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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第五十二章 鉄の兄弟山の契約


 父の椅子は、座ってみると低かった。

 暁人は机の下へ膝を入れ、思わず顔を上げた。

「父さんは、これで仕事をしていたのか」

「晩年に脚を短くしたのよ。立ち上がるとき、足が床につく方が楽だって」

 ミーナが窓辺の花瓶を取り替えながら答えた。

「直してもらいなさい。あなたには窮屈でしょう」

「いや。このままでいい」

「お父さんの真似をするために、膝を痛める必要はありません」

 返す言葉が見つからなかった。

 母は花瓶の位置を少しずらし、机の上の冷めた茶を見た。

「それと、昼食をここへ運ばせるのは今日まで」

「会議が続いていて」

「食べながら会議をするから、何を食べたか覚えていないのです」

「昨日は、肉だった」

「魚です」

 扉のところで、灯花が吹き出した。

 暁人は額へ手を当てた。

「……分かった。昼は食堂へ行く」

「星司も呼んでください。あの子は食事を忘れると、自分では気づきません」

 母が出ていくと、灯花は兄の前へ封筒を置いた。

「炭鉱から。病院に来た運搬人が預かっていたの」

「商会へ届ければいいのに」

「届けたそうよ。二度」

 暁人の手が止まった。

 封筒の表には、北部の獣人集落の名があった。

     

 午後の会議では、鉄道会社の株価が再び下がったと報告された。

 橋の事故以来、貨物は迂回し、運賃収入が減っている。修復費と補償費は、まだ総額さえ定まらなかった。

「市場へ出た株は、誰が買っている」

 暁人が尋ねた。

「幾つかの投資商会です。ただし、決済に使っている銀行が共通しています」

「ヴァルデックと取引の深い銀行か」

「はい。買い手が同じ意図で動いているかまでは、確認できません」

 暁人は頷いた。

 断言できない部分を省いてしまえば、望む筋書きはいくらでも作れる。父の机へ座った初日から、それだけはしないと決めていた。

「議決権を持つ株の数を調べてくれ。名義だけではなく、誰が代理で投票できる契約になっているかも」

 次の報告は、北部炭鉱からだった。

 産出量が落ちている。

 坑道の一部で湧水が増え、ポンプの補修が必要になった。さらに、山道の使用をめぐって地元の集落と揉めているという。

「賃上げの要求ですか」

 会計係が言った。

 暁人は、灯花から受け取った手紙を開いた。

「違う。水路の回復と、契約書の閲覧を求めている」

「ですが、鉱業権はこちらにあります」

「その契約書を、今ここへ持ってきてほしい」

 会計係は、すぐには立たなかった。

「原本は、古い領地台帳と一緒です。探すには時間が――」

「では、探している間に、彼らの話を聞く」

     

 翌朝、暁人と星司は北へ向かった。

 星司は機関車の音を聞きながら、客車の窓を少し開けた。

「右側の連結棒、前より音が軽いな」

「僕には全部同じに聞こえる」

「軸受を交換したんだと思う。戻ったら聞いてみよう」

 暁人は書類から顔を上げた。

「お前は、休むために窓を開けたんじゃないのか」

「兄さんこそ、景色を見るために顔を上げたんじゃないだろう」

 二人は、わずかに笑った。

 列車の速度が落ちた。

 駅の手前で、貨車が何列も止まっている。黒い石炭を積んだ車両の向こうに、新しい倉庫の骨組みが見えた。

「あの倉庫も、工事を止めた」

 暁人が言った。

「賃金を払う金を残すために?」

「ああ。ただ、止めた工事にも職人がいる。その人たちには、別の仕事を探させることになった」

 星司は黙って窓の外を見た。

 守ったものだけを数えていれば済む仕事ではない。

 兄の顔には、以前より深く疲れが出ていた。

     

