第四十八章 パンドラの箱 橋が落ちた日
空一郎が亡くなってから、十八年が過ぎた。
黎明は六十八歳になっていた。
宰相の職は、すでに後任へ譲っている。
それでも、柊家の事業をまとめる初代当主として、書斎へ届く報告は多かった。
炭鉱、製鉄所、鉄道、造船。
それぞれに管理者を置き、大学と医療院への資金は、家業の支出から分けていた。
父の名を掲げた奨学金で学んだ者が、今は工場や学校を率いている。
昔、黎明が自分で説明しに行った仕事の多くは、彼がいなくても進むようになっていた。
そのことが嬉しく、少し寂しかった。
「今日は、書類を三つまでにしてください」
ミーナが朝食の席で言った。
黎明は、卓上の紙を見た。
「数えたの?」
「あなたが読んでいる間に、料理が冷めましたから」
向かいに座る暁人が、書類を引き寄せた。
「残りは、僕が見ます」
三十七歳になった長男は、家業の財務と契約をまとめていた。
星司は三十五歳。
技術部門と大学を行き来し、設備と橋梁の検査にも関わっている。
灯花は三十一歳になり、医療院と地方の慈善医院をつなぐ仕事を担っていた。
家族が同じ食卓へ揃う日は、以前より少ない。
今日は、母の呼びかけで集まった。
「全部、暁人へ渡していい?」
黎明が言うと、長男は頷いた。
「その代わり、読み終わる前に、別の担当者へ同じ質問をしないでください。父さんから聞かれると、皆、そちらを先にします」
黎明は苦笑した。
「分かった」
星司が匙を置いた。
「僕のところにも、昨日、同じ質問が来ました」
「分かったと言ったところだよ」
灯花が笑った。
「父さんも、まだ練習中なんですね」
食事のあと、星司は橋の点検予定を説明した。
南部の路線に架けた鉄道橋だった。
若いころ、祖父と木の模型を押した橋。
それから長く使われ、何度か補修と補強を受けていた。
列車は大きくなり、貨物も増えた。
線路が同じでも、橋へかかる力は昔と同じではない。
「オスカーさんと、来週、見ます」
「まだ、現場へ?」
黎明が尋ねた。
「本人は、若い技師へ任せていると言います。でも、橋へ着くと、先に歩いていきます」
星司は笑った。
「誰かに、似ている」
「僕のこと?」
「祖父さんにも、父さんにも」
黎明は頷き、予定表を息子へ返した。
「僕を待たず、必要な点検を進めてほしい」
「そのつもりです」
午後、黎明は父の研究室へ入った。
アリステリアが生前、何度も掃除をしていた部屋だった。
母を見送ったあとも、机と椅子の位置は変えていない。
CHUYUは、外の計算設備から応答した。
義体は保存と整備のため、隣室で休んでいる。
黎明は《Bible》を開いた。
父の家族へ送った記録を読むつもりだった。
しかし、検索欄へ入力したのは、別の言葉だった。
――日本。
父から教わった日本語は、今も読めた。
英語も、時間はかかるが、辞書を使えば追えた。
仕事のために、技術資料を読むことはあった。
故郷の町や、家族の記録も見てきた。
だが、地球の歴史を最初から辿ることは、長く後回しにしていた。
その日は、鉄道と産業の発展を調べた。
鉱山。
製鉄。
工場。
都市へ集まる人々。
自分たちが経験したことと、似た問題が並んでいる。
その先に、戦争の項目があった。
黎明は開いた。
画面に、広島という地名が現れた。
次に、長崎。
日本語の説明には、原子爆弾と書かれていた。
聞いたことのない単語ではなかった。
父から、物質の中に大きなエネルギーがあると教わったことがある。
ただ、その力が町へ落とされたことを、彼は初めて具体的に読んだ。
街路があった場所。
学校があった場所。
病院があった場所。
写真の中では、それらを区別できなかった。
黎明は、手を止めた。
「ちゅゆ」
《ここにいる》
「これは、父さんが生まれた国?」
《そう。空兄が生まれるより、ずっと前の出来事》
「一つの爆弾で、こうなった?」
《核反応による大きなエネルギーが、爆発として使われた》
彼は写真へ顔を向けたまま、長く黙っていた。
読み進めると、亡くなった人々と、生き残った人々の記録があった。
その日を越えても、被害が終わらなかったことが書かれていた。
