第五十七章 二つの誓い
約束の時刻より、クララは少し早く来た。
暁人は、それより早く来ていた。
「お待たせしましたか」
「今、来たところです」
庭園の係員が、二人の脇を通り過ぎた。
「お連れ様、お見えになりましたね。一時間もお待ちで――」
暁人は目を閉じた。
クララが笑った。
「今日は、正直ではありませんでしたね」
「……今日は、少し難しい」
彼女は笑うのをやめた。
両手で持った鞄を、胸元へ引き寄せた。
*
前に来たときより、木々の葉が増えていた。
白い花を売っていた店の前を過ぎ、池の見える小径へ入る。
暁人は、昨夜用意した言葉を思い出そうとした。
家の事情。
これからの暮らし。
彼女に続けてほしい仕事。
順番まで考えてあった。
だが、クララが隣へ立つと、最初の一文が出てこなかった。
「あなたに、結婚を申し込みたい」
結局、そこから話した。
クララは動かなかった。
池で水鳥が羽を広げた。
水の音が収まってから、彼女が尋ねた。
「私で、よいのですか」
「あなたに、お願いしています」
「私は、商売のお役には立てません。病院でも、教わってばかりですし」
「何かができるから、来てほしいという話ではありません」
暁人は言った。
言い終えたあと、その言葉が胸へ刺さった。
*
「一つ、先に話しておかなければならないことがあります」
暁人は続けた。
「僕たちの結婚は、両家の事業にも関わります。あなたのお父様は、共同事業へ資金を出すお考えです。鉄道や工場で働く人たちを守るうえで、助けになります」
クララは頷いた。
「父から、少し聞きました」
「結婚すれば、新聞にもそう書かれるでしょう。柊がヴァルデックの金を必要とした、と」
「それは、本当なのですね」
「……はい」
彼女は池の方を見た。
暁人は待った。
断ってくれれば、と思った。
それなら、この先へ進まなくて済む。
その考えが浮かび、自分の卑怯さに気づいた。
決める責任まで、彼女へ渡そうとしていた。
「お金のことで、私に相談してくださることはありますか」
クララが尋ねた。
「詳しい話は、理解できないかもしれません。でも、困っているときに、何も知らずに隣で笑っているのは嫌です」
「できるだけ、話します」
「全部、話せないことも?」
「仕事には、他人に関わる秘密もあります」
「それなら、話せないと教えてください。私が、あなたを困らせたと思わずに済みますから」
暁人は、彼女の目を見た。
そこには、まだ疑いがなかった。
「分かりました」
答えた声が、自分でも低く聞こえた。
*
クララは鞄から、小さな布を出した。
端へ、青い糸で葉の模様が刺してあった。
「お渡ししようと思っていたのです」
「僕に?」
「お仕事の机で使うには、少し小さいのですが」
彼女は布を広げた。
一枚の葉だけ、形が違っていた。
「柊を刺そうとしたら、途中で何の葉か分からなくなりました」
暁人は受け取った。
「十分、分かります」
「花の名前も間違えましたし、葉まで違っていては困ると思って」
彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
目に涙が溜まっていた。
「嬉しいです」
ようやく、そう言った。
「あなたと、家へ帰れるのが」
暁人は彼女の手を取った。
細い指が、ためらいながら握り返した。
この手を離したくないと思った。
その気持ちが本当であることに、彼は救われようとした。
*
エルンストへの正式な申し入れは、五日後に行われた。
クララは別室にいた。
結婚の意思は、すでに本人から父へ伝えてあった。
「娘は、昨夜から落ち着かなくてね」
エルンストは茶器へ手を添えた。
「あなたが来る前に、三度も玄関の花を直していた」
暁人は、用意された椅子へ座った。
