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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第五十四章 買われた借金


 ミーナは、息子の話を最後まで聞いてから、膝の上の布を畳んだ。

「クララさんを、お茶へ?」

「病院でも世話になっているし、母さんから礼を伝えたら喜ぶと思って」

「あなたが会いたいの?」

 暁人は返事を遅らせた。

「僕も同席するつもりだけど」

「それは聞いていません」

 母の声は穏やかだった。

 幼いころ、壊した花瓶のそばで、星司も触っていたと説明したときと同じ声だった。

「……もう少し、話してみたい」

「では、そう書きなさい。私がお招きしたことにしなくても」

 暁人は、手に持った封筒へ目を落とした。

 ミーナは、その封筒を見た。

「もう書いたのね」

「まだ、出していない」

「よかった」

 責められるより、その一言が堪えた。

     

 結局、茶会は開かれることになった。

 ただし、招待状はミーナが自分で書いた。

 暁人は書きかけの手紙を破らず、机の引き出しへしまった。

 その下には、銀行へ送る別の書状があった。

 北辰運送への貸付債権について、譲渡の条件を照会するもの。

 橋の補強材を積み替えた倉庫へ、人と荷車を出していた会社だった。

 暁人は二通の紙を並べた。

 一方では、相手に知られたくない目的を隠している。

 もう一方でも、同じことをしようとしていた。

 しばらく見つめたあと、銀行宛ての方へ署名した。

     

「この会社を買うのではありませんね」

 商会の顧問弁護士が念を押した。

「買うのは、銀行が持っている返済を受ける権利です。会社の荷車も、倉庫も、自動的にあなたのものになるわけではありません」

「承知しています」

「でしたら、経営への関与は、返済条件を変更する際に、相手と改めて合意する必要があります」

 暁人は頷いた。

 北辰運送の借金は、車両の購入と、駅前の荷扱い場を広げるためのものだった。

 橋の事故で貨物が減った。

 鉄道会社から入るはずの代金も遅れた。

 ところが、銀行への返済日は変わらない。

「鉄道会社の支払いが遅れた理由には、こちらも関わっている」

 暁人が言うと、会計主任が帳簿を開いた。

「柊系の鉄道会社が支払うべき未払金は、確認して別に処理します。借金の買い取りと混ぜれば、先方に不当な条件を飲ませたと言われかねません」

「そうしてくれ」

 銀行が提示した譲渡価格は、借金の額より低かった。

 満額で返してもらえる見込みが薄いため、損失を確定させてでも手放したいのだ。

 暁人は数字を見た。

 買い取りに必要な金はある。

 だが、その金は、ほかの何かへ使えなくなる。

「新しい役員用車両は、取り消す。港の事務所の改装も延期する」

 会計主任が書き留めた。

「それでも不足します」

「僕の個人資産から出す。家の持分とは分けて記録してくれ」

 星司が、その場にいれば何と言っただろう。

 暁人は一瞬考えた。

 それから、契約書を引き寄せた。

     

 北辰運送の事務所は、操車場の裏にあった。

 線路の向こうでは、蒸気機関車が貨車を押している。

 連結器がぶつかるたび、乾いた音が窓を震わせた。

 社長のハルトは、暁人を見るなり立ち上がった。

「今月末まで待ってほしいと、銀行へ申し入れたはずですが」

「その件も含めて、相談に来ました」

「銀行の代理ですか」

「貸付金を、譲り受けました」

 ハルトの顔から血の気が引いた。

「……いつ」

「昨日、正式に」

「私には、今日、通知が来たばかりです」

 机の端に、開いた封筒があった。

 暁人は椅子へ座らず、まず話した。

「ただちに全額を返せという話ではありません。返済期間を延ばす。その代わり、経営を立て直すための条件を相談したい」

「荷車を持っていくのではない?」

「働くための荷車を取り上げたら、返す金も稼げないでしょう」

 ハルトは、ようやく椅子へ腰を下ろした。

 その背後の棚には、給料袋が並んでいた。

 幾つかは空のままだった。

     