黎明は、医療の項目を開いた。
助ける側の医師や看護者も、被害を受けていた。
病院そのものが、働けなくなっていた。
彼は、ミーナの医療院を思い浮かべた。
清潔な布を揃えること。
湯を沸かすこと。
患者が戻って来られる場所を作ること。
それを、街ごと失わせる力があった。
「父さんは、知っていた」
《知っていた》
「だから、機械が進んでも、人が賢くなったわけではないと言ったのか」
《その言葉には、ほかの出来事も含まれていたと思う》
黎明は、もう一度、写真を見た。
父が説明しなかったことと、自分が尋ねなかったことが、今になって重くなった。
英語の歴史資料を辿ると、空を飛ぶ大きな旅客機が現れた。
父の世界では、人を遠くへ運ぶために使われていた。
その機体が、建物へ向かっていた。
映像を止めた。
日付を読む。
二〇〇一年、九月十一日。
黎明は、説明を一文ずつ追った。
乗っていた人々。
建物で働いていた人々。
救助へ向かった人々。
旅のための機械が、人を殺すために奪われた。
「爆弾でなくても、できるのか」
彼は言った。
《人を運ぶ仕組みが、攻撃に使われた》
黎明は映像を閉じた。
自分たちの港と、列車と、橋を思った。
技術の使い道は、作った者の願いだけでは決まらない。
そのことを、知っているつもりだった。
つもりだったことが、恐ろしかった。
「この中には、作り方もある?」
黎明が尋ねた。
《基礎的な原理、歴史、関連する技術資料はある。ただし、資料だけで、ここに同じ装置が作れるわけではない》
「今は、そうでも」
彼は答えた。
「僕の孫、その子が読むころには、作れるものが増えているかもしれない」
画面には、医学と交通、通信、武器の項目が同じように並んでいた。
幸福に役立つものと、人を傷つけるものが、別々の箱へ収まっているわけではない。
同じ知識が、両方につながっていた。
「父さんは、これを僕へ残した」
《家族が、何を学び、どう使うかを考えられるようにした》
黎明は、額へ手を置いた。
「パンドラの箱だ」
昔、父が教えてくれた物語の名だった。
「開けた者が、欲しかったものだけを取り出せるとは限らない」
「柊の末裔だからという理由で、簡単に読めるようにはしないでほしい」
黎明は言った。
《どの資料を、制限する?》
「人を大量に傷つける技術。危険な装置を動かす情報。それから、目的を確かめずに研究を進められるもの」
《歴史の記録も、閉じる?》
彼は返事をしかけて、止まった。
広島の写真。
旅客機の映像。
それらを知らないまま、機械の作り方だけを継がせたら、どうなる。
「歴史は、残す」
黎明は言い直した。
「被害を受けた人の言葉も。僕が怖くなったからといって、なかったことにはしたくない」
《危険な技術の利用権限と、歴史を学ぶ権限を、分ける》
「うん」
《当主一人で、すべてを解除できる仕組みにはしない。それでよい?》
黎明は頷いた。
「僕自身も含めて」
CHUYUは、案を表示した。
研究の目的を示す。
必要な知識と設備を確かめる。
家族以外の専門家も加えて判断する。
許可した範囲と理由を残す。
家の名だけでは、権限を増やさない。
黎明は読んだ。
「こんなことを頼むと、子どもたちには、信じていないと思われるかな」
《説明がなければ、そう受け取るかもしれない》
「説明する」
彼は答えた。
「子どもたちに任せた仕事を取り戻したいのではない。僕が持っていた権限を、そのまま相続させたくないんだ」
《その言葉も、残しておこう》
夕方、ミーナが研究室へ来た。
夫の顔を見て、戸口で足を止めた。
「何を読んだのですか」
黎明は、隣の椅子を引いた。
日本の戦争。
原子爆弾。
旅客機が奪われた事件。
短く説明すると、妻は画面へ眼を向けた。
医療の記録を、静かに読んだ。
「父さんの世界は、僕たちより進んでいた」
黎明が言った。
「でも、こんなことも起きた」
ミーナは頷いた。
「進んだ世界だから、苦しむ人がいなかったわけではないのですね」
「僕は、どこかで、そう思っていたのかもしれない」
彼女は夫の手へ触れた。
励ます言葉は言わなかった。
