第五十九章 小さな手と、二つの鍵
クララが眠ってから、暁人は寝台を抜け出した。
結婚して、八か月が過ぎていた。
廊下の灯りは落とされている。手燭を持って書斎へ入り、机の引き出しを開けた。
奥に、青い糸で葉を刺した布があった。
クララから贈られたものだった。
暁人はその上へ、懐中時計を置いた。
夜更けに金属の音を立てないために使い始め、いつしか、そこが時計の定位置になっていた。
机には、港から届いた監査報告がある。
移された保管台帳の大半は、正式な手続きを経て確認できた。だが、肝心の数週間分だけが、別の綴りを参照するようになっていた。
その別綴りは、まだ見つかっていない。
資金を出した投資商会と、荷役を請け負った会社。
同じ役員の署名が、幾つもの契約へ現れ始めていた。
それでも、橋の部材を替えろと命じた文書はなかった。
暁人は紙をめくった。
「また、明日の朝にしては駄目ですか」
振り向くと、クララが扉のところに立っていた。
肩に羽織った衣が、片側へずれていた。
「起こした?」
「隣が冷たくなったので」
「すぐ戻る」
クララは机へ近づき、彼の手元ではなく、冷めた茶を見た。
「それは、お昼のものです」
「そうだったかな」
「私が淹れましたから、覚えています」
暁人は書類を閉じた。
クララが、ほっとしたように笑った。
*
翌朝、クララは食堂へ来なかった。
灯花が様子を見にいくと、彼女は窓辺の椅子へ座っていた。
「具合が悪いの?」
「少し、匂いが」
廊下へ運ばれてきた焼きたてのパンを指した。
「いつもは、好きなのですけれど」
灯花は窓を少し開けた。
いくつか尋ねるうちに、クララが膝の上で手を重ねた。
「もしかしたら、とは思っていたのです」
「暁人兄さんには?」
「まだ。間違っていたら、がっかりさせてしまうでしょう」
「間違っていても、具合が悪いことは話していいのよ」
クララは頷いた。
その日の午前、彼女は医療院を訪れた。
暁人へ知らせたのは、帰宅してからだった。
*
「子供?」
暁人は立ったまま聞き返した。
クララも、なぜか立ったまま頷いた。
「まだ、始まったばかりです。先生は、これから経過を見ていきましょうと」
「そうか」
「はい」
「……そうか」
彼は同じことを繰り返した。
クララが、不安そうに顔を覗いた。
「嬉しく、ありませんか」
「違う」
暁人は慌てて首を振った。
「嬉しい。ただ、何をしたらいいのか」
「座っていただけると、私も座れます」
「ああ」
二人は並んで腰を下ろした。
暁人は彼女の手を取った。
「無理をしないでほしい」
「はい」
「病院の仕事も、しばらくは――」
「先生と相談します」
穏やかな返事だった。
暁人は口を閉じた。
クララは少し笑った。
「灯花さんが、きっと最初にそうおっしゃると」
「皆、僕をよく分かっているんだな」
「私も、少しずつ」
彼女は握られた手を見下ろした。
「あなたは、心配すると、先に全部決めようとなさいます」
*
知らせを聞いたミーナは、しばらく何も言わず、クララを抱いた。
それから暁人へ向き直った。
「食べられないものを、食べるように勧めないこと」
「分かってる」
「横になっているからといって、退屈だろうと仕事を持ってこないこと」
「それは、しない」
灯花が兄を見た。
「昨日、倉庫の見取り図を見せていなかった?」
「彼女が、僕の仕事を知りたいと言うから」
「全部は分かりませんでした」
クララが正直に言った。
「でも、説明しているとき、暁人様が少し元気になったので」
食堂が静かになった。
星司が、兄の前へ茶を置いた。
「今日は、兄さんが聞く番だね」
暁人はクララを見た。
「何か、欲しいものはある?」
彼女は少し考えた。
「酸っぱい果物を、少し」
四人が同時に立ちかけた。
クララは驚き、それから笑った。
*
