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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第五十八章 祝福の朝、閉ざされた扉


 結婚式の朝、暁人は襟の留め具を三度掛け直した。

 三度とも、同じところで指が滑った。

「貸して」

 星司が手を伸ばした。

「自分でできる」

「できていないから、言ってる」

 弟は留め具を掛け、少し離れて兄を見た。

「曲がってない?」

「お前が留めたんだろう」

「だから、聞いてる」

 暁人は鏡を見た。

 二人とも、いつもの仕事着ではなかった。

 星司の袖口には、小さな油染みが残っていた。

「それ、昨日も工房へ行ったのか」

「少しだけ」

「今日は機械に触るなよ」

「兄さんこそ、帳簿を持っていくなよ」

 暁人は机へ目を向けた。

 星司も、そちらを見た。

「……本当に用意していたの?」

「帰ってから読むものだ」

「今日は、帰ってからも読むな」

 弟は帳簿へ布を掛けた。

 その手つきが、子供のころに玩具を隠したときと変わらなかった。

     

 隣の部屋では、クララが髪飾りを確かめていた。

 ミーナから贈られた、古い髪飾りだった。

 灯花が後ろから留め直す。

「痛くありませんか」

「大丈夫です」

「少しでも痛かったら、言ってくださいね。今日は長いですから」

 クララは鏡の中で頷いた。

 白い衣装の膝に、両手を揃えている。

「震えているの、分かりますか」

「少し」

「どうしたら、止まるでしょう」

「止めなくてもいいと思います」

 灯花は彼女の肩へ手を置いた。

「兄も、たぶん震えています」

 クララが、小さく笑った。

「暁人様も?」

「襟を留めるのに、星司兄さんを呼んだそうです」

 実際には、星司が勝手に入っていったのだった。

 灯花はそこまで説明しなかった。

     

 ミーナが入ってくると、クララは立ち上がろうとした。

「そのままで」

 彼女は花嫁の前へ椅子を寄せた。

 しばらく顔を見つめ、頷いた。

「よく似合っています」

「ありがとうございます」

 クララは髪飾りへ触れた。

「傷つけないように、大切にします」

「使っていれば、傷はつくものです。しまったままより、ずっといい」

 ミーナは、彼女の手を取った。

「この家へ来たからといって、何でも上手にしようとしなくてよいのですよ」

「でも、ご迷惑を――」

「私も、かけました」

 クララが顔を上げた。

「黎明と結婚したころ、私は医療院のことばかり考えていました。二人で出かける約束を忘れて、彼を待たせたこともあります」

「怒られましたか」

「病院へ来て、患者さんと一緒に待っていました」

 灯花が笑った。

 ミーナも、少し笑った。

「ただ、帰り道で、今日は僕の順番だったと言われました」

 クララは、握られた手を見下ろした。

「私も、ちゃんと帰ってこようと思います」

「ええ」

 ミーナは頷いた。

「暁人にも、帰ってくるように言ってください」

     

 式は、中央大聖堂の脇にある、小さな礼拝堂で行われた。

 両家の名を考えれば、大聖堂を使うこともできた。

 しかし、クララは病院の子供たちの歌が、後ろの席まで聞こえる場所を望んだ。

 入口には白い花が飾られていた。

 庭園で彼女が買ったものと同じ花だった。

 子供たちは、始まる前から何度も並び直した。

「僕、ここ?」

「さっきも、そこだったでしょう」

「じゃあ、何でまた動くの」

 付き添いの看護師が困っていると、灯花がしゃがんだ。

「動かなくて大丈夫。歌うまでは、足を休ませておいて」

 列の端には、木の鳥を持った少年がいた。

 礼拝堂へ入ってきた暁人へ、小さく手を振る。

 暁人も、振り返した。

 少年の隣には、母親が座っていた。

 彼女は笑わなかった。

 それでも、子供が歌うために、ここまで来てくれていた。

     