 条件は、簡単にはまとまらなかった。

 暁人は帳簿を閲覧する権利と、収支を監督する担当者を受け入れるよう求めた。

 ハルトは、自分の会社へ他人を入れることに抵抗した。

「うちの取引先を、柊の運送部へ持っていくつもりではありませんか」

「取引先を移すことを目的にはしません」

「目的にしない、では困る。禁止すると書いてください」

 暁人は弁護士を見た。

 弁護士は頷いた。

 条文が一つ増えた。

 今度は暁人が、指で紙を押さえた。

「橋の補強材を扱った時期の記録は、処分しないでください。事故調査委員会の求めがあれば、提出することも条件にします」

 ハルトの目が変わった。

「それが、本当の用ですか」

「経営を立て直す話と、事故の調査。両方です」

 部屋が静かになった。

 外では、荷を積んだ馬が蹄を鳴らしている。

「柊の人間に有利なことを言えば、返済を待ってもらえる。そういう話に聞こえます」

「証言の内容で返済条件は変えない。それも書きます」

 暁人は答えた。

「調査委員会には、あなたの会社と僕の関係を伝えます。必要なら、聴取には僕を同席させない」

 ハルトは長い時間、契約書を読んだ。

 読み終えても、すぐには署名しなかった。

「断れば、どうなります」

 暁人は、用意していた言葉を飲み込んだ。

 法的な説明ならできた。

 だが、ハルトが尋ねているのは、法律のことだけではなかった。

「別の返済案を出してもらうことになります」

「金がないから、ここへ座っているんです」

 その言葉に、暁人は答えられなかった。

     

