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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第五十章 夜明けのあと 初代の遺言



 橋の崩落から、三か月が過ぎた。


 川には、まだ仮設の桟橋が残っていた。


 途切れた路線の貨物は、別の鉄道と船へ振り分けられた。人の移動には、渡し船と馬車を使った。


 遠回りになった。


 運賃も、日数も増えた。


 それでも、鉱山を止めず、工場の炉を消さずに済む道を、担当者たちは探した。


 かつて黎明が一枚の地図へ描いたつながりは、彼が寝台から起きられなくなっても、形を変えて続いていた。


     


 調査委員会の中間報告には、部材の不一致が記された。


 回収された一部の補強材は、製造記録にある寸法と材料の性質に合わない。


 同じ番号が、別の場所で受領された記録にも使われている。


 どの時点で、誰が取り替えたかは未確定。


 倉庫火災によって、失われた記録がある。


 オスカー・リンデの死についても、調査は続いていた。


 黎明は報告書を読んだ。


 眼が疲れると、星司が続きを読んだ。


「そこを、もう一度」


 父が言うと、息子は頁を戻した。


 同じ箇所を、何度も読んだ。


 読み返せば、消えた名前が戻るわけではなかった。


     


 暁人は、融資と出資の動きを調べていた。


 事故の直後、柊家の事業への貸し出しを減らした銀行がある。


 同じ時期、その事業の持分を買いたいと申し出た会社がある。


 それらを辿ると、いくつかの道がヴァルデック商会へつながった。


 ただし、事故を起こした証拠ではない。


 商会は長く、炭鉱と運輸へ資金を出してきた。


 事故で損失も受けている。


 暁人は、その事実も帳簿へ書いた。


 書きながら、納得できなかった。


 誰かが仕組んだのなら、被害を受けたように見せることもできる。


 それを考え始めると、どの数字にも別の意味があるように思えた。


     


「疑うだけでは、終わらない」


 星司が言った。


 二人は父の書斎で、同じ表を見ていた。


「だから、調べてる」


 暁人が答えた。


「僕も調べている。でも、合う数字だけを集めたら、証明したい話へ近づくだけになる」


「では、何をすればいい」


「違う説明ができるかも、確かめる」


 兄は椅子の背へ身体を預けた。


「父さんと、同じことを言う」


「父さんが言ったから、繰り返しているだけじゃない」


 星司は、焼け残った頁の写真を指した。


「これを、正式な証拠にしたいからだ。誰かを疑うためだけの紙で終わらせたくない」


 暁人は黙った。


 そのあと、表の余白へ「別の可能性」と書いた。


     


 灯花は、遺族への支援を続けていた。


 葬儀が済んでも、生活は元に戻らない。


 働く者を失った家。


 怪我のため、以前の仕事へ戻れない者。


 助かった家族の前で、亡くなった人の話をできなくなった者。


 彼女は、医療院だけでは引き受けきれない仕事を、町の学校と慈善医院へつないだ。


 父へ渡す報告には、支払った金額だけでなく、まだ困っていることを書いた。


 黎明は、そこを長く読んだ。


「橋が直っても、終わらない」


 彼が言うと、娘は頷いた。


「はい」


「僕が、もっと早く気づけたことは?」


「今、調べています」


 灯花は父の手へ触れた。


「父さん一人で、事故の全部を引き受けないでください。でも、父さん一人が悪くなければ終わり、にもしたくありません」


 黎明は、ゆっくり頷いた。


     


 ある晴れた午後、家族が寝室へ集まった。


 黎明は、久しぶりに寝台の上で身体を起こした。


 ミーナが背へ枕を入れる。


 暁人は机を寄せ、星司が端末を置いた。


 灯花は、窓辺の花を替えた。


 黎明は、三人の手元を見て笑った。


「誰も、何を頼めばよいか聞かなくなった」


「何度も、同じ部屋へ来ていますから」


 ミーナが答えた。


「昔より、私たちも慣れました」


 彼は妻へ眼を向けた。


「もっと、別のことに慣れてもらえばよかった」


「別のことにも、慣れましたよ。あなたが帰ると言った時刻を、少し過ぎることとか」


 暁人が、口元だけで笑った。


 黎明も笑った。


 その笑いが、途中で小さな咳になった。


 皆が待った。


 息が整うと、彼は机の封筒を指した。


     


