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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第六十章 帰る家を、二人で


 星司がサラに結婚を申し込んだのは、澪が生まれて二か月ほど経った夕方だった。

 場所は、炭鉱の試験場でも、大学の研究室でもなかった。

 集落から少し離れた、水路沿いの道だった。

 修復された水路には、山の雪解け水が流れていた。

 サラは歩きながら、星司がさっきから同じ紙を出したり、しまったりしているのを見ていた。

「試験結果ですか」

「違う」

「では、読んだ方がよいもの?」

「できれば、読まずに話したい」

「それなら、しまってください。落としそうです」

 星司は紙を内ポケットへ押し込んだ。

 それで、用意していた言葉も分からなくなった。

     

「帝都へ来てほしいんだ」

 最初に、そう言ってしまった。

 サラの足が止まった。

「仕事のために?」

「それもある。でも、今は、その話ではなくて」

 星司は息を整えた。

「僕と、結婚してほしい」

 サラは、しばらく彼を見ていた。

 水路の上を、枯れ葉が一枚流れていった。

「それを言うために、帝都へ来てほしいと?」

「順番を間違えた」

「そうですね」

 星司は俯きかけた。

 サラが続けた。

「私の仕事は、ここにもあります」

「分かってる」

「祖母も、一人にはできません」

「うん」

「帝都で暮らすとしても、山へ戻ります。あなたが一緒に来られないときも」

 星司は頷いた。

「君が僕の家へ移るだけの結婚には、したくない」

 サラの耳が、少し動いた。

「では、どうするのですか」

「二人で考えたい。住む場所も、仕事も。お祖母さんのことも、勝手には決めない」

 彼女は視線を水路へ落とした。

「その答えなら、続きを聞けます」

     

 二人が近しくなったのは、一度の出来事によってではなかった。

 ポンプの試験が遅れ、夕食を逃した星司へ、サラがパンを持ってきた夜。

 術を使いすぎて頭痛を起こした彼女に代わり、星司が記録を書き、読みにくいと言われて書き直した朝。

 雨で列車が遅れた日に、駅の待合室で、それぞれの子供時代を話したこと。

 星司は、家の名を隠して工房へ入りたかったころの話をした。

 サラは、学校で耳の形をからかわれ、髪で隠して帰った日の話をした。

「次の日は?」

 星司が尋ねると、彼女は答えた。

「祖父が、髪を結ってくれました。耳が、よく見えるように」

「何か言った?」

「この子の話を聞くときは、耳ではなく顔を見ろ、と先生に」

 ベイルらしいと思い、星司は笑った。

 サラも笑った。

 そのあと、彼は彼女の子供のころの写真を見たいと言った。

 サラは、少し迷ってから持ってきた。

 髪の結び方が左右で違っていた。

 祖父は剣の手入れより、そちらの方が苦手だったらしい。

     

 結婚の話を祖母へ伝えると、老女は星司を座らせた。

「サラは、朝の機嫌がよくないよ」

「祖母さん」

「知っておいてもらった方がいい」

 星司は真面目に頷いた。

「僕も、考え事をすると返事を忘れます」

「知ってます」

 サラが言った。

 老女は二人を見比べた。

「それなら、返事を待たずに話を進めないことだね」

 彼女は立ち上がり、棚から茶碗を三つ出した。

「住む家は?」

「まだ、これから相談します」

「よし」

 星司が顔を上げた。

「もう決めてきたと言われたら、少し困らせてやるつもりだった」

 サラが笑った。

 星司も、肩から力が抜けた。

     

 暁人が知らせを聞いたのは、その翌週だった。

「おめでとう」

 そう言ってから、彼は弟を見た。

「もっと早く言ってくれてもよかった」

「僕が決める前に、話すことではないと思ったから」

「母さんには?」

「さっき」

「灯花には?」

「母さんの部屋にいた」

「僕が最後か」

 星司は少し考えた。

「ちゅゆ叔母さんには、まだ」

 卓上の端末から声がした。

《今、聞いた》

 暁人が笑った。

 星司も笑った。

 机の上には、事故調査の書類が積まれていた。

 あの日、接触してきた倉庫主任は、すでに自分の弁護士を伴って調査委員会へ供述していた。

 部材を降ろさせたこと。

 別会社の指示で、作業時刻を伝票へ短く記したこと。

 ただし、差し替えた品の出所も、最終的に誰が命じたかも知らないという。

 捜査は続いていた。

 暁人は書類を閉じ、弟のために席を空けた。

「式は、いつごろに?」

「慌てずに決めたい。サラの仕事の区切りもある」

「必要なことがあれば、言ってくれ」

「ありがとう」

 その返事に、まだ隔たりはなかった。

     