 扉が開いた。

 エルンストに伴われて、クララが歩いてきた。

 いつもよりゆっくりだった。

 暁人は、その歩みを見つめた。

 昨夜まで、結婚に付随する契約の最終確認が続いていた。

 共同事業への資金。

 鉄道会社の借り換え。

 両家が推薦する役員の人数。

 そのどれも、今は目に入らなかった。

 クララが隣へ立った。

「お待たせしました」

 彼女が、小さな声で言った。

「いいえ」

 暁人は答えた。

 エルンストの手が、娘の手から離れた。

 暁人が、その手を受け取った。

     

 誓いの言葉は短かった。

 共に暮らし、苦しいときにも相手を顧みること。

 相手の尊厳を損なわず、喜びも悲しみも分かち合うこと。

 司式者が一つずつ問い、二人が答えた。

 クララの声は、最初だけ震えた。

 暁人の声は、最後まで震えなかった。

 彼は自分の声を聞いていた。

 どの言葉にも、嘘をつきたいと思ってはいなかった。

 それでも、語らずにいることがあった。

 指輪をはめるとき、クララが彼の手を見た。

 ペンを握る指の脇に、硬くなった皮膚があった。

 彼女はそこへ、そっと親指を触れた。

 いたわるような、ごく小さな仕草だった。

 暁人は、一度だけ息を詰めた。

     

 歌は、途中で少し速くなった。

 前の列の子供が先へ進み、後ろの列が追いかけた。

 付き添いの女性が、胸の前で懸命に拍子を取る。

 クララは口元を押さえた。

 笑っていた。

 目には涙が溜まっていた。

 最後の音が揃うと、礼拝堂に拍手が広がった。

 木の鳥を持った少年が、深々とお辞儀をした。

 暁人は、誰より長く拍手を続けた。

     

 祝いの席には、サラも招かれていた。

 集落から贈られた織物を、灯花へ渡す。

「敷物として使ってください。飾るだけでは、織った者が残念がります」

「兄に言っておくわ。大切なものほど、箱へしまおうとするから」

 星司が近づいてきた。

「来てくれて、ありがとう」

「列車の時間を三度も書いてくださったので、乗り間違えずに済みました」

「乗り換えがあるから」

「乗り換えは一度です」

 灯花は、二人を見比べた。

「兄は、心配になると説明が長くなるの」

「それは、分かりました」

 サラが答える。

 星司は何か言い返そうとして、やめた。

 灯花は笑いながら、別の客へ挨拶に向かった。

     

 サラの手首には、包帯が巻かれていた。

 星司がそれに気づいた。

「どうしたの」

「古い水路の蓋を動かしたときに、少し」

「術で持ち上げた?」

「はい」

 彼女は包帯の端を直した。

「重さがなくなるわけではありません。石へ力を通すと、こちらにも負担が戻ります」

「人を呼べばよかったのに」

「あなたも、似たことを言われるでしょう」

 星司は黙った。

 サラが、少しだけ笑った。

「痛みは引いています」

「明日、試験場の救護係に見てもらって」

「結婚式でも、仕事の指示ですか」

「心配してる」

 言ってから、星司は彼女を見た。

 サラの耳が、わずかに後ろへ動いた。

「……では、見てもらいます」

 彼女は、今度は素直に答えた。

     

 婚礼の客が帰り始めたころ、エルンストが暁人の隣へ来た。

「娘を頼みます」

「はい」

「今朝、私に手紙をくれました。家が静かになるから、早く帰りなさいと」

 彼は苦笑した。

「嫁ぐ日に、父親の帰宅を心配する娘です」

 暁人は、少し離れたところにいるクララを見た。

 彼女は子供たちへ菓子を包んでいた。

「優しい方です」

「ええ」

 エルンストは答えた。

 その声に、商談のときの響きはなかった。

 暁人には、それがつらかった。

 この男が娘を愛していることと、事故へ関わった疑いがあること。

 どちらか一方だけなら、もっと容易に憎めた。

「港の件は、来週からで結構です」

 エルンストが言った。

「数日くらい、仕事を忘れなさい」

 暁人は頷いた。

 祝いの言葉なのか、探りなのか。

 そう考えた自分が、今度は嫌になった。

     