 正式な遺言は、法律家と立会人の前で、すでに整えていた。


 この日は、家族へ自分の言葉で話したかった。


「家業の代表は、暁人へ任せたい」


 長男は頷いた。


 日々の仕事では、すでに多くを引き受けていた。


 それでも、父から告げられると、違う重さがあった。


「ただし、代表になることと、全部を自分のものにすることは違う」


 黎明は続けた。


「大学と医療院への資金は、定めた基金から出す。家の都合で、すぐ引き上げられないようにしてある」


 灯花が、書類を確かめた。


「技術の判断は、星司と担当者へ任せる。試験に通らないものを、納期だけで出させない」


 暁人は父を見た。


「分かっています」


「うん。分かっていることを、僕がいなくなったあとも、紙で確かめられるようにしたい」


     


 画面に、《Bible》の管理規則が現れた。


 黎明がCHUYUへ頼んだ閲覧権限の見直しは、専門家との協議を経て、文書になっていた。


 歴史と被害の記録は、学ぶために残す。


 危険な技術と装備の利用は、目的と能力を確認し、複数の者が判断する。


 血縁も、当主の地位も、無条件の許可にはならない。


 暁人は、その最後の文を読んだ。


「祖父さんが、家へ残したものです」


「そうだよ」


「家の外の者にも、判断を任せる?」


「僕たちだけでは、見落とすからだ」


 黎明は答えた。


 星司は黙っていた。


 これは、兄弟が今すぐ争うための規則ではない。


 しかし、いつか争うことになれば、簡単には変えられない境界になる。


     


「僕は、父さんの世界の歴史を読んだ」


 黎明が言った。


「知識があれば、同じ過ちを避けられると思っていた。でも、知っているだけでは、避けられないことも分かった」


 暁人が尋ねた。


「何を読んだのですか」


「今度、ちゅゆと一緒に読んでほしい。戦争と、町を失った人々の記録だ。人を運ぶ機械が、人を殺すために使われた記録もある」


 父は長男を見た。


「家を守りたいと思ったときに、他人の家を壊してよいと考えないでほしい」


 暁人の指が、机の縁で止まった。


「誰かが、先に僕たちを壊そうとした場合も?」


「守っていい。必要なら、争うこともある」


 黎明は息をついだ。


「でも、相手に勝つことと、守りたかったものを守ることが、いつも同じとは限らない」


     


 灯花が、薄い封筒を開いた。


 中に、古い紙があった。


 黎明が十二歳のとき、父から渡されたものだった。


 働く者の記録を消さないこと。


 争いを終わらせる道を、始める前に考えること。


 研究の記録を、都合の悪い結果まで残すこと。


 その下へ、新しい字が加えられていた。


 ――家の名より先に、失われた人の名を確かめること。


 星司が、声に出して読んだ。


 黎明は頷いた。


「橋の調査も、その順番で続けてほしい」


 暁人は紙を見ていた。


「真相を、見つけます」


 父は、すぐに励まさなかった。


「見つけてほしい。でも、僕へよい知らせをするために、答えを急がないで」


 長男は、俯いたまま頷いた。


     


 家族が部屋を出る前、黎明は星司を呼んだ。


「オスカーの図面は?」


「大学へ預けました。工場にも写しがあります」


「君が子どものころ、橋の模型を見せてもらった」


「覚えています」


「僕も、あの日の君たちを覚えている」


 星司は父へ近づいた。


 黎明は、息子の手を握った。


 油汚れは洗ってある。


 それでも、指の小さな傷は残っていた。


「君が直したものを、もっと見たかった」


「まだ、見せます」


 息子は言った。


 父は微笑んだ。


「うん」


     


 数日後、ロットとフランとエミルが来た。


 三人とも、階段を上る途中で一度休んだ。


 若いころのように、工具箱を抱えて駆け上がることはできない。


 ロットは寝台の脇へ座ると、包みを開いた。


 煤のついた、古い歯車だった。


「最初の船で使ったものだ」


 黎明は手を伸ばした。


 フランが支え、彼の掌へ載せた。


「木の歯が、まだある」


「替えていない歯も残ってる」


 フランが答えた。


「全部、鉄にしろとお前が言ったのも、覚えてる」


「岸の工房で直せるようにしたんだね」


「そうだ」


 黎明は、その歯を撫でた。


     


