前へ、もう一枚の紙を置いた。
例の支払いによって得られた、承認者の記録だった。
「これは、役に立ったの?」
暁人の唇が動いた。
「捜査を進める資料には、なった」
「そう」
星司は頷いた。
それから、兄をまっすぐ見た。
「敵がやったことを暴くためなら、僕たちの人間が死んでもよかったのか」
「そんなことは、思っていない」
暁人は即座に答えた。
星司は目を伏せた。
「僕も、そう思う。兄さんは、死なせたいと思っていなかった」
その言葉に、暁人は息を吸った。
「でも、止めるより、待つ方を選んだ」
星司は続けた。
「そこに、僕たちがいたんだ」
灯花が、扉を叩いた。
「入ってもいい?」
二人とも答えなかった。
彼女は少しだけ扉を開けた。
暁人が立ち上がった。
「今日は、帰る」
星司は引き止めなかった。
玄関で、灯花は兄へ外套を渡した。
「今は、言葉を重ねない方がいい」
「分かってる」
暁人は袖へ腕を通せず、一度、外套を持ち直した。
妹が手を貸した。
幼いころには、何度もしたことだった。
「灯花」
「うん」
「僕は――」
そこから先が、出なかった。
灯花は待った。
しかし、言えない言葉を代わりに言ってはくれなかった。
暁人が帰ったあと、灯花は居間へ戻った。
星司は机の資料を揃えていた。
「全部、残しておく」
彼が言った。
「弁箱のことも。通路が塞がれていたことも。僕が現場で見落としたことも」
灯花は向かいへ座った。
「うん」
「兄さんの判断も」
彼女は、今度は少し間を置いた。
「うん」
星司は手を止めた。
窓辺に、サラの作業手袋が干してあった。
事故の前日、土を洗って、自分で掛けたものだった。
片方の指先が裏返ったままだった。
星司は立ち上がり、それを直した。
それから、乾いた手袋を両手に載せた。
もう、返す相手はいなかった。