 山の麓では、獣人の女性が二人を待っていた。

 灰色の耳と、厚い外套から覗く尾。

 年齢は星司とそう違わないように見えたが、挨拶には遠慮がなかった。

「サラです。集落の水路と、坑内の排水路を見ています」

「柊暁人です。こちらは弟の星司」

「お名前は知っています」

 サラは暁人の胸元にある、柊の印を見た。

「手紙は、読んでいただけましたか」

「三通目を、昨日」

「では、前の二通は届いていたのですね」

 暁人は言い訳を探しかけ、やめた。

「調べます。返事を出さなかったことは、こちらの責任です」

 彼女は短く頷き、山へ歩き始めた。

     

 壊れていたのは、炭鉱の機械だけではなかった。

 集落へ水を引く古い石の水路が、運搬道の盛り土で塞がれていた。

 その下流では、畑の土が乾いている。

 一方、坑口近くでは、汲み上げた濁り水が別の溝から流れ込んでいた。

 星司はしゃがみ、土と水の跡を確かめた。

「山道を広げたのは、いつですか」

「去年の秋。馬車を二台、すれ違えるようにしたときです」

「工事の図面は?」

「監督に聞いてください。私たちは見せてもらっていません」

 坑道へ入る前に、サラは壁へ掌を当てた。

 耳が、わずかに動いた。

 しばらくして、彼女は奥の支柱を指した。

「今日は、その先へ荷車を入れない方がいい」

 星司も近づき、木の柱と天井を調べた。

 楔の一つが緩み、上から細かな砂が落ちていた。

「どうして、入口から分かったんです」

「岩へ術を通すと、揺れが返ってきます。水が増えた場所や、前と違う響き方をする場所は分かることがあります」

「崩れる時刻まで?」

「そこまでは分かりません」

 サラは掌を離した。

「だから支柱も、測量も要ります。私の術があるから本数を減らせる、と前の監督は言いましたが」

 星司の表情が変わった。

「それは、誰の指示ですか」

「記録があるかは知りません。私が反対したことも、書かれていないでしょう」

 暁人は手帳を開いた。

「今、聞いた内容を残します。後で、あなたにも確かめてもらいたい」

 サラは、初めて彼の手元を長く見た。

     

 集落の集会所には、古い肖像画が掛かっていた。

 ラグエル・ヴァレンタイン公爵。

 若いころの彼と、その隣に立つ獣人の青年だった。

「ベイルだ」

 星司が言った。

「子供のころ、庭で剣の持ち方を教わった。振る前に、周りを見ろって」

「祖父も、そう言っていました」

 サラは湯を注いだ。

「私は、ベイルの孫です」

 暁人は、肖像画へ目を戻した。

 記憶にあるベイルは、すでに腰を落として子供へ目を合わせる老人だった。絵の青年には、まだ頬に傷がなかった。

「公爵に仕える前のことは、ほとんど聞いていない」

「祖父は、助けてもらった話ばかりしますから」

 サラは椅子へ座った。

「昔、この山の獣人は、土地を持っていると認められていませんでした。冬を越す林も、祖先の墓もあったのに、領主の地図では空白だったそうです」

 ある年、別の領主が山の使用権を主張し、立ち退きを命じた。

 交渉に出た若者たちが拘束された。

 その一人が、ベイルだった。

「公爵は兵を出して追い払ったのですか」

 星司が尋ねた。

「最初は、裁きの場を求めたそうです。拘束された者を引き取る保証金を払い、集落の代表を連れて交渉した。それでも相手が山道を封鎖したので、護衛をつけて食糧を運び込んだ」