「僕がいなくても、次の船を出してほしい」


 彼が言うと、エミルは首を振った。


「もう、出してる。俺たちがここへ来ている間にも、港から出たはずだ」


 黎明は顔を上げた。


「そうか」


「昔、お前が望んだことだろう」


 ロットが言った。


「誰か一人がいなくても、続けられるようにする。時間はかかったが、そうなってきた」


 黎明は、少し笑った。


 喜びと寂しさが、同じ顔に現れた。


「よかった」


 彼は歯車を、フランへ返した。


「これは、残して」


「残す」


 三人は、いつもより長く部屋にいた。


 新しい図面の話はしなかった。


 最初の船でパンを焦がした話をして、最後に、四人で笑った。


     


 その夜、黎明はミーナへ、庭の様子を尋ねた。


「花は、まだ咲いてる?」


「少し。灯花が、明日また持ってきます」


「君が初めて、薬草を持ってきたころを思い出した」


「私は、あなたがすぐ何かを作ろうとしたことを思い出します」


「今も?」


「今は、作る前に、だいぶ話を聞くようになりました」


 黎明は笑った。


「長く、かかった」


「私たちも、長く暮らしましたから」


 ミーナは、夫の手を握った。


     


「君の仕事を、僕の仕事にしてしまったことがあった」


 黎明が言った。


「君が、僕のために働いているように話したことも」


「言い直してもらいました」


「でも、困らせた」


 ミーナは夫を見た。


「困ったことは、ありました。怒ったことも」


 彼女は、握る手を緩めなかった。


「でも、一緒に暮らしたかったのは、私です。そのことまで、あなたの責任にしないでください」


 黎明は、ゆっくり頷いた。


「会えて、よかった」


「私もです」


 窓の外で、夜の列車が通った。


 ミーナは、夫が眠るまで、手を握っていた。


     


 調査の進展は、翌週も小さなものだけだった。


 支払いを受けた会社の一つは、すでに事務所を閉じていた。


 責任者の行き先は分からない。


 製造番号の不一致について、柊家の工場で働いた者の聞き取りが続く。


 火災で亡くなった書記の家から、新しい控えが見つかった。


 そこにも、欠けた名前があった。


 黎明は、短い報告を聞いた。


 最後まで、誰が橋を壊したのかは分からなかった。


 そのことを、彼は何度も気にした。


 しかし、次の報告を待つ時間は、もう長く残っていなかった。


     


 亡くなる日の朝、灯花が花を持ってきた。


 黎明は目を開け、その色を見た。


「庭の?」


「はい」


 娘は、寝台のそばへ置いた。


 暁人と星司も呼ばれた。


 ミーナは、夫の枕元にいた。


 黎明は三人を順に見た。


 何かを言おうとした。


 暁人が身をかがめた。


「ここにいます」


 父の唇が、わずかに動いた。


「知ってる」


 小さな声だった。


 暁人は、返事をせず、父の手を取った。


 星司は反対側へ座り、灯花は母の肩へ手を置いた。


 その日の昼を迎える前に、黎明の呼吸は静かに止まった。


     


 訃報は、鉄道の電信で各地へ送られた。


 港からは船で届いた。


 大学で鐘が鳴った。


 医療院では、勤務を交代した者たちが、順に祈った。


 工場をすべて止める案も出た。


 暁人は、必要な設備と仕事を止めないよう伝えた。


 鉱山の水は、弔いの日にも流れ込む。


 病院には、湯と食事が要る。


 長男は、その指示を書いてから、しばらく筆を置いた。


 父が望んだ仕事を、父のいない日に行っていた。


     


 葬儀には、称える言葉だけが集まったわけではなかった。


 橋の事故で家族を失った者も来た。


 祈りを捧げた者がいた。


 屋敷の門の外に立ち、入らずに帰った者もいた。


 灯花は、その姿を見ていた。


 怒る理由も、弔いたい理由も、自分たちだけで決めることはできなかった。


 暁人は弔辞の最後に言った。


「父が始めた仕事を、続けます。橋の事故の調査も、続けます」


 家の名を回復するとまでは、言わなかった。


 それでも、その願いは胸の中にあった。


     


 葬儀のあと、三人は父の書斎へ入った。


 正式な遺言に従い、暁人が二代目当主となる。


 星司は技術と研究の管理を続ける。


 灯花は医療と教育を支える基金へ関わる。


 それぞれの権限と、互いに確かめるべきことが書かれていた。


 CHUYUは端末から、記録の保存先を示した。


《黎明が最後に確認したものは、この一覧にある》


 家族の映像。


 事業の帳簿。


 事故の報告。


 危険な技術への閲覧規則。


 そして、故郷へ送った記録。


 星司は、父の名前を見た。


「祖父さんへ知らせたかっただろうね」


 灯花が、小さく頷いた。


     