 式は、秋に行われた。

 山の集落では、夫婦になる二人が同じ鉢から苗木を植える習わしがあった。

 土地を所有することよりも、世話を続ける約束を重んじたものだと、サラの祖母が説明した。

 星司は、道具を持参した。

 柄の短い鍬と、先の細い移植ごて。

「こんなところまで、自分で作ったの?」

 灯花が尋ねた。

「全部じゃない。柄を少し直した」

「握りやすいです」

 サラが言った。

 それだけで、星司は嬉しそうな顔をした。

 クララは澪を抱き、二人が土を寄せるのを見ていた。

 澪は葉の揺れる方へ手を伸ばした。

「あなたのときには、何を植えましょうね」

 クララが囁く。

 暁人は妻の隣で、娘の頬へ触れた。

 その日は、誰も仕事の書類を持ってこなかった。

     

 二人はナグナリエに、大学の工房へ歩いて通える小さな家を借りた。

 柊家の屋敷からも遠くはない。

 山へ出るための駅にも近かった。

 サラの祖母は移り住まず、冬の厳しい時期だけ滞在することになった。

 結婚して最初に揉めたのは、食卓の使い方だった。

「これは、どこへ片づけたの」

 星司が尋ねた。

「棚へ」

「まだ、計算の途中だった」

「私は、食事の途中で歯車を避けたくありません」

 サラは、卓上へ皿を置いた。

「作業台は、隣の部屋にあります」

「向こうは、光が足りなくて」

「では、灯りを直しましょう」

 星司は少し考えた。

「確かに」

「納得するのが遅いです」

 その晩、彼は隣室の机を窓際へ移した。

 翌日には灯りの位置も変えた。

 食卓から歯車がなくなったのは、三日目だった。

     

 サラは朝、星司より遅く起きた。

 祖母が言ったとおり、起きてすぐは口数が少なかった。

 星司は、それを怒っているのだと思い、一度、前夜の自分の言動を順番に詫びた。

 サラは茶碗を持ったまま、彼を見た。

「まだ、眠いだけです」

「そうなの?」

「はい」

「昨日、帰りが遅かったからでは」

「それは、昨日お話ししました」

 星司は頷いた。

 彼女は茶を一口飲んだ。

「もう少ししたら、普通に話せます」

「分かった」

 翌朝から、星司は茶を置いて、黙って向かいへ座るようになった。

 サラが自分から話し始めるまで、窓の外を見たり、パンを切ったりして待った。

 ある朝、彼女が先に笑った。

「そんなに、息を潜めなくても」

「待つようにと言われたから」

「呼吸は、してください」

     

 冬の初め、灯花が二人の家へ来た。

 夕食へ招かれたのだった。

 扉を開けた星司は、前掛けをしていた。

「兄さんが料理?」

「切っただけ」

「何を?」

「切れるものを」

 台所からサラの声がした。

「大きさは、揃っていません」

「食べれば、同じだろう」

「煮える時間が違います」

 灯花は笑いながら外套を脱いだ。

 棚には、試験記録の綴りと、料理の覚え書きが並んでいた。

 窓辺に干した薬草。

 壁に掛けた、二人分の仕事着。

 星司の上着の袖口は、以前より丁寧に繕われていた。

「兄さん、顔色がいい」

「そう?」

「食べている顔になった」

「前も食べていたよ」

 サラが鍋を運んできた。

「以前は、食べたことを忘れていたそうですね」

「兄さんも?」

 灯花が笑った。

「暁人兄さんと、似ているところがあるのね」

 星司は、少し照れたように皿を並べた。

     

 食後、サラが隣室へ行くと、星司はすぐ後を追った。

「手首、痛む?」

「少しだけ。今日は石へ術を通す時間が長かったので」

「温める?」

「布を、お願いします」

 灯花は開いた扉越しに、兄が湯へ布を浸す姿を見た。

 星司は温度を確かめ、サラの手首へ巻いた。

「熱くない?」

「大丈夫」

「明日の調査は、代われる人を――」

「交代は頼みました」

「そうか」

 サラが彼を見上げた。

「全部、自分で考えなくてもよいのですよ」

 星司は笑った。

「それ、クララさんも兄さんに言っていた」

「兄弟ですね」

 灯花は、そっと食器を重ねた。

 自分が知らない兄が、そこにいた。

 工房で説明を続ける兄でも、会議で意見を曲げない兄でもない。

 誰かの返事を待ち、その手をいたわる兄だった。

     