二人は、しばらく同じ写真を見ていた。
部屋を出る前に、黎明は家族の休日の映像を開いた。
若い父が、孫たちへ日本語を教えている。
暁人と星司が笑い、灯花が叔母の腕へ手を伸ばす。
父の世界が残したものは、恐ろしい記録ばかりではなかった。
この言葉も、測り方も、薬も、家族の姿を残す装置も、同じ世界から来た。
黎明は、映像を最後まで見た。
「全部を閉じたいわけじゃない」
彼は言った。
ミーナが頷いた。
「そのことも、お子さんたちへ話してください」
崩落の知らせは、翌朝、電信で届いた。
南部鉄道橋。
上り旅客列車。
橋桁の一部、河中へ落下。
死傷者多数。
人数、確認中。
黎明は伝文を二度読んだ。
星司が点検へ向かう予定だった橋だった。
長く使われ、最近も補強を受けていた。
「前後の区間を止める。別の列車を入れないよう、確認して」
暁人が、通信係へ指示を出した。
星司は、外套を取った。
「僕は、現場へ行く」
黎明は立ち上がった。
「オスカーは?」
「別の工事場です。連絡します」
息子の返事を聞きながら、父は机へ手を置いた。
足に、すぐには力が入らなかった。
医療院では、ミーナと灯花が救護の手配を始めた。
医師。
看護と搬送を担う者。
清潔な布と器具。
受け入れられる病床。
現場までの線路が使えないため、途中から馬車へ積み替える。
昨日まで、旅を便利にしていた仕組みが、今日は途中で切れている。
「父さんは、こちらで連絡をまとめて」
灯花が言った。
「現場へ行く人が増えすぎても、道が混みます」
黎明は娘を見た。
昔、妹の救護袋を持って国境へ出したことを思い出した。
今は、娘が同じ仕事をしている。
「分かった。必要なものを、知らせてほしい」
午後、最初の詳しい報告が来た。
列車の前方は、橋を渡りきっていた。
後ろの客車が傾き、続く車両が川へ落ちた。
岸へ近い車両には、まだ人が取り残されている。
星司は、救助の妨げにならない場所から、残った構造を確かめた。
壊れた橋へ、すぐ登ることはできない。
橋桁も、部材も、助けを待つ人の下にある。
彼は、調査より先に、救助のための図面を広げた。
暁人は現場からの要求を受け、船と資材を手配した。
その間にも、会社へ別の電信が届いた。
橋を通る貨物の行き先。
納期。
保険。
損害の負担。
暁人は、机を二つに分けさせた。
「救助の連絡を、契約の話で遅らせないでください」
声は落ち着いていた。
握った筆の軸が、指へ食い込んでいた。
夕刻、新聞の速報が配られた。
柊製鉄所の部材を使用した橋が崩落。
補強工事後の事故。
原因に疑念。
断定はしていない。
それでも、柊の字は大きかった。
黎明は紙を読んだ。
父の印。
自分が継いだ印。
死者を出した橋に、その印がある。
「まず、亡くなった人と、行方の分からない人を確かめよう」
彼は言った。
「工場と輸送会社へ、記録を残すよう知らせてほしい。原本を、捨てたり書き直したりしないように」
担当者が出ていくと、部屋は静かになった。
夜遅く、星司から短い伝文が届いた。
救助継続中。
構造の調査は、まだ一部のみ。
回収された部材に、製造記録との照合を要するものあり。
結論は出せない。
黎明は、その最後の一行へ指を置いた。
結論は出せない。
父が、何度も口にした言葉だった。
今夜は、何も分からないまま待つことが、耐えがたかった。
それでも、原因を誰かの名へ急いで結びつけるわけにはいかなかった。
研究室の端末から、CHUYUが呼びかけた。
《保存されている製造記録を、照合できるようにしている》
「頼む」
《黎明。昨日の閲覧権限の案は、まだ確定していない》
彼は眼を閉じた。
遠い世界の惨事を読んだ翌日に、自分たちの橋が落ちた。
科学を恐れたから、事故を防げるわけではない。
過去を知ったから、目の前の人を必ず救えるわけでもない。
「その仕事も、止めないで」
黎明は答えた。
「橋の記録も、僕が読んだ歴史も、残してほしい」
窓の外で、救護班を乗せた馬車が走っていった。
机には、死者の数がまだ空欄の報告書があった。
黎明は新しい紙を取り、行方の分からない人々の名前を書き始めた。