 新しい部屋へ入ると、クララは最初に窓を開けた。

 庭の匂いが入ってきた。

 それから、小さな鉢を見つけた。

「あの花」

「ここへ移しました」

 暁人が答えた。

 書斎に置いていた白い花だった。

 クララは近づき、土へ指を触れた。

「ちゃんと見てくださっていたのですね」

「水のやりすぎには、気をつけました」

「ありがとうございます」

 彼女は花へ向かっても、小さく笑った。

 荷物はまだ、幾つも閉じられたままだった。

 暁人が一つを持ち上げると、予想より重かった。

「また、本ですか」

「少し」

「少し?」

「家の者に、多すぎると言われて減らしたのです」

「減らす前を見なくてよかった」

 クララが笑った。

 部屋に、二人分の暮らしが入り始めていた。

     

 夜、髪飾りを外すのを、暁人が手伝った。

 留め金へ指をかけると、彼女が少し首をすくめた。

「痛かった?」

「いいえ。くすぐったくて」

 飾りが外れ、髪が肩へ落ちた。

 クララは、鏡の中の暁人を見た。

「今日、何度も、夢ではないかと思いました」

「疲れたでしょう」

「少し。でも、眠ってしまうのが惜しいです」

 暁人は髪飾りを箱へ置いた。

 彼女が振り向いた。

「明日の朝も、ここにいてくださいますか」

「います」

「お仕事へ行く前に、お茶を飲めますか」

「ええ」

 クララは安心したように頷いた。

 彼女が望んでいる未来は、驚くほど小さかった。

 朝、顔を合わせること。

 帰りを待つこと。

 一日の話を聞くこと。

 暁人は彼女を抱いた。

 クララの腕が、おずおずと背へ回った。

「幸せにしたい」

 彼は言った。

 彼女は、その言葉を疑わなかった。

     

 翌朝、約束どおり二人で茶を飲んだ。

 クララはパンへ塗るジャムを選びかね、結局、二種類を半分ずつ使った。

「混ざりませんか」

「最後の一口で、少し」

「それでいいのですか」

「そこが楽しみです」

 暁人は笑った。

 扉が控えめに叩かれたのは、そのときだった。

 商会から、急ぎの使いが来ていた。

 港の監査担当者の署名がある。

 暁人は受け取り、目を通した。

 共同事業へ引き継ぐ予定の倉庫で、保管台帳の一部が別棟へ移されていた。

 理由は、整理と修繕。

 移動先の閲覧には、別会社の許可が必要だという。

 その別会社の名は、先日見つけた「特殊荷役立替分」の支払元と同じだった。

「お仕事ですか」

 クララが尋ねた。

 暁人は紙を畳んだ。

「少し、確認が必要になりました」

「行ってらしてください」

「でも、今日は」

「お茶は、飲めましたから」

 彼女は笑って、冷めかけた茶を注ぎ直した。

「帰ってから、続きのお話をしましょう」

     

 書斎で、暁人は監査担当者へ返事を書いた。

 移された資料の一覧を求めること。

 保管場所と、移動を命じた者を確かめること。

 調査委員会が求めている資料については、移動先にも正式な保全要請を出してもらうこと。

 最後に、もう一行を書き足した。

 ――当該会社の借入先と、主要株主を調べよ。

 ペンを置いた。

 昨日、自分が新しい家族を迎えたことを、彼は思い出した。

 その家族の実家へ、今、別の入口から手を掛けようとしていた。

 廊下からクララの声がした。

「上着を、こちらへ置いておきますね」

「ありがとう」

 暁人は返事をした。彼女の足音が遠ざかるまで、扉を開けなかった。



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