復讐編 第五十一章 喪服の取引 二代目の最初の朝
ここまでの物語
――始祖・空一郎から、初代・黎明へ――
葛城善一は、研究中の事故で妻アヤを失って以来、時間を越える方法を追い続けていた。その研究を受け継いだのは、娘みさをと夫の俊介、そして孫の陸一郎、海一郎、空一郎、宙結だった。
家族の知識と技術を託され、空一郎は過去への旅に出る。しかし、転送経路の異常によって、魔法と剣の存在する別世界へ漂着してしまう。帰還の道を失った彼を支えたのは、妹の宙結をモデルにした支援AI・CHUYUと、家族が用意した収納装置Noös Pouch、その中に収められた未来の道具だった。
公爵ラグエル・ヴァレンタインに保護された空一郎は、その娘アリステリアと出会い、やがて夫婦となる。故郷へ帰るための研究を続けながら、水路や工房、街道の整備に携わり、この世界の人々と暮らしを築いていった。
長男・黎明と、長女エレオノーラが生まれたことで、空一郎には、帰りたい家族と、今ここで守りたい家族ができた。
成長した黎明は、父の技術を学ぶ一方、友人ティオや、その妹ミーナとの交流から、道具だけでは解決できない暮らしの問題を知っていく。のちに妻となるミーナは医療と救護を、ティオは教育と大学の運営を担い、黎明の歩みを支えた。
職人たちとの試行錯誤から蒸気機関が育ち、石炭を運ぶ船が川を進み、鉄道が街と鉱山を結ぶ。医療院と学校が増え、やがて電気も、新しい産業の一部となった。黎明は政治の中枢で制度改革に取り組み、課税や予算を代表会議で審議する仕組みを整えていく。
しかし、発展は喜びだけをもたらしたのではなかった。土地を追われる者、富を独占しようとする者、改革へ反旗を翻す者が現れた。未来の力で反乱を止めたときには、巻き添えとなった人々もいた。科学を神の裁きとして語れば統治に役立つ。その誘惑に、空一郎も黎明も向き合わなければならなかった。
故郷からの返事を待ち続けた空一郎は、ついに帰還を果たせないまま、家族に囲まれて生涯を終える。彼が息子へ託したのは、未来の装置だけではなかった。知らないことを隠さず、失敗も記録し、道具を使う人々への責任を引き受けるという姿勢だった。
柊家の事業をまとめる初代当主となった黎明は、ミーナとともに、暁人、星司、灯花の三人を育てた。長男の暁人は財務と契約を、次男の星司は技術と検査を担い、娘の灯花は医療と救護の仕事に携わるようになる。
その家族を揺るがしたのが、鉄道橋の崩落だった。
多くの死傷者を出した橋には、柊製鉄所の印を持つ部材が使われていた。星司たちの調査で製造記録との不一致が見つかり、部材のすり替えが疑われる。さらに、記録を追っていた技術者オスカー・リンデが倉庫火災で命を落とし、調査の手がかりも失われた。
補償と復旧で事業が苦しくなる中、ヴァルデック商会が資金援助を申し出る。その条件には、柊家の経営へ深く入り込む権利が含まれていた。
病床の黎明は、子どもたちへ言い残す。
家の名より先に、失われた人の名を確かめること。
記録を残し、原因を調べること。
父を見送ったあと、二代目当主となる暁人は、その遺言と、焼け残った帳簿を前にする。
父が残せと言った記録を、誰が消したのか。
家業と家族を守るための調査は、やがて、相手の名を暴くための復讐へと変わり始めていた。
父の葬儀から七日後、暁人は黒い上着のまま銀行へ入った。
受付の男が立ち上がり、深く頭を下げた。
「このたびは、心より――」
「ありがとうございます」
暁人は礼を受けた。
「今日は、返済期限の話をしに来ました」
男は、差し出しかけた弔意の書状を机へ戻した。
奥の会議室には、銀行の頭取と、ヴァルデック商会の代表が待っていた。
なぜ商会の代表まで同席するのか。
暁人は、座る前に尋ねた。
「当家と銀行の契約について、商会へどこまで伝えていますか」
頭取が答えた。
「今回の融資案には、商会の保証が必要です」
「必要だと決める前に、こちらへ確認していただきたかった」
部屋の空気が、少し変わった。
ヴァルデック商会の代表は、エルンスト・ヴァルデックと名乗った。
四十代の、身なりの整った男だった。