 暁人は、焼け残った帳簿の写真を机へ置いた。


 その隣に、父の遺言を並べた。


 紙の上では、文字の濃さが違った。


 片方は、焦げた頁から拾い直した数字。


 片方は、父がまだしっかり筆を持てたときの言葉。


 星司が椅子へ座った。


「次は、閉じた会社の取引先を調べる。委員会にも、同じ資料を渡す」


「うん」


 暁人は答えた。


 灯花が兄の顔を見た。


「眠ってからにしてください」


「少しだけ、読んでおきたい」


「父さんも、そう言いました」


 暁人は、初めて顔を上げた。


 妹の眼が赤かった。


 彼は紙から手を離し、頷いた。


「あとで、休む」


     


 灯花が部屋を出たあと、星司は兄へ尋ねた。


「父さんの言った順番で、続けるんだよね」


「亡くなった人を確かめる。記録を残す。原因を調べる」


 暁人は答えた。


「それは、続ける」


 弟は、その先の言葉を待った。


 兄は、焼けた頁へ眼を戻した。


「でも、僕は、消した者の名前も見つけたい」


「僕も、見つけたい」


 星司が言った。


「ただ、疑っている相手の名前で、空欄を埋めないようにしたい」


 暁人は頷いた。


 二人が同じところを目指していると、まだ信じることができた。


     


 その夜、暁人は一人で書斎へ戻った。


 幼いころ、玄関へ置いた「おかえり」の紙が、父の引き出しに残っていた。


 折り目があり、端が少し擦れている。


 父は、捨てずに持っていた。


 暁人は、それを遺言の横へ置いた。


 帰ってくる人を待つための言葉だった。


 もう、その人は帰ってこない。


 彼は椅子へ座り、両手で顔を覆った。


 家の代表になった日、初めて、一人で泣いた。


     


 涙が収まると、暁人は銀行からの書類を開いた。


 事故で下がった事業の価値。


 返済の期限。


 ヴァルデック商会から届いた、新たな出資条件。


 父の死を知ったあとに作られた書類だった。


 以前より、商会へ渡す権限が増えている。


 担当者は、現状を考えれば必要な条件だと説明していた。


 暁人は数字を読んだ。


 受け入れれば、当面の支払いはできる。


 その代わり、父と祖父が作ったものの一部を、相手の判断へ渡すことになる。


 彼は、父の遺言へ眼を向けた。


 家の名より先に、失われた人の名を確かめること。


 その言葉の重さは、分かっていた。


 それでも、今夜は、別の問いが離れなかった。


 誰が、父の最後の時間を、この調査へ変えたのか。


     


 暁人は、新しい帳簿を開いた。


 橋の部材。


 輸送会社。


 倉庫の火災。


 消えた責任者。


 資金の動き。


 確かめる順番を書いた。


 最後に、焼け残った頁を見つめて言った。


「父さんは、記録を残せと言った」


 返事はなかった。


「なら、誰が消したのかも、残してやる」


 彼は筆を取り、最初の取引先の名を書いた。


 父の時代を記した帳簿は、横に閉じられていた。


 新しい帳簿の最初の頁には、まだ利益の数字がなかった。


 あったのは、支払うべき金額と、確かめるべき名前だけだった。


                空一郎の帝国 (了)

空一郎がこの世界に遺したものは、未来の道具や知識だけではありませんでした。帰れぬ土地で愛する人に出会い、家族をつくり、仲間と失敗を重ねた日々。その歩みを受け継いだ黎明が、やがて次の世代へ遺言を託すところで、この物語は一つの区切りを迎えます。


 遠くへ帰りたいと願った空一郎は、いつしか、子供たちが帰ってこられる家を築いていました。


 けれど、家も、富も、理想も、遺した者の願いどおりに受け継がれるとは限りません。大切なものを守ろうとする心が、人を遠ざけることもあります。正しいと信じて踏み出した一歩が、戻れない道につながることもあります。


 ここまで、空一郎と黎明の歩みにお付き合いくださり、ありがとうございました。


 次にこの家を背負うのは、暁人、星司、灯花です。


 父の遺言を胸に、同じ食卓から歩き出す三人。その行く先を、引き続き見届けていただければ幸いです。                                

                                     しゅんたろう

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