 翌春、共同試験場は拡張された。

 電動ポンプを使いたいという会社が増え、炭鉱だけでなく、港の排水や工場の給水にも問い合わせが来ていた。

 サラは地盤と地下水の調査を受け持った。

 術で感じた変化を測量や観測井の記録と照合し、得意な条件と、判断できない条件を分けていく。

 星司は機械と配電設備をまとめた。

 二人の報告は、たびたび食い違った。

「地下で水が増えています」

「観測井の水位は、変わっていない」

「井戸とつながっていない割れ目なら?」

「では、そこへ試験孔を増やそう」

 サラの感覚だけで工事を進めず、計器の数字だけで彼女の判断を退けなかった。

 確かめるための仕事が増えた。

 その分、費用も増えた。

     

「規模を広げる前に、機械を安定して納められるようにしてほしい」

 会議で暁人が言った。

「注文は来ている。今なら、港の設備も取れる」

「試験を省けば、納められる」

 星司が答えた。

「そうしろとは言っていない」

「なら、必要な期間は取る」

 暁人は机の数字を指した。

「倉庫と発電設備へ、すでに金を出している。回収が遅れれば、次の給与にも響く」

「壊れた機械を納めれば、もっと響く」

 二人の間で、会計主任が口を開きかけた。

 その前に、サラが調査図を置いた。

「一度に全部を動かす計画を変えられませんか。最初は、こちらの区画だけにする。排水の条件が比較的分かっています」

 星司が図を見た。

 暁人も身を寄せた。

「それなら、初期の費用を下げられるか」

「下がります。ただし、残りの試験費を削る約束にはしないでください」

 サラは答えた。

 暁人が頷いた。

「分かりました」

 その日は、話がまとまった。

     

 会議の帰り、灯花は兄弟を屋敷の食堂へ呼び止めた。

 クララとサラもいる。

 澪は椅子の上で、木の匙を握っていた。

「母さんが、全員分作ってしまったから」

 灯花が言った。

 ミーナは、鍋を前に首を振った。

「あなたが、人数を増やしたのでしょう」

「結果は同じです」

 星司が澪へ手を出した。

「おいで」

 澪は顔をそらした。

 サラが隣から声をかけると、小さな手が伸びた。

 暁人が笑った。

「お前より、よく会っているからな」

「この前は、僕にも来た」

「そのときも、彼女が隣にいたでしょう」

 クララが言った。

 星司は、皆を見回した。

「今日は、僕の味方がいない」

 サラは澪を抱いたまま答えた。

「あとで、話を聞きます」

 食卓に笑いが広がった。

 灯花は二人の兄へ、同じようにパンを渡した。

 仕事で言い合った日にも、こうして座ってくれればよいと思った。

     

 数週間後、暁人のもとへ捜査の進展が届いた。

 倉庫主任の供述と支払記録を照合し、部材の差し替えに関わった下請会社が絞られた。

 しかし、その会社はすでに清算されていた。

 職人も設備も、別の会社へ移っている。

 移転先は、いまも鋼材と電気設備の部品を納めていた。

 その取引先の一覧に、共同試験場の名があった。

「星司へ知らせますか」

 顧問弁護士が尋ねた。

「もちろん」

 暁人は答えた。

 少し考え、続けた。

「ただ、会社の名をすぐ公表すれば、残った記録も人も逃げる。捜査側へ、どう動くのか確かめたい」

「納入品に問題がある可能性は、別に扱う必要があります」

「分かっている。弟に現物を確かめさせる」

 暁人は取引先の名へ線を引いた。

 ようやく、過去の帳簿だけでなく、現在動いている取引へ届いた。

 次に何を残させ、何を止めるか。

 彼は、その判断を自分が握れると思った。

     

 その夜、星司はサラの髪に絡んだ糸屑を取っていた。

 彼女が新しい作業着を縫い直していたとき、肩へついたものだった。

「取れた?」

「もう一つ」

「まだ?」

「動くから」

「あなたが、くすぐるからです」

 ようやく取れると、サラは振り向いた。

「明日は、早いのですか」

「午前中は工房。午後は兄さんに呼ばれてる」

「では、夕方は?」

「帰るよ」

「分かりました。煮込みにします」

 星司は頷いた。

 食卓には、二人分の茶碗が伏せてあった。

 窓の外で、春の雨が降り始めた。

 サラが窓を閉めると、星司は椅子を一つ寄せた。

「少し、ここにいて」

「何をするのですか」

「何もしない」

 彼女は彼の隣へ座った。

 二人はしばらく、雨の音を聞いていた。

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