「大切にします」
「そう願っています」
短い沈黙のあと、エルンストは机の上へ書類を置いた。
婚姻に際してクララへ渡す財産の目録。
共同倉庫事業への出資条件。
鉄道会社が借りている資金の、一部借り換え案。
三つは、別々に綴じられていた。
だが、同じ日に差し出されていた。
*
「娘の財産は、あなたの商会の借金を返すために、勝手に使わせるつもりはありません」
エルンストが言った。
「本人の名義で管理させます」
「異存ありません」
「一方、共同事業には、こちらも相応の資金を入れる。その条件として、港の輸送計画を事前に共有していただく」
「それなら、倉庫の在庫と入出庫記録も、双方で確認できるようにしたい」
暁人は修正案を出した。
「過去の記録もです。引き継ぐ荷物と債務に関するものは、外せません」
エルンストは紙へ目を落とした。
「随分、記録にこだわる」
「記録のつながらない荷を、もう一度運ぶわけにはいきません」
相手が顔を上げた。
暁人は目をそらさなかった。
やがてエルンストは、脇へ置いたペンを取った。
「範囲は、双方の法律家で詰めましょう」
扉の向こうで、小さく食器の触れる音がした。
クララが茶を運ぶ準備をしているのだろう。
暁人は音のした方を見た。
エルンストも、同じ方へ目を向けた。
*
婚約の知らせは、両家の食卓で告げられた。
クララが柊家へ来た夜、灯花は席へ着く前に彼女を抱きしめた。
「驚かせてしまいましたか」
クララが尋ねた。
「少し。でも、兄が何度も庭園へ行くようになった時点で、何かあるとは」
「何度もではない」
暁人が言った。
星司が皿を並べながら振り返った。
「三度目のあと、花の本が書斎に増えた」
「仕事の合間に読んだだけだ」
「そう。だから、何も言っていない」
クララが暁人を見た。
「読んでくださったのですね」
彼は弟を睨みかけ、その視線に気づいてやめた。
「少しだけ」
ミーナが笑って、皆を座らせた。
父の席には、今夜も誰も座らなかった。
けれど、食卓の椅子が一つ増えていた。
*
食後、ミーナはクララを居間へ誘った。
棚から、小さな箱を取り出す。
中には、古い髪飾りがあった。
「私が結婚したとき、アリステリア様がくださったものです」
クララは手を伸ばしかけ、止めた。
「そんな、大切なお品を」
「今すぐ渡すという話ではないの。好みがあるでしょうから、見てもらおうと思って」
「とても綺麗です」
ミーナは頷いた。
「式のことは、あなたの希望も聞かせてください。両家が決めたからといって、何でも従わなくてよいのです」
クララは少し考えた。
「病院の子供たちに、歌ってもらえたら嬉しいです」
「頼んでみましょう」
「それと……お仕事を、続けてもよいでしょうか」
「あなたが続けたいなら」
クララの肩が緩んだ。
「よかった」
その声を、廊下にいた暁人が聞いた。
母は続けた。
「ただ、忙しい日は休んでください。結婚した翌日から、いつも通り来ようとしなくても」
「分かってしまいましたか」
「灯花が、きっとそうすると言っていました」
二人の笑い声が聞こえた。
暁人は扉を叩かず、その場を離れた。
*
婚約が公になった翌週、港の共同事業の準備室が開かれた。
カンターベルの倉庫街には、鉄道の引き込み線が延ばされつつあった。
これまで駅で馬車へ積み替えていた荷を、貨車のまま岸壁近くへ運ぶ。
船から下ろした鋼材や穀物を、雨へさらす時間も短くなる。
星司は現場で、線路と倉庫の床の高さを見比べていた。
「ここで段がつくと、結局、人が持ち上げることになる」
技師が図面を開いた。
「岸壁側の高さに合わせました」
「列車からも、船からも運ぶんだ。片方だけ合わせても困る」
荷を吊るす巻き上げ機の位置。
貨車の止まる場所。
