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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第五十六章 白い花の約束


 クララは、花の名前を三つ間違えた。

 一つ目は、自信を持って答えた。

 二つ目は、本を開いてから間違えた。

 三つ目になると、庭師が気の毒そうに訂正した。

「そちらは、花ではなく、去年の実が残っているのです」

 暁人は、とうとう笑った。

 クララは本で顔を隠した。

「笑わないと、約束してくださればよかった」

「そんな約束をしたら、今ごろ破っていました」

「正直でいらっしゃるのね」

 彼女は本を閉じた。

 責めるつもりのない言葉だった。

 暁人は、笑うのをやめた。

     

 庭園には、まだ冷たい風が残っていた。

 クララは薄い手袋をはめ、歩くたびに小さな鞄を両手で持ち直した。

「重いなら、持ちましょうか」

「大丈夫です」

 数歩進んでから、彼女は立ち止まった。

「本当は、少し重いです」

 鞄には植物の本が二冊入っていた。

「一冊でよかったのでは」

「同じ花でも、違うことが書いてあったら困ると思って」

 暁人は受け取った鞄を見下ろした。

 仕事では、互いに食い違う帳簿を毎日読んでいる。

 今日は、花の本だった。

「確かめるつもりだったのですね」

「はい。でも、花の方が、本と同じ向きに咲いていませんでした」

 クララは真面目な顔で言った。

 暁人はまた笑った。

 彼女も、今度は嬉しそうに笑った。

     

 温室の前で、幼い姉弟が菓子を分けていた。

 姉の方が、大きい欠片を弟へ渡す。

 弟は二つを見比べ、交換した。

 それを見ていたクララが、足を緩めた。

「ご兄弟でも、ああいうことを?」

「菓子なら、先に取った方が勝ちでした」

「本当に?」

「母が見ていなければ」

「星司様は、譲ってくださりそうです」

「食べる前の生地まで取っていた男ですよ」

 クララは口元を押さえた。

「灯花様も同じことをおっしゃっていました」

「妹は、余計なことをよく覚えています」

「でも、とても楽しそうでした」

 彼女は、姉弟へもう一度目を向けた。

「私は一人でしたから。食卓で誰かと取り合うことが、少し羨ましいです」

 暁人は返しかけた冗談をやめた。

「賑やかなだけですよ」

「それでも」

 クララは微笑んだ。

「帰ったら話せる人が、何人もいるのは素敵です」

     

 休憩所で茶を頼むと、クララは鞄からもう一つ、包みを出した。

 布にくるまれた、小さな木の鳥だった。

 片方の翼が折れていた。

「病院の子供から預かったのです。私が直せると言ってしまって」

「直せなかった?」

「糊をつけたら、今度は反対向きに固まりました」

 暁人は鳥を受け取った。

 翼の付け根には、白く乾いた糊が盛り上がっている。

「これを、今日一日持っていたのですか」

「帰りに玩具屋へ寄るつもりでした」

「新しいものを買う?」

「それも聞いたのですが、この鳥がいいそうです。お父様が削ったものだからと」

 クララは、折れた翼を見た。

「新しいものなら、すぐ渡せるのに」

「その子のお父さんは?」

「橋の事故で」

 彼女の声が小さくなった。

 暁人は木の鳥を掌の上で返した。

 底に、子供の名が刻んであった。

「職人へ相談しましょう。直せるか、まず見てもらう」

「ありがとうございます」

 クララは、鳥へ向かって小さく頭を下げた。

 まるで、待たせてしまった相手を安心させるようだった。

     

 別れ際、彼女は温室の売店で、白い花の小鉢を買った。

 背の低い、目立たない花だった。

「母に?」

 暁人が尋ねた。

「あなたに」

「僕に?」

「お部屋へ置いてください。灯花様が、机の上は紙ばかりだと」

 鉢には、育て方を書いた札が差してあった。

 クララは、それを指で確かめた。

「水は、毎日たくさんではないそうです。土を見てから」

「分かりました」

「忘れたら、私が見に伺います」

 言ってから、彼女は目を伏せた。

「……ご迷惑でなければ」

 暁人は、小鉢を受け取った。

「来てください」

 その言葉だけは、考える前に出た。

     

