第五十三章 敵の家の灯り
ヴァルデック邸の玄関には、柊の工房で作られた暖房器が置かれていた。
暁人は、真鍮の銘板へ目を留めた。
父の代の製品だった。
石炭を燃やす炉は地下にあり、温めた水を管で各部屋へ送る。煙と灰を客間へ持ち込まずに済む代わりに、配管から空気を抜く手入れが要った。
「二階の奥だけ、ときどき冷たくなるんです」
迎えに出たクララが言った。
「お父様は炉が小さいとおっしゃるのですが」
「弟なら、まず管を見たがるでしょうね」
「炉を大きくしても駄目ですか」
「僕には分かりません。ただ、弟は大きな機械を買う話になると、必ずその前に小さな詰まりを探します」
クララは笑った。
「では、うちの父と一度お話ししていただきたいです。父は、買い替える相談の方が好きですから」
暁人も口元を緩めた。
彼女が襟元へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「失礼。糸がついています」
黒い上着の肩に、白い糸屑があった。
暁人が払うと、クララは首を振った。
「もう少し、後ろです」
彼女の指が、肩へ触れた。
それだけのことに、彼は不意に身を固くした。
最後に上着の乱れを直してくれたのは、葬儀の日の母だった。
「取れました」
「……ありがとう」
クララは何も尋ねず、客間へ案内した。
エルンスト・ヴァルデックは、暖炉の前から立ち上がった。
「お越しいただき、ありがとうございます。北の山から戻られたそうですね」
「早いですね」
「石炭を運ぶ者には、山の出来事がすぐ伝わります」
暁人は椅子へ座った。
机の上には、求めていた倉庫の費用明細が揃えられていた。
「三日で用意すると申し上げましたので」
「拝見します」
紙をめくる。
荷の受け入れ。
保管。
積み替え。
再梱包。
それぞれの日付と金額が記されている。
橋の補強材が一時保管された期間にも、抜けはなかった。
揃いすぎている、と暁人は思った。
しかし、整った帳簿を疑いの証拠にはできない。
「この再梱包費用は、何のためですか」
「運搬中に木枠が傷んだと報告されています」
「中身を出した?」
「私は現場へ立ち会っていません。担当者へ確認させましょう」
「確認ではなく、当時の作業記録をお願いします」
エルンストは、わずかに目を細めた。
「事故調査委員会へお渡しするものと、同じ写しでよろしいですか」
「結構です」
相手は頷いた。
断られなかったことが、かえって暁人を落ち着かなくさせた。
「水路の修復を始めるそうですね」
エルンストは、話題を変えた。
「集落の畑が使えなくなっていました」
「もちろん、必要な工事でしょう。ただ、今の柊商会にとって、支出の時期は厳しい」
彼は別の紙を出した。
炭鉱から製鉄所へ。
製鉄所から鉄道会社へ。
鉄道会社から港へ。
会社ごとに分かれた支払いの日が、一枚に並べられていた。
「利益が出ていても、現金が足りなくなることはあります。石炭の代金を受け取る前に、坑夫へ賃金を払わなければならない。鉄道会社の支払いが遅れれば、製鉄所も困る」
「承知しています」
「ならば、会社ごとに借りるより、まとめて資金を用意した方がよい」
提案された金額は、当座の不足を埋めるのに十分だった。
代わりに、ヴァルデック側が推薦する役員を、鉄道会社へ二名入れる。
大きな借入と設備投資には、その役員の同意を必要とする。
「以前のご提案と、よく似ていますね」
「危険が減っていませんから」
「事故の原因が定まらないうちに、経営権だけが移る」
「あなたが守りたいのは、株の割合ですか。それとも、従業員の暮らしですか」
暁人は、紙へ置いていた手を引いた。
痛いところへ触れる言葉だった。
しかも、ただの脅しではない。
来月の支払いに困ることは事実だった。
「その二つを、あなたが選び分ける理由はありません」
暁人が答えると、エルンストは静かに頷いた。
「では、別の案をお持ちください。私は、柊家が倒れることを望んでいるわけではない」
暁人には、その言葉だけは信じられる気がした。
倒れずに、自分の手の中で働き続けてほしい。
そういう望み方もある。
食事には、クララも同席した。
仕事の話が途切れると、彼女は病院のことを尋ねた。
「灯花様は、手紙を読んでくださいましたか」
「ええ。患者のご家族へ届けたそうです」
「よかった。私の字が読めるか、少し心配で」
「読みにくい字ではありません」
「急ぐと、行が上へ登ってしまうんです」
エルンストが笑った。
「子供のころからだ。家庭教師に、紙を回して書くなと叱られていた」
「お父様は、余計なことまで覚えていらっしゃる」
クララの頬が赤くなった。
暁人は、父娘を見た。
娘が恥ずかしがる昔話を、父が楽しそうに話す。
自分の家でも、幾度となく繰り返された光景だった。
エルンストが使用人へ追加の皿を頼んだとき、クララは小さな声で言った。
「事故のあと、病院へ行くのをやめようかと思いました」
「なぜです」
「ヴァルデックという名で行けば、何をしに来たのかと思われるでしょうから」
暁人は返事をしなかった。
「でも、灯花様が、来るならいつも通り仕事をしてください、と」
「妹らしいですね」
「包帯を畳む人が足りないのです、ともおっしゃいました」
その言い方まで想像できた。
暁人は思わず笑った。
クララも、ほっとしたように笑った。
帰り際、彼女が玄関まで送ってくれた。