荷車が曲がれる幅。
図面の上では収まっていたものが、地面へ杭を打つと重なった。
星司は自分でも綱を持ち、荷車の動く範囲を確かめた。
「ここへ柱があると、綱が人の通り道を横切る」
「屋根を支える柱です」
「では、柱を残して、巻き上げ機を移そう」
遠くの船台から、鋲を打つ音が響いていた。
新しい鉄製船体の貨物船だった。
薄い板を張ればよいわけではない。船底の骨組みへ力を渡し、継ぎ目を密に留め、水が入っても一度に船全体へ回らないよう区画を分ける。
星司はその音を聞きながら、父が最初に乗った外輪船を思い出した。
父の仲間たちが取り組んだ継ぎ目の問題は、形を変え、今も目の前にあった。
*
夕方、準備室へ戻ると、暁人が帳簿を広げていた。
「こんな時間まで?」
星司が尋ねた。
「移す荷の一覧を見ている」
「現場は、少し遅れる。動線を直したい」
「費用は?」
「計算して明日出す。工事をしてから直すよりは安い」
暁人は頷いた。
星司は机の書類へ目を留めた。
「倉庫の過去の記録も、見られるようになったんだね」
「共同事業へ引き継ぐ範囲は」
「クララさんは、知っている?」
暁人の手が止まった。
「事業の話は、している」
「事故を調べるためにも使うことは?」
「そのために彼女へ何か頼むつもりはない」
星司は兄を見た。
「僕は、頼むかどうかを聞いたんじゃない」
外で汽笛が鳴った。
短い音が、二度続いた。
暁人は帳簿を閉じた。
「彼女を巻き込まないために、言わずにいることもある」
「知らないうちに巻き込まれていたら、後でどう思うだろう」
「分かってる」
その返事に、星司は何も言わなかった。
兄が本当に分かっていることが、かえって苦しかった。
*
夜の閲覧室には、古い紙と湿った木の匂いがした。
暁人と監査担当者は、倉庫の手数料を年ごとに照合していた。
橋の部材を保管した時期の記録には、再梱包費用があった。
北辰運送の作業控えにある夜間作業の日付と、同じだった。
「この支払い、表の請求額に含まれていません」
担当者が言った。
「別払いか」
「そうです。『特殊荷役立替分』として、別の商会から払われています」
暁人は名を確かめた。
帝都の投資商会。
鉄道会社の株を買っていた商会の一つだった。
「同じ名義ですね」
担当者が言った。
「ただ、これだけでは、荷を入れ替えた費用とは言えません」
「ああ」
暁人は頷いた。
それでも、初めてだった。
橋の部材を扱った金と、事故のあとに会社を買おうとする金が、一枚の紙の上でつながった。
「原本の保全を。関連する伝票も、正式に確認を求める」
「調査委員会へ?」
「送る。顧問弁護士にも」
答えながら、暁人は日付を書き留めた。
クララへ結婚を申し込んでから、まだ半月も過ぎていなかった。
*
帰宅すると、居間に灯りが残っていた。
クララが、ミーナと一緒に式へ招く人の名を書いていた。
「遅くまで、お邪魔してしまって」
彼女は立ち上がった。
「お帰りなさい」
暁人は入口で足を止めた。
その言葉を彼女から聞くのは、初めてだった。
「……ただいま」
クララが嬉しそうに笑った。
机には、子供たちの歌の候補と、小さな白い花の絵が並んでいた。
「派手なお花でなくても、よいですか」
「ええ」
「あの庭園の花を、少し飾りたいのです」
「そうしましょう」
彼女は紙を引き寄せ、丁寧に書き足した。
暁人の鞄には、二つの金の流れを結ぶ書類の写しが入っていた。
それを手にできた理由を、目の前の彼女は知らない。
彼は鞄を椅子の脇へ置き、クララの隣に座った。
「あなたにも、招きたい方を教えてください」
差し出されたペンを受け取った。
先ほどまで、疑うべき者の名を書いていた手で、今度は祝ってほしい人の名を書いた。で、扉を開けなかった