 翌朝、白い花の隣に、倉庫会社の出資案が置かれた。

 会計主任と顧問弁護士が、机の向こうに座っている。

 港で荷を受け、鉄道で運び、内陸の倉庫へ納める。

 その途中にある会社ごとに、金が必要だった。

 倉庫へ預けた商品を示す証書があれば、荷主は売れる前に融資を受けられる。銀行は、その商品が本当にあり、傷まず、勝手に持ち出されないと信じられなければ貸さない。

「今回の案では、倉庫の管理と、その証書の発行をヴァルデック側が握ります」

 会計主任が言った。

「柊は鉄道と荷扱い設備を出す。利益は折半ですが、荷の中身を確かめる役は、相手側です」

「こちらも管理者を置く」

 暁人が答えた。

「既存の倉庫の記録にも、監査を及ぼしたい」

 弁護士が顔を上げた。

「共同事業を始める前の取引まで?」

「引き継ぐ資産と負債を確かめる必要があります」

「その範囲なら、要求できます。ただし、事故に関する資料は、委員会への提出を優先させます」

「それでいい」

 会計主任は、少し迷ってから言った。

「この条件なら、相手も断る理由があります」

 暁人は白い花を見た。

 昨日、クララが笑いながら本を閉じた姿が浮かんだ。

「断らせない方法は、考える」

     

 エルンストとの次の会談は、商館で行われた。

 暁人が示した修正案を、相手は黙って読んだ。

「随分と、奥まで入ってこられる」

「柊の金も人も出すのですから」

「まだ、橋の事故で私を疑っているのではありませんか」

 暁人は顔を上げた。

 初めて、正面から口にされた。

「関係する会社が多い。確認は必要です」

「あなたの会社も、その中に含まれている」

「承知しています」

 エルンストは書類を閉じた。

「商売で互いを監視し合うのは、普通のことです。しかし、何もかも疑っていては、長い仕事はできない」

 窓の外で、馬車が止まった。

 エルンストは、その音を聞いてから続けた。

「娘は、あなたと過ごす時間を喜んでいるようです」

 暁人は答えなかった。

「私も、娘には安心して暮らしてほしい」

「僕に、何を求めているのです」

「いずれ、あなたから正式な申し入れがあれば、考えるつもりです」

 エルンストは、共同事業の書類へ手を置いた。

「両家が親族になるなら、この事業にも、より大きな資金を出せるでしょう」

     

 帰りの馬車で、暁人は書類を開かなかった。

 結婚すれば、資金が入る。

 株を買い集める動きを止め、鉄道会社の持分を守る交渉もできる。

 そして、ヴァルデック家へ出入りすることが、当然になる。

 客として通されない部屋。

 商売相手には聞かせない話。

 クララと暮らせば、その近くまで行ける。

 暁人は目を閉じた。

 木の鳥を包み直す、彼女の指が浮かんだ。

 自分が何を考えているのかを知ったら、あの指は震えるだろうか。

 それとも、何かの間違いだと、自分をかばおうとするだろうか。

 後の方を想像したとき、彼は息苦しくなった。

     

 その晩、星司が帰ってきた。

 外套を脱ぐより先に、食堂の鍋を覗いた。

「残ってる?」

「あなたの分です」

 灯花が答えた。

「全部?」

「そう言うと思って、多めに残しました」

 ミーナが椅子を引いた。

「山は寒かったでしょう」

「寒かった。でも、サラのお祖母さんの煮込みがうまくて」

「では、次は作り方を聞いてきて」

「僕が聞いても、母さんの料理にはならないよ」

「作るのは私です」

 星司は頷いて座った。

 暁人も、机の書類を置いて食卓へ来た。

「ポンプは?」

「まだ試験中。水が出たから完成、とはいかない」

「費用は増えそうか」

「少し。ただ、網を掃除しながら動かせるようになった。止める時間を減らせる」

 星司はパンを割った。

「サラの提案だ。集落の水路の仕組みを使った」

 灯花が笑った。

「最近、その名前がよく出るわね」

「一緒に仕事をしてるから」

「何も聞いていません」

 星司は、口へ運びかけたパンを止めた。

 母が笑った。

 暁人も笑った。

 久しぶりに、食卓で誰も席を立たなかった。

     