父の代から、炭鉱と港の取引に関わってきたという。
「ご尊父には、長くお世話になりました」
「父も、資金を出していただいたことは忘れていませんでした」
暁人は答えた。
「私も、正当な取引まで否定するつもりはありません」
エルンストは頷いた。
「では、今の危機を乗り越える方法を話しましょう」
机へ置かれた案には、借入金をまとめ直す条件が書かれていた。
返済期限を延ばす。
運航会社の持分を商会へ譲る。
鉄道事業の重要な契約には、商会が指名する役員の同意を必要とする。
暁人は、最後の条項へ指を置いた。
「重要な契約とは、どこまでですか」
「大きな支出と、収益に関わる契約です」
「それでは、船を直すことも、運賃を変えることも、そちらが止められる」
「資金を出す側にも、確かめる責任があります」
もっともらしい言葉だった。
父も、出資者の権利を無視する人ではなかった。
だからこそ、暁人は紙を閉じず、最後まで読んだ。
「この条件は、受けられません」
彼が言うと、頭取は腕を組んだ。
「返済日は、変わりません」
「承知しています」
「ご尊父の信用だけで、待ち続けることはできません」
暁人は、頭取を見た。
父の名が、今は待たない理由に使われている。
そのことを、顔には出さなかった。
「別の資金を調達します。既存の契約に従って、支払います」
エルンストは、穏やかに尋ねた。
「病院と大学の基金を、担保へ戻すお考えですか」
「ありません」
「ご家族の資産は、大きいと聞いています」
「基金は、家業の返済に使うためのものではありません」
暁人は書類を揃えた。
「その話を持ち出すのであれば、今日の会議はここまでにします」
銀行を出たとき、彼は手袋を外した。
掌が汗で湿っていた。
付き添った書記が尋ねた。
「ほかの銀行へ、すぐ連絡しますか」
「お願いします。条件は、口頭ではなく書面で」
「先ほどの会議も、記録へ?」
「全部」
暁人は、建物へ振り返った。
父が若いころ、同じ場所へ来たかもしれない。
銀行の壁には、設立に出資した者の名が並んでいる。
そこに、柊の字があった。
その字があるから助かるとは、もう思わなかった。
家の事務所へ戻ると、管理者たちが待っていた。
今月の賃金。
石炭の仕入れ。
船の修理。
事故の被害者への支払い。
どれも、後へ回せば誰かが困る。
暁人は、一覧の上から順に見た。
「予定していた倉庫の増築を止めます。新しい船の発注も、契約前の分は延期してください」
運航会社の担当者が顔を上げた。
「その船がなければ、来年の契約を取れません」
「今年を越えられなければ、来年の船も持てません」
声が強くなった。
暁人は一度、筆を置いた。
「延期した場合の損失も、出してください。今の判断を、正しかったことにするために数字を削らないでほしい」
担当者は頷いた。
父の言葉を借りていることに、暁人自身が気づいていた。
夕方、星司が製鉄所から戻った。
外套の裾に、煤がついていた。
「補強材の出荷時に撮った写真が見つかった」
暁人は席を立った。
机へ広げられた写真には、貨車へ載せる前の部材が並んでいた。
番号と、穴の周りの形が見える。
「事故現場で回収したものとは、形が違う」
星司が言った。
「工場の出荷表だけでなく、現物を写した記録が残っていた」
「工場を出たあとに、替えられた」
「少なくとも、この写真の部材と、回収した部材は違う。撮影後、積み込みまでの間も含めて調べる」
兄は頷いた。
すぐに結論を言いたくなる。
弟の言葉が、それを一歩ずつ止める。
「なぜ、今まで写真が出てこなかった?」
「工場の正式な記録ではなかった。積み込みを担当した班長が、初めて使う貨車へどう載せたかを、後で見直すために撮っていた」
「その人は?」
「今は別の工場にいる。委員会へ話してもらった」
暁人は写真を見た。
父が作った制度にも、抜けはあった。
正式な記録を残すよう命じても、どこに何があるかまで、把握できていなかった。
それでも、働く者が自分の仕事のために残したものが、今、役に立っている。
「写しを、もう一部作っておこう」