 契約が成立したのは、翌週だった。

 ハルトは別の法律家へ相談し、幾つかの条件を直したうえで署名した。

 暁人は、約束していた支払猶予を認めた。

 差し押さえの心配が遠のいた荷扱い場では、止まっていた修理が始まった。

 折れた荷車の軸。

 雨漏りする屋根。

 線路脇で傾いた積み込み台。

 星司は、その積み込み台を見るなり眉をひそめた。

「これで重い鋼材を扱っていたのか」

「壊れたのは最近だ」

 作業長が答えた。

「土台が沈んだ。荷を軽くして使っていたんだが」

 星司は板を外させ、下を覗いた。

 雨水が溜まり、地面が柔らかくなっていた。

「上を太くする前に、水を逃がそう」

 作業長が苦笑した。

「お前さんたちは、来ると必ず水の話をするな」

「最近、よく言われます」

 星司も笑った。

     *

 サラが帝都へ来たのは、その三日後だった。

 集落の代表二人と、土地契約の協議に来ていた。

 用事を終えると、星司のいる荷扱い場へ寄った。

「水路の工事は始まりました」

「よかった。図面は見てもらえた?」

「ええ。今度は、畑の持ち主も呼ばれました」

 彼女は積み込み台の周りを歩き、足を止めた。

「ここも、水ですか」

「ここも」

 星司が答えると、サラの耳がわずかに動いた。

 その足元を、小さな子供が走り抜けた。

「父ちゃん、まだ帰らないの?」

 作業員が工具を置いた。

「もう少しだ」

「さっきも言った」

「今度は、本当にもう少しだ」

 サラが子供を見下ろした。

 子供も彼女を見上げた。

「耳、動いた」

「あなたの耳も、少しは動くでしょう」

「動かない」

「練習が足りないのかもしれません」

 子供は真剣な顔で、耳へ力を入れた。

 星司が横を向いた。

 笑うのを我慢しているのが分かった。

「あなたも、やってみたら」

 サラが言った。

「僕は、もう諦めた」

     *

 荷扱い場の端では、大学から来た技師たちが、小さな巻き上げ装置を据えていた。

 蒸気管を引く代わりに、近くの工場で発電した電気を使う試験だった。

 電動機は、歯車を介して綱の胴を回す。

 ただし、重い荷をつるしたまま電流が途切れても落ちないよう、制動装置は別に設けてあった。

 星司は、誰も荷の下へ入らないことを確かめた。

「今日は、人が手で運べる重さまでです。大きな荷は、試験を重ねてから」

「電気なら、火を焚かなくていいんだろう」

 ハルトが尋ねた。

「ここではね。発電している工場では、石炭を焚いています」

「釜を向こうへ移したわけか」

「近いです。ただ、回る軸や長い革帯を、道の向こうまで延ばさずに済む」

 スイッチを入れると、電動機が唸った。

 綱が張り、木箱がゆっくり持ち上がった。

 作業員たちが声を上げた。

 星司は箱よりも、制動装置と綱の巻かれ方を見ていた。

 その隣でサラが言った。

「山のポンプにも、これを?」

「仕組みは似ている。ただ、山の方が難しい。水も、泥もある」

「術を使う者を、試験から外さないでください」

「頼むつもりだった」

「頼むだけではなく、仕事として」

 星司は彼女へ向き直った。

「そうする。試験の担当と報酬を、先に決めよう」

 サラは頷いた。

     *

 そのころ、柊家の茶室では、クララが失敗した焼き菓子を前にしていた。

「これは、私が持ってきたものではありません」

 灯花が真顔で言った。

 ミーナが笑った。

「分かっています。私が焼きました」

 菓子は、型から外すときに割れていた。

「母さん、料理人に頼めばよかったのに」

「お客様が来ると聞くと、自分で何かしたくなるのよ」

 暁人が皿へ手を伸ばした。

「味は、いつも通りだ」

「まだ食べていません」

「匂いで分かる」

「それを言うときは、大抵、気を遣っていますね」

 クララが小さく笑った。

 ミーナは彼女へ、割れていない方の皿を勧めた。

「昔は、この子たちが焼ける前の生地を取ってしまって」

「星司です」

 暁人が言った。

「あなたもです」

 灯花がすぐに答えた。

 クララは、柊家の食卓を見回した。

「羨ましいです」

 誰も、すぐには返事をしなかった。

「うちでは、父の話を途中で遮る人が、あまりいませんから」

 ミーナは茶を注いだ。

「ここでは、遮る人が多すぎるのかもしれません」

「でも、お話が続いています」

 クララは言った。

 暁人は、彼女の顔を見た。

 この家でくつろいでほしいと思った。

 そう思った自分に、少し驚いた。

     *

 帰りの馬車を待つ間、二人は庭の回廊を歩いた。

 クララが、窓際の古い椅子へ目を留めた。

「お父様のお席ですか」

「ええ。庭へ出られない日に、ここで本を読んでいました」

「寂しいでしょう」

 暁人は、いつものように、大丈夫だと言いかけた。

 しかし、クララは慰めの言葉を急がず、隣に立っていた。

「朝、相談しようと思うことがあります」

 彼は言った。

「書斎へ行く途中で、もう聞けないと思い出す」

 クララは静かに頷いた。

「答えをくださる方だったのですね」

「答えより、質問を増やす人だった」

「困りますね」

「ええ。いなくなると、もっと困る」

 言い終えた途端、喉が詰まった。

 暁人は庭へ顔を向けた。

 クララは何も言わず、彼が振り返るのを待った。

     *

 その夜、北辰運送から連絡が入った。

 事故調査委員会へ提出するため、古い作業控えを整理していたところ、正規の伝票と合わない記載が見つかったという。

 暁人が駆けつけると、作業長が机の前に座っていた。

「先に言っておきます。どれが橋の部材だったか、私には分かりません」

「分かるところだけ、聞かせてください」

「あの晩は、積み込みの順が急に変わったんです。封をした木枠を二つ、いったん下ろせと言われた」

「誰に」

「倉庫側の主任です。そのあと、うちの者は別の荷へ回された。戻ったときには、木枠は積み直されていました」

 作業長は、手元の小さな帳面を開いた。

 公の伝票ではなかった。

 人数と労働時間を書き留めた、賃金計算のための控えだった。

「終わりの時刻が違うんです。こちらでは夜の九時を過ぎている。倉庫の伝票だと、夕方には全部終わったことになっている」

 暁人は、紙へ触れかけた手を止めた。

「委員会へ連絡を。帳面は、今ある状態で保管してください」

 作業長は、まだ何か言いたそうだった。

「ほかにも?」

「時間を直した伝票へ、署名しました。間違いを直しただけだと言われて」

 その声が小さくなった。

「私も、罰せられますか」

 暁人は、答えを選んだ。

「僕には決められません」

 作業長の肩が落ちた。

「ただ、あなたが話した内容を、こちらに都合よく書き換えることはしません」

     *

 翌朝、暁人の机へ、新聞記者からの面会申し込みが届いた。

 差出人は、橋の事故を追っている経済紙の記者だった。

 北辰運送へ柊の金が入ったと知り、事情を聞きたいという。

 会計主任が尋ねた。

「お断りしますか」

 暁人は、昨夜の帳面の写しを見た。

 出荷後に荷へ手を加えた可能性が、ようやく人の言葉と時刻になり始めていた。

 まだ、誰が命じたかは分からない。

 何を入れ替えたかも、証明されていない。

 それでも新聞に、調査が進んでいると出れば、柊の株を売ろうとしている者は考え直すかもしれない。

 銀行も、返済を急がせなくなるかもしれない。

 暁人は面会状を引き寄せた。

「会う」

「調査の内容も?」

「委員会が公表している範囲は、正確に説明する」

 そこまで言って、彼は昨夜の写しを引き出しへしまった。

 記者が何を尋ね、自分がどこまで答えるか。

 暁人は初めて、その会話を取引の一つとして考えていた。


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