 食後、星司は兄の書斎へ寄った。

 白い花に気づき、机へ近づいた。

「兄さんが買ったの?」

「クララさんが」

「そう」

 弟は、それ以上からかわなかった。

 暁人は、その静けさに耐えかねるように言った。

「結婚を、考えている」

 星司が振り向いた。

「彼女と?」

「ああ」

「彼女は、知ってるの?」

「まだ話していない」

 星司は椅子を引いた。

「好きなんだね」

 暁人は、すぐには頷けなかった。

 星司の顔から、柔らかい表情が消えた。

「兄さん」

「一緒にいると、楽になる」

「うん」

「この家へ来てくれると、母さんも喜ぶ。灯花も、よく話す」

「それは分かる」

 星司は、兄を見た。

「でも、今聞いたのは、兄さんの気持ちだよ」

 暁人は膝の上で手を組んだ。

「……好きだと思う」

「それなら、彼女に話せばいい」

 弟は、そこで一度言葉を切った。

「ただ、ヴァルデックの金が必要だから結婚するのなら、それも彼女に分かるようにしてほしい」

「家同士の結婚だ。何も関係がないとは、思っていないだろう」

「分かっているだろう、で済ませないでほしいんだ」

 暁人は視線を落とした。

 資金のためだと言うことはできる。

 彼女の父を調べるためだとは、言えなかった。

     

 数日後、直った木の鳥が届いた。

 折れた翼には、細い木の芯が入れられていた。

 継ぎ目は残った。

 職人は、そこを塗りつぶさずに返してきた。

 暁人が病院へ持っていくと、クララは窓辺で子供に本を読んでいた。

 鳥の持ち主は、包みが開くなり両手を伸ばした。

「飛ぶ?」

「投げてはいけないよ」

 暁人は慌てて言った。

 子供は不思議そうな顔をした。

「投げないよ。ここで飛ぶんだ」

 小さな手が鳥を持ち、胸の前でゆっくり動かした。

 クララが笑った。

「よかったね」

 子供は鳥の翼を撫でたあと、暁人へ頭を下げた。

「ありがとう」

 父から教わったらしい、少し大げさなお辞儀だった。

 暁人は、何と答えればいいか分からなくなった。

     *

 病室を出たあと、クララが礼を言った。

「私一人では、壊したままでした」

「直したのは、職人です」

「頼んでくださったのは、あなたです」

 彼女は、まっすぐ暁人を見た。

「あなたは、私が困っていると言うと、本当に考えてくださるのですね」

 その目を、暁人は受け止めた。

 彼女は、何も知らないから優しいのではない。

 父を失った子供を知っている。

 病室で、手紙を読み終えるまで泣くのを待つ人を知っている。

 自分にできないことが多いのも、分かっている。

 それでも、人へ頼み、礼を言い、また次の日に来る。

 その信じ方を、自分は利用できる。

 そう分かってしまうことが、暁人には恐ろしかった。

「クララさん」

「はい」

「今度、あなたに話したいことがあります」

 彼女の頬が、ゆっくり赤くなった。

「……私も、あります」

 廊下の向こうで、灯花が二人に気づいた。

 何も言わず、別の病室へ入っていった。

     *

 夜、暁人は書斎の引き出しを開けた。

 そこには、最初の茶会のために書きかけた手紙があった。

 母が招いたことにしようとした、一通。

 その横へ、ヴァルデックの資金提案と、調査中の会社一覧を並べた。

 結婚の条件として、倉庫事業の監査権を得る。

 過去の取引記録へ近づく。

 人と金のつながりを確かめる。

 目的を書いた紙の一番上に、彼は小さく記した。

 ――クララとの婚姻。

 ペンが止まった。

 庭園で渡された花が、机の端にあった。

 土へ指を触れると、まだ湿っていた。

 今日は、水をやらなくていい。

 暁人は、そのことだけを確かめた。

 それから、婚姻と書いた紙を裏返し、翌日彼女へ伝える言葉を、別の紙に書き始めた。


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