暁人が言うと、星司は頷いた。
「原本の持ち主の名前も、一緒に残す」
夜、三人は母と食卓を囲んだ。
父の椅子は、そのままだった。
ミーナは、暁人の皿へ温かい料理をよそった。
「銀行へ行ったそうですね」
「条件を、断りました」
「では、食べてから続きを考えましょう」
彼は頷いたが、匙を持たなかった。
灯花が兄を見た。
「お腹が空いていない?」
「空いてる」
「なら、一口食べて。話は、そのあとでも聞けます」
暁人は、言われたとおりにした。
少しして、肩の力が抜けた。
「父さんは、毎日、こういう話をしてたのかな」
ミーナは答えた。
「話す日も、話さない日もありました」
「話さない日は?」
「隣に座っていました」
長男は、母の顔を見た。
父を失ったのは自分だけではない。
そう分かっているはずなのに、今日は、自分の仕事で頭がいっぱいだった。
「母さんは、眠れてる?」
彼が尋ねると、ミーナは少し笑った。
「今夜は、私の心配もしてくれるのですね」
「ごめん」
「謝らなくていいです。眠れない夜はあります」
彼女は空いた椅子へ眼を向けた。
「でも、病院へ行けば、今日の仕事があります。家へ帰れば、あなたたちがいます」
灯花が、母の手へ触れた。
星司は料理を口へ運び、暁人も続いた。
父のいない食卓で、四人は、途中で冷める前に食事を終えた。
翌朝、南部から来客があった。
補助ポンプと弁を作ってきた工房の代表だった。
昔、黎明へ「買う側も変わってください」と言った男である。
今は息子へ工房を任せ、自分は教える側へ回っていた。
彼は、封筒を机へ置いた。
「大きな金ではありません」
暁人は中を見た。
いくつかの工房が連名で、短期の貸し付けを申し出ていた。
「なぜ、今、当家へ?」
「ご尊父の葬儀へ来たとき、賃金の支払いが厳しいと聞きました」
「父への恩返しなら、受け取れません。返せない危険があります」
老人は首を振った。
「恩はあります。でも、それだけでは、息子たちを説得できません」
工房は、柊家の鉄を買っている。
船で部品を送り、鉄道で材料を受け取っている。
柊家の事業が一度に止まれば、自分たちの仕事も止まる。
「全部をあなたの家へ頼るのは、困ります」
老人は率直に言った。
「だから、ほかの仕入れ先も育てています。でも、橋の事故を口実に、今ある仕事まで壊してよいとは思わない」
暁人は、条件を読んだ。
期限。
利息。
返済が遅れた場合の協議。
どの工房も、持分や経営権は求めていなかった。
その代わり、定期的に資金の状況を知らせることを求めていた。
「隠されると、こちらも判断できません」
老人が言った。
「不利なことも、知らせてください」
父が求めたことを、今、自分が求められていた。
午後、暁人は港へ向かった。
倉庫の火災前に支払われた運送費を、荷の記録と照合するためだった。
その窓口は、ヴァルデック商会の建物にあった。
受付で用件を告げると、若い女性が奥から出てきた。
「父は、外出しています」
「エルンスト氏へ、会いに来たのではありません。関連会社へ支払われた費用の明細を確認したいのです」
彼女は書状を読んだ。
「会社の担当者を呼びます。お待ちいただけますか」
声は落ち着いていた。
喪服の上着へ眼を向け、少し言葉を探した。
「お父さまのこと、お悔やみ申し上げます」
暁人は礼をした。
「ありがとうございます」
待合室には、港の絵が掛かっていた。
その横に、慈善医院への寄付の証書がある。
女性は、暁人の視線に気づいた。
「そちらの医院へ、週に一度行っています。読み書きのできない方へ、手紙を書く手伝いをしています」
「橋の事故で、入院した人も?」
「はい」
彼女は答えた。
「息子さんへ、無事だと知らせたい方がいました。手を怪我して、書けなかったので」
暁人は、彼女を見た。
ヴァルデックの建物にいる。
父は、あの契約を提示した男だ。
それでも、目の前の話まで嘘だと決める理由はなかった。
「お名前を、伺っても?」
「クララ・ヴァルデックです」
彼女は名乗った。
暁人は、その名を覚えた。
担当者が来るまで、二人は事故のあとに届かなくなった手紙について話した。