「父の話は、厳しかったですか」
「商売の話ですから」
「私には詳しく教えてくれません。心配しなくていい、と言うばかりで」
クララは、階段の手すりへ指を置いた。
「でも、私が心配しなくても、誰かが代わりに心配しているのでしょうね」
暁人は彼女を見た。
無知であることを、安心と取り違えている人ではなかった。
「病院へ来てくださることを、母も喜ぶと思います」
「灯花様ではなく?」
「母もです」
「では、伺います」
クララは微笑んだ。
その笑顔を受けながら、暁人の中で別の考えが動いた。
彼女なら、この家で人が何を話し、誰が訪れ、どの扉が閉ざされるかを知っている。
知ろうとすれば、知ることができる。
暁人は、その考えを口にしなかった。
翌日の夕食には、約束どおり三人が揃った。
灯花は、兄の皿へ野菜を足した。
「母さんに頼まれたのか」
「頼まれなくても分かります。昨夜も肉ばかり食べたでしょう」
「見ていたのか」
「クララさんが、あなたは付け合わせを残していたと」
暁人が顔を上げた。
「今日、会った?」
「病院で。暖房器の修理を、星司兄さんに頼んでもよいかって」
星司は匙を止めた。
「僕が?」
「買い替える前に、小さな詰まりを探す人だと聞いたそうよ」
弟が、暁人を見た。
「何を話してきたんだ」
「お前の長所だ」
「暖房器の空気抜きなら、設備係へ頼める。僕が行くより早い」
「そう伝えておく」
灯花は笑ったあと、少し声を落とした。
「感じのよい方ね」
「ああ」
「だから、仕事の話を聞き出すために、私の病院を使わないでね」
暁人は箸を置いた。
「そんなことは頼んでいない」
「今は、でしょう」
妹の言葉に責める調子はなかった。
それだけに、答えにくかった。
食後、星司が書斎へ来た。
北部炭鉱の排水設備の図面を持っている。
「ポンプを一台、大きくする案はやめた」
「なぜ」
「一台が止まると、全部止まる。小さい機械を二台に分けて、片方を修理している間も水を出せるようにしたい」
ただし、蒸気管を延ばすには坑道が狭すぎた。
熱と水漏れも増える。
星司は、地上の小さな建屋を指した。
「ここで蒸気機関を回して、発電する。坑内へは電線を下ろす」
「電動機でポンプを?」
「大学の試験機なら、もう回せる。ただ、鉱山で何年も使えるかは別だ。湿気で絶縁が悪くなるし、整流子で火花も出る。ガスの心配がある区画へは、そのまま入れられない」
暁人は費用の欄を見た。
「試験設備まで作れば、高くつく」
「だから、他の鉱山会社にも参加を求めたい。柊だけで抱えるより、試せる場所も増える」
「同じ設備で作った石炭を、同じ市場へ売る会社に?」
「そうだよ」
星司は頷いた。
「坑道から水を出す方法くらい、分け合えないか」
暁人は、しばらく図面を見た。
今の柊には、他社より安く、確実に掘れる理由が必要だった。
弟には、止まらずに動くポンプが必要だった。
同じ炭鉱の話をしていながら、目を向けている先が違っていた。
「共同研究の条件を書いてくれ。費用も、成果を使える範囲も」
「駄目とは言わないんだね」
「今は、決めない」
星司は図面を揃えた。
「分かった」
その返事が、少しだけ遠かった。
夜更け、暁人はCHUYUを呼び出した。
卓上の端末に、淡い光がともる。
《お帰り。今日は、夕食を覚えている?》
「灯花から報告が?」
《食堂へ来たことだけ》
「鶏肉と豆。野菜も食べた」
《よくできました》
「子供じゃない」
《知っている》
暁人は椅子へもたれた。
「ヴァルデックのやり方を、少し理解した」
《どんな点を?》
「相手が返せなくなってから金を貸すんじゃない。返せなくなる前に、貸している者の権利を買う。会社が苦しくなれば、借金の返し方を決める立場になれる」
《債権を買うこと自体は、通常の取引よ》
「分かってる。僕たちも、それを使える」
エルンストから受け取った明細の一枚を、暁人は机へ広げた。
倉庫での荷扱いを請け負った、小さな運送会社。
その名は、橋の部材の積み替え記録にもあった。
かつてオスカーが追っていた、閉鎖された会社そのものではない。だが、同じ倉庫で働き、同じ時期の荷を扱っている。
そして今、その会社は車両を担保にした借金の返済に窮していた。
「この会社の借金を、僕が引き受ける」
《目的は、事業の立て直し?》
暁人は答える前に、紙の社名を指で押さえた。
「帳簿を残させる。人も、ばらばらに辞めさせない。経営を監督する条件なら、それができる」
《調査委員会への資料提出とは、分けて考えて。あなたが会社を支配したあとに得た証言は、圧力を疑われる可能性がある》
「そこは、弁護士と相談する」
《それなら、取引条件から確かめよう》
拒まれなかった。
正しく手順を踏めば、自分にもできる。
そう思った瞬間、暁人の胸に久しぶりに力が戻った。
翌朝、彼は二通の手紙を書いた。
一通は銀行へ。
運送会社への貸付金を、どの条件なら譲り受けられるかという照会だった。
もう一通は、クララへ。
病院へ来てくれた礼と、母が茶に招きたいと言っていることを記した。
最後の一行で、ペンが止まった。
母は確かに、あの娘さんも大変でしょうね、と言っていた。
だが、茶へ招くようにとは、まだ頼んでいない。
暁人は紙を脇へ置き、母の部屋へ向かった。
先に話せば、嘘にはならない。
廊下を歩きながら、そう考えた自分に気づいた。