 その護衛が雪崩に巻き込まれたとき、ベイルは逃げずに戻った。

 風の術で雪煙を払い、生き埋めになった者の声を探した。

 救い出した中に、ラグエル自身がいた。

「それから家臣に?」

「ええ。公爵は、集落ごと仕えろとは言わなかったそうです。祖父には、護衛として来てほしいと頼んだ。祖父は、その頼み方が嬉しかったと」

 サラは湯飲みを両手で包んだ。

「私は、その忠義を悪く思っていません」

 暁人は、彼女が次に話すのを待った。

「でも、そのとき作られた土地の契約には、別の問題が残りました」

     *

 住む場所と、林を使う権利は認められた。

 地下の鉱物は、領主側の権利とされた。

 当時の集落にとっては、冬を越し、子供を連れ去られずに済むことが何より大切だった。

 後に石炭の価値が上がると、その契約が山の未来を決めた。

「祖父は公爵を信じていました。公爵も、私たちを守ったのだと思います」

 サラは言った。

「でも、守られたことへの感謝と、今の契約に納得しているかどうかは、別です」

 暁人は、机の上に置かれた古い写しを読んだ。

 採掘に伴う水路の変更。

 運搬道の拡張。

 集落側に協議を求める条文はあった。

 同意が得られない場合に工事を止める規定は、なかった。

 支払われる補償も、採れた石炭の量とは関係のない、古い定額のままだった。

「父さんは、これを知っていたのか」

 暁人が呟いた。

「お父上のころ、診療所と学校ができました。助かった者は大勢います」

 サラは答えた。

「ただ、水路の契約を直してほしいという話は、学校への寄付とは別なのです」

 暁人は口を閉じた。

 父の善意を並べても、この畑へ水は戻らない。

     

 炭鉱事務所へ戻ると、監督が帳簿を持って待っていた。

「水路の修復費は、すぐには出せません。積み出し量も落ちています」

「運搬道を広げる金は、どこから出した」

 暁人が尋ねた。

「輸送会社が立て替えました」

 差し出された契約書には、立替金の返済が遅れた場合、石炭の販売代金から優先して差し引くとあった。

 輸送会社の名は違っていた。

 だが、その融資元は、帝都で柊の鉄道株を買っている商会とつながっていた。

 星司が兄を見た。

 暁人は契約書を伏せなかった。

「ヴァルデックに関係する金かもしれない」

「かもしれない、だね」

「ああ。だから調べる」

 彼は監督へ向き直った。

「水路を塞いだ工事を発注したのは、こちらだ。融資元が誰でも、その責任は変わらない」

 修復費を払えば、手元の資金はさらに減る。

 払わずに採掘を続ければ、集落との争いが深まる。

 どちらを選んでも、待っている者がいる気がした。

     

 帰りの列車で、星司は包みを開けた。

 サラが持たせた、木の実入りの硬い焼き菓子だった。

 一つを兄へ渡す。

 暁人は受け取り、噛んだ。

「……硬いな」

「だから、小さく割って食べるんだって」

「先に言ってくれ」

「説明する前に食べたのは兄さんだ」

 暁人は菓子を見下ろし、少し笑った。

 やがて、その笑いが消えた。

「水路の工事は始める。契約の見直しも必要だ」

「うん」

「ただ、採掘を続けるには金が要る。銀行はこちらの株を欲しがっている。山では、もう別の貸し手に先を越されていた」

 星司は菓子の欠片を掌へ集めた。

「サラたちを味方にしようと思ってる?」

「思っている」

 暁人は隠さなかった。

「あの山のことを、僕たちより知っている。運搬道も、水も、坑道も。敵に回したままでは炭鉱を守れない」

「それなら、何を頼むのか、最初に言ってほしい」

「分かってる」

「兄さんがそう言うとき、僕には分からないことが増えている」

 車輪の音が、二人の間を埋めた。

 暁人は窓へ映った弟を見た。

 父に似ていると思った。

 同時に、自分だけが別の場所へ歩き始めたような寂しさを覚えた。

     

 帝都へ着くと、商会の使いが待っていた。

 ヴァルデック家からの返書だった。

 暁人が求めていた、倉庫の立替費用に関する会談を受けるという。

 場所は商館ではなく、私邸。

 その末尾には、クララの筆跡で短い一文が添えられていた。

 ――病院へ届けた手紙の返事を、灯花様にお預けしました。患者のご家族が、どうかお礼を、と。

 暁人はその文字を、二度読んだ。

 山では、古い恩義の下に不公平が残っていた。

 帝都では、疑っている家の娘が、傷ついた人のために手紙を書いていた。

 ひとまとめにできれば、どれほど楽だろう。

 彼は返書を畳み、使いへ言った。

「伺うと伝えてくれ」

 星司は隣で、何も言わなかった。



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