路線が切れ、郵便も迂回している。
安否の知らせが、何日も遅れる。
「鉄道ができる前より、遅く感じるのでしょうね」
クララが言った。
「以前は、何日もかかるのが当たり前だった。でも、翌日に届くことを覚えたら、二日でも心配になります」
暁人は頷いた。
父と駅の時計を見た日のことを思い出した。
同じ時刻を使えば、遠くの人と予定を合わせられる。
その予定が壊れたとき、人は、以前より深く不安になるのかもしれない。
明細は、その日は出なかった。
担当者は、別の会社の書類なので、照会に時間がかかると言った。
「返答の日を、決めてください」
暁人が求めると、男は三日後と答えた。
彼は、その日付を双方の書状へ入れさせた。
帰り際、クララが戸口まで送った。
「父から、融資のお話があったと聞いています」
「ありました」
「お受けにならなかったのですね」
暁人は、返事の前に彼女を見た。
「家の判断を、長く他人へ預ける条件だったからです」
クララは、わずかに眉を寄せた。
「そういう条件だったのですか」
「読めば、分かります」
言葉が、冷たくなった。
彼女は黙った。
暁人は、少しして言い直した。
「あなたが決めたことではありませんね」
クララは頷いた。
「でも、父の仕事です。知らなくてよいとも、思っていません」
夜、商会の明細を待つ前に、別の書類が届いた。
星司が照合していた製造番号について、ある修理工場が返事を出した。
橋へ向かうはずだった部材の番号が、その工場の受領簿に残っている。
売り手は、今は閉じている会社。
紹介した者の欄には、名前が書かれていた。
エルンスト・ヴァルデック。
暁人は、紙を机へ置いた。
星司が読み、日付を確かめた。
「この人が、部材を受け取ったわけではない」
弟は言った。
「取引を紹介したことと、取り替えを知っていたことは、まだ別だ」
「分かってる」
暁人は答えた。
しかし、頭の中では、銀行で見た男の顔と、待合室で会った娘の顔が並んでいた。
彼は、CHUYUの端末を開いた。
「商会の取引記録を、集めたい」
《どの記録を調べる?》
「公開された会社の記録と、こちらが持っている契約。それから、調査委員会へ提出されたもの」
《照合できる。相手の私的な通信や、権限のない帳簿にはアクセスしない》
暁人は画面を見た。
「祖父さんの道具なら、もっと分かることがあるだろう」
《できることと、してよいことは、同じではない》
父が定めた規則が、そこにあった。
暁人は、返事をせずに資料を送った。
今夜は、その規則へ従った。
翌朝、三つの工房へ、貸し付けの条件を確認する返書を出した。
港の運航会社へ、修理を終えた船を予定どおり出すよう知らせた。
事故の被害者への支払いも続けた。
家業を守る仕事は、止めなかった。
そのあと、ヴァルデック商会へ、新しい面会の依頼を書いた。
父が何十年も交渉してきた家へ、二代目の名で送る最初の正式な書状だった。
用件は、資金の相談とした。
封をする前に、星司が尋ねた。
「条件を、もう一度話し合う?」
「話を聞く」
暁人は答えた。
「相手が何を欲しがっているのか、もっと正確に知りたい」
「受領簿のことは?」
「委員会へ渡してほしい。僕は、まだ、その紙を持っているとは言わない」
星司は兄を見た。
調査のために、いつ何を告げるか考えることはある。
それでも、父の前でしていた話し合いとは、少し違っていた。
暁人は封印を押した。
柊の葉と、古い文字。
幼いころ、玩具の列車についていた印だった。
あのときは、「うちのもの」と思った。
今は、その印のために働く人がいる。
その印を信じて金を預けた人がいる。
そして、その印を安く買おうとする人がいる。
彼は書状を書記へ渡した。
「返事が来たら、すぐ知らせてください」
父の机へ戻ると、焼けた帳簿の写しが開かれていた。
焦げて読めなかった名前のそばへ、暁人は新たに見つかった名を書いた。
エルンスト・ヴァルデック。
その下へ、細く線を引いた。
まだ、犯人とは書かなかった。
だが、その名を確かめるために、相手の家へ入ることを決めていた。