その冬、星司のポンプは、初めて試験区画の外で水を汲み上げた。
設置場所は、坑口から遠くない、点検しやすい排水溜めだった。
ガスの懸念がある奥の区画には、まだ使わない。既存の蒸気ポンプも残し、電動機が止まれば切り替えられるようにした。
動かすことより、止まったあとを考える時間の方が長かった。
サラは、運転前に壁へ掌を当てた。
「昨日より、水が奥へ回っています」
星司が水位の記録を確かめた。
「数値にも出ている。雨のあとだからね」
「術の記録も、同じ帳面に綴じますか」
「綴じる。ただし、誰が何を確かめたかは分けて書く」
サラは頷いた。
水路の契約も、ようやく改められた。
修復の費用を誰が負担するか。
採掘で流れを変えるとき、誰と協議するか。
畑や家に被害が出た場合、どこへ申し立てるか。
集落の代表は、それぞれの条文を読み上げて確かめた。
昔の保護契約に感謝する言葉と、これからの要求が、同じ会議で語られた。
サラは署名を終えると、星司へ言った。
「祖父が見たら、喜ぶでしょうか」
「君のお祖母さんなら、何て言うかな」
「遅い、と」
星司は笑った。
「たぶん、喜ぶより先に」
*
数日後、星司はナグナリエの保管施設にいた。
空一郎が残した機材と資材を管理する場所だった。
外の工場では作れないものが、ここにはある。
高精度の測定器。
未使用の絶縁材。
小さな制御装置。
その一つが壊れても、同じものを注文できる相手はいなかった。
星司は、一覧を暁人へ示した。
「測定器を、共同試験場で使いたい」
「どれを」
「この絶縁測定器と、温度を細かく記録する装置。現地製の器具も一緒に使って、どこまで信用できるか比べる」
暁人は数量の欄を見た。
「予備は?」
「完全に同じものは、一台ずつ」
「共同試験場へ置けば、他社の技師も触る」
「触れる人を決める。訓練もする」
「壊れた場合は、どうする」
「だから、持ち出し方も含めて相談している」
星司の声が硬くなった。
卓上から、CHUYUが話した。
《まず、保管室から出さずに測れる試料を集める方法がある。そのうえで、現場でしか測れないものを分けて》
星司は頷いた。
「それなら始められる」
暁人は、一覧を閉じなかった。
「測った結果を、どこまで公開する」
「参加した会社には、共有する」
「こちらだけが費用と危険を負うなら、条件を考え直してほしい」
「兄さん。電動機の絶縁が傷む温度を、競争の道具にしたいの?」
「測定器がなくなれば、次の機械も確かめられなくなる」
二人とも、間違ったことだけを言っているわけではなかった。
だから、話が終わらなかった。
*
《今日は、貸し出しを決めなくていい》
CHUYUが言った。
《残っている物と、今作れる物を、先に分けよう。あなたたちは、違う一覧を見て話している》
暁人が顔を上げた。
「違う一覧?」
《星司は、使える機材を見ている。あなたは、失えない資産を見ている》
星司は黙った。
暁人も、しばらく答えなかった。
同じ祖父の遺産だった。
幼いころは、二人で覗き込めばよかった。
今は、一つを動かすために、互いの許可が必要になっていた。
会議の終わりに、保管責任者が確認書を差し出した。
研究の担当者と、費用を負担する側。
二つの承認欄があった。
星司は自分の名を書いた。
暁人は、条件を記した別紙を添えて署名した。
*
季節が変わるころ、柊の工場に注文が戻り始めた。
港の倉庫から内陸へ、貨車を直通させる試みが、商人たちに好まれた。
荷物を何度も下ろさずに済む。
破損が減り、到着の見込みが立つ。
電信で船の入港予定を知らせれば、空の貨車を先に回しておける。
倉庫には夜間の電灯が一部設けられた。ただし、灯りがついたからといって、人を際限なく働かせてよいわけではない。
勤務時間をめぐって作業員と会社が揉め、その調整にも暁人は呼ばれた。
事業は息を吹き返していた。
