第六十一章 止めなかった取引
翌日の午後、星司は約束より早く兄の書斎へ来た。
「帰りに、サラのところへ寄るから」
「彼女も大学に?」
「試験場。排水路の測量をしている」
暁人は、机の上から一通の報告書を取った。
「その試験場へ部品を納めている会社のことで、話がある」
星司は椅子へ座らず、差し出された紙を読んだ。
北辰運送の作業控え。
倉庫主任の供述。
清算された下請会社から移された設備と、従業員の名簿。
その先に、現在の納入業者であるヘルダー機工があった。
「ここの鋳物は、うちでも使っている」
「だから、現物を確かめてほしい」
「何を疑っているの」
「橋の部材を差し替えた会社の一部が、名前を変えて仕事を続けている可能性がある」
星司は、報告書を最初から読み直した。
「新しい納入は止める」
暁人は、すぐには頷かなかった。
「受け取った品を、使えと言っているわけじゃない」
暁人は説明した。
「発注を急に打ち切れば、こちらがどこまで知ったか伝わる。まだ、支払いの先が全部つながっていない」
「捜査をするために、注文を続ける?」
「契約と納品を記録として残す。受け入れた品は検査が済むまで使わない。それなら、現場を危険にはさらさずに済む」
星司は机へ紙を置いた。
「捜査側が、そうしてほしいと言ったの?」
「弁護士を通じて相談している。取引を続けること自体を止める権限はないそうだ」
「続けろと言われたわけではないんだね」
「……ああ」
星司は窓の外へ目を向けた。
庭では、クララが澪を歩かせていた。
小さな足がもつれ、母親の膝へぶつかる。クララがしゃがんで、何か話しかけている。
「兄さん。僕が確かめられるのは、渡された品と、見られる記録だ。それで会社の人間を全部信用できるようになるわけじゃない」
「分かっている」
「だったら、条件を残そう。疑わしい品は使用しない。交換も、現場の承認なしにはさせない。異常があれば、取引の調査より先に止める」
「それでいい」
暁人は紙を取った。
星司は、兄が書き終えるまで立って待った。
ヘルダー機工の最初の納入品は、検査で落ちた。
排水設備の弁箱だった。
水を満たして圧をかけると、鋳物の表面へ小さな粒が浮いた。
初めは、拭き残した水のように見えた。
拭いても、同じ場所へ戻ってくる。
「巣がつながっている」
星司が言った。
鋳造の際に内部へ残った空隙が、外まで通じているのだった。
試験員は圧を抜き、弁箱へ不合格の札を結んだ。
納入業者の担当者が、困った顔をした。
「交換します。同じ型を、もう一つ用意しますので」
「同じ製造分は、全部確認する」
「これは、一つだけの不良かもしれません」
「そのために確認するんです」
星司は答えた。
その日のうちに、暁人へ報告が送られた。
報告書を読んだ暁人は、交換費用の処理を調べるよう命じた。
ヘルダー機工は代金を減額せず、別の商会から「品質保証負担金」を受け取っていた。
橋の荷役費を立て替えた投資商会と、同じ銀行口座を決済に使っている。
その名を見つけた監査担当者が、机へ身を乗り出した。
「こちらの会社が、製造の損失を引き受けています」
「なぜ、直接払わない」
「表の契約では、別会社だからです」
暁人は星司の報告を脇へ置いた。
弟が不良を見つけたことで、金が動いた。
動いたから、隠れていたつながりが一つ見えた。
彼は、次の納品予定を尋ねた。
その年の夏、港の試験場には、大きな排水設備が据えられた。
低い倉庫街へ入ってくる水を集め、川へ戻すためのものだった。
新しい岸壁と引き込み線を延ばすには、湿った地盤の水を先に扱わなければならない。
設備の試験を終えても、すぐに全面稼働はしない。
まず一つの区画を受け持たせ、既存の排水機も残す。
サラは、その旧設備を指した。
「新しい方が動いても、これは外さないでください」
現場主任が頷いた。
「予備として残すと聞いています」
「予備でも、毎週動かしてください。止めたまま錆びれば、必要な日に使えません」
星司は、その言葉を点検表へ加えた。
旧設備は蒸気で駆動する、小型の往復ポンプだった。
新しい電動ポンプより効率は悪い。
それでも、別の動力で水を出せることに意味があった。
「また、こっちへ住みつくつもり?」
夕方、サラが星司の机へ包みを置いた。
中には、握ると形が崩れそうなパンが二つ入っていた。
「まだ帰るよ」
「まだ、ではなく、今日は帰るのです」
「あと、この継ぎ目だけ」
星司は図面を指した。
サラが隣へ座る。
「どこですか」
「吸い込み側。少し空気を吸う。水は漏れなくても、空気が入ると揚がる量が落ちる」
「私には、ここと、その隣の継ぎ目の違いが分かりません」
「こっちは圧が高いから、漏れれば外へ出る。こっちは周りより圧が低くなるから、中へ吸う」
サラは頷いた。
それから、パンを彼の手へ持たせた。
「食べながら、口で説明できましたね」
「うん」
「では、帰り道でもできます」
星司は図面を見た。
次に、彼女を見た。
「今日は、僕が負けた?」
「夕食へ帰ることは、負けではありません」
彼は笑って、図面を巻いた。
帰宅すると、玄関の脇に、小さな靴が一足あった。
クララと澪が来ていた。
灯花も、居間で茶を飲んでいる。
「遅かったですね」