同じころ、事故の調査は、裁判所を通じた資料提出の段階へ進んだ。
金のつながりは見えつつある。
だが、命令を出した者へ届くには、まだ人の証言が足りなかった。
暁人は、北辰運送の作業長が語った倉庫主任の名を、繰り返し確認していた。
*
クララのお腹が目立ち始めると、暁人は帰宅の時刻を早めた。
毎日ではなかった。
守れない日には、使いを出した。
彼女はそれだけでも喜んだ。
「待っている間に、先に眠ってしまうかもしれません」
「寝ていていい」
「でも、帰っていらしたら起こしてください」
「休んでいるのに?」
「お帰りなさい、は言いたいので」
暁人は彼女の隣へ座った。
クララが彼の手を取り、お腹の上へ置いた。
「今、動いたのです」
彼は息を止めた。
何も感じない。
「もう少し、待って」
二人で待った。
暖炉の中で、薪が小さく崩れた。
やがて掌の下で、かすかな動きがあった。
暁人が顔を上げた。
クララは笑っていた。
「分かりました?」
「ああ」
それ以上、言えなかった。
*
娘は、雨の朝に生まれた。
暁人は廊下を歩きすぎて、灯花に座らされた。
「そこを歩いても、お産は早くならない」
「分かってる」
「床だけが擦り減ります」
星司が隣へ座った。
「僕のときも、こうだったのかな」
「母さんに聞いてくれ」
「兄さんが生まれたときの父さんの話だよ」
暁人は弟を見た。
星司も、落ち着かない顔をしていた。
やがて泣き声が聞こえた。
二人は同時に立った。
灯花は、今度は止めなかった。
*
クララは疲れ切っていた。
それでも、暁人が入ると微笑んだ。
「女の子です」
「ああ」
「あなたの指を、握るでしょうか」
助産師に支え方を教わりながら、暁人は娘を抱いた。
軽いのに、腕へ力が入った。
「肩を、少し緩めて」
言われても、すぐにはできなかった。
赤ん坊の手が動き、彼の指へ触れた。
小さな指が、閉じた。
暁人は、その手を見つめた。
「名前は」
クララが尋ねた。
二人で幾つも考えた中に、一つ、何度も口にしていた名があった。
「澪」
暁人は答えた。
「船が通る、水の道を表す字だと、父から教わった」
「みお」
クララが繰り返した。
それから、娘へ顔を寄せた。
「澪。お父様ですよ」
暁人は、抱いた腕を動かせなかった。
*
見舞いに来たエルンストは、寝台の脇で立ち止まった。
クララの顔を見てから、娘の腕の中を覗いた。
「お前も、こんなに小さかった」
「お父様は、抱いてくださいましたか」
「泣かせた。乳母に返せと言われたよ」
クララが笑った。
エルンストは孫へ指を差し出した。
澪は眠ったままだった。
暁人は、その手を見ていた。
幾つもの契約へ署名した手。
橋に関わる金を動かした疑いのある手。
今は、赤ん坊へ触れるのをためらっていた。
「幸せな子になりますように」
エルンストが言った。
クララは嬉しそうに頷いた。
暁人も、頷くしかなかった。
*
夕方、商会の使いが来た。
顧問弁護士からの封書だった。
暁人は病室から離れ、廊下の窓辺で開いた。
所在の分からなかった倉庫主任が、弁護士を通じて接触してきたという。
証言の意思がある。
ただし、自分と家族が受ける不利益を恐れている。
面談の日時は、翌日の午後。
暁人は、もう一度、封書を読んだ。
ついに、人へ届く。
何度も紙の上で途切れた道が、その先へ伸びようとしていた。
病室の扉が開き、灯花が顔を出した。
「兄さん。クララさんが呼んでる」
「今、行く」
暁人は封書を畳んだ。
戻ると、クララが娘を抱いたまま、彼を見上げた。
「少しだけ、代わっていただけますか」
「もちろん」
差し出された澪を、彼は両腕で受け取った。
娘の頬が、上着へ触れた。
内ポケットには、明日の面談を知らせる手紙が入っていた。
暁人はその上から娘を抱き、眠りにつくまで、窓辺をゆっくり歩いた。