クララが立ち上がろうとすると、サラは手で制した。
「座っていてください。今日は、星司が少しだけ長い説明をしていたので」
「少しだけ?」
灯花が兄を見た。
星司は外套を掛けた。
「皆、どうしてここへ?」
「澪が、この前のお皿を気に入ってしまって」
クララが言った。
サラの家には、木の実の絵を焼きつけた小皿があった。
澪はそれを指して、何度も同じ音を口にした。
「それは、食べられないのよ」
クララが説明すると、澪は不満そうに匙を振った。
星司がしゃがんだ。
「僕も、子供のころ、飾りの実を食べようとした」
「そういうことは、教えなくてよろしい」
灯花が言った。
サラは、夫と同じ高さにしゃがんだ。
「今なら、食べない?」
「今は、区別できる」
「よかったです」
澪が、二人を見て笑った。
*
その晩、暁人も迎えに来た。
クララは澪の上着を着せながら、夫へ話しかけた。
「私たちも、今度、お二人をお招きしましょう」
「そうだね」
「お仕事の話は、食後だけにして」
暁人は、星司と顔を見合わせた。
「食後も、ほどほどにします」
サラが答える。
四人で笑った。
灯花は、澪が落とした匙を拾った。
兄弟がこうして笑えると、まだ大丈夫だと思ってしまう。
その安心に頼りたくなる自分を、彼女は少しだけ戒めた。
二週間後、旧排水機の交換部品が届いた。
ヘルダー機工は、以前から、この設備の補修も請け負っていた。
古い管の取り回しに合わせた鋳物が必要で、すぐに別の業者へ替えにくい仕事だった。
星司は、届いた弁箱と接続管を検査させた。
水圧試験に合格。
寸法も、図面の範囲に入っている。
試験員が札を結び、受入簿へ署名した。
サラは、設備全体の図面を見ていた。
「裏の通路は、工事中も使えますか」
「配管を通す間は、一度塞ぐ」
現場主任が答えた。
「では、その間、下の点検区画へ人を入れないでください。出る道が一つになります」
「分かりました」
サラは点検区画の入口へ、作業制限の札を掛けた。
星司は、その札を自分でも確かめた。
同じ日の午後、暁人へ連絡が入った。
ヘルダー機工の責任者が、納入後の追加作業費を、別会社へ請求しようとしていた。
表向きは、現場調整の費用。
その請求先の署名権者に、エルンストの側近がいた。
「請求書と、支払指図が揃えば、供述を裏づけられます」
監査担当者が言った。
「先方へ照会しますか」
暁人は、しばらく考えた。
今、問いただせば、書類は出てこなくなるかもしれない。
「支払いが動くまで、こちらからは聞かない」
顧問弁護士が顔を上げた。
「工事内容については、星司様へ知らせる必要があります」
「追加作業の申請は、現場へ来るはずだ」
「その手続きが守られる保証はありません」
暁人は机の書類を見た。
検査は弟がしている。
作業には承認が要る。
止める権限も渡してある。
「現場の判断に任せる。商会から一律に止めれば、相手は気づく」
弁護士は、返事をしなかった。
「捜査側には、今ある資料を渡してくれ。取引を続けると決めたのは、僕だということも」
暁人はそう付け加えた。
責任を引き受けたつもりだった。
追加作業の知らせは、現場主任の机には届いた。
だが、書面には大きな変更と書かれていなかった。
漏れの点検。
弁の調整。
補修後の確認。
これまでにも行われてきた、短い作業の名が並んでいた。
星司が別の試験区画へ出ている間に、業者の作業員が旧排水機の建屋へ入った。
主任は、その日のうちに終わるものとして受け付けた。
サラが掛けた作業制限の札は、裏の通路が開いたために外されていた。
その後、配管の作業が再開され、通路へ再び資材が置かれたことは、別の帳面に記された。
一枚ずつ見れば、どれも見慣れた記録だった。
同じ時刻に何が重なっているかを、誰も確かめなかった。
その夕方、サラは帰り支度をした星司へ声をかけた。
「先に帰っていてください。下の区画で、朝と水の響きが違うのです」
「一緒に見る」
「あなたは、こちらの試験を終えてから」
「待ってて」
星司は記録係へ、測定の最後の数値を読み上げた。
少し離れた旧排水機の建屋で、蒸気の音が変わった。
いつもなら、一定の間隔で聞こえる排気。
それが、不揃いになった。
サラがそちらを向いた。
「星司」
呼ばれたときには、彼も立ち上がっていた。
建屋の脇で、継ぎ目から白い蒸気が細く吹いている。
「近づかないで!」
星司が叫んだ。
サラは下へ降りようとしていた作業員を引き止めた。
その肩へ手を置き、入口から遠ざける。
次の瞬間、白い筋が大きく広がった。
鋭い音が、構内を裂いた。
暁人の机では、電信係が短い用紙を差し出していた。
例の商会から、ヘルダー機工への支払いが実行されたという。
日付。
金額。
承認者。
追っていた三つが揃っていた。
暁人は立ち上がった。
「原本を確保できるよう、すぐに――」
扉が開いた。
別の職員が、息を切らして立っていた。
「共同試験場から、事故の一報です」
暁人は、持っていた用紙を机へ置いた。
「星司は」
「確認中です」
「サラさんは」
職員は答えられなかった。
暁人は、もう一度、机の電信を見た。
待ち続けた支払いの記録だった。
そのすぐ下へ、事故の知らせが置かれた。




