↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/126

第四十七章 父の席 帰る場所と、残る家族


 空一郎が食卓へ来る時間は、少しずつ遅くなった。


 以前は、研究に夢中になっていたからだった。


 今は、着替え、階段を降り、椅子へ座るまでに時間がかかった。


 アリステリアは、食事を急がせなかった。


 温かい皿を最後に運び、夫が座ると、いつものように尋ねた。


「今日は、何を考えていたのですか」


「星司の図面を見ていた」


「また、直すところが多かった?」


「いや。僕が見落としたところを、あの子が見つけた」


 空一郎は嬉しそうに言った。


 妻は、その顔を見て微笑んだ。


     


 弱い受信波形を、故郷からの返事ではないと確かめた夜から、二年が過ぎていた。


 暁人は十九歳。


 星司は十七歳。


 灯花は十三歳になっていた。


 星司は、大学の工学の課程と工房での実習を続けていた。


 暁人は銀行と運航会社で、契約と帳簿を学んでいる。


 灯花は母の医療院へ通い、患者の話を記録する手伝いを始めた。


 三人とも、祖父の研究室へ来る。


 ただ、その部屋で何を見るかは、次第に違ってきていた。


     


 星司の図面は、鉱山の排水ポンプを整備しやすくする案だった。


 弁を調べるために、大きな管を外さなくてよいよう、点検口の位置を変える。


 交換する部品には、工具を掛けられる余地を残す。


 空一郎は、紙へ細い線を加えた。


「ここは、手が入る?」


「入ります。模型で試しました」


「手袋をしていても?」


 星司は黙った。


 祖父は笑った。


「冬の坑道では、素手で触りたくない場所がある」


「そこまでは、試していません」


「では、次に確かめよう」


 星司は、その言葉を図面へ書いた。


 空一郎は、孫の筆が止まるのを待ってから言った。


「前より、説明が分かりやすくなった」


「祖父さんが、図面だけでは分からないと言うので」


「図面が悪いとは限らない。僕の眼も、前ほどよくない」


 星司は顔を上げた。


 祖父は、それをごまかさずに言った。


     


 その春、黎明は宰相の仕事を一部、ほかの閣僚へ渡した。


 帝国の制度が育ち、自分が毎回決めなくても進む仕事が増えていた。


 それは喜ばしいことだった。


 しかし、父の近くへ戻るために仕事を減らしたと思われることへ、ためらいもあった。


 ミーナは、その話を聞いて言った。


「お父さまのためでも、よいではありませんか」


「帝国の仕事を、家の事情で変える」


「仕事を放り出すなら、困ります。でも、任せられる人へ渡して、あなたが必要なときに戻れるようにするのでしょう」


 彼女は、夫の予定表を見た。


「誰かが家族のところへ帰るたびに、役所が止まるなら、その仕組みも直す必要があります」


 黎明は頷いた。


 自分が作ってきた制度に、自分も助けられることになった。


     


 初夏、空一郎は庭で過ごす時間が増えた。


 研究室まで歩ける日には行く。


 難しい日には、端末を部屋へ運んでもらう。


 CHUYUの義体も、長く歩かなくなっていた。


 祖父と叔母が並んで座ると、灯花は二人へ同じ毛布を持ってきた。


《私は、寒さを感じているわけではない》


 CHUYUが言った。


「分かってる。でも、二人とも掛けている方が、落ち着く」


 灯花は答えた。


 空一郎が笑った。


「今日は、灯花のために掛けよう」


 義体は毛布を膝へ載せた。


 娘は満足して、二人の間へ椅子を置いた。


     


 ロットたちが来た日、庭へ小さな卓が出された。


 エミルは、パンを薄く切って持ってきた。


「食べやすい方がいいと思ってな」


 空一郎は、一切れを取った。


「最初の船で焼いたパンを、覚えている」


「あれは、焦げてた」


 フランが言った。


「お前まで、そう言うか」


 エミルは苦笑した。


 ロットが横から答えた。


「うまかったぞ」


「お前は、いつもそうだ」


 昔と同じやり取りだった。


 空一郎は笑い、少し休んでから、パンを口へ運んだ。


     


 その日、エミルは工場の人員表も持ってきていた。


 大学を出た若い者が、機関の試験と整備を受け持つようになっている。


 ロットが毎回立ち会わなくても、出荷できる機関が増えた。


「俺がいない日に、試験が終わってた」


 ロットは言った。


「寂しかった?」


 黎明が尋ねた。


「少しな。でも、全部失敗して待っていられるより、ずっといい」


 空一郎は頷いた。


「僕も、そう思う」


 彼は、人員表に並ぶ知らない名前を見た。


 自分が会ったことのない者が、機械を直す。


 自分が教えた者から学び、さらに次の者へ教える。


 そこまで続いていた。


     


 帰り際、ロットは庭の椅子へ近づいた。


「今度、鉱山へ新しいポンプを入れる。星司の案も使う」


「聞いた」


 空一郎が答えた。


「写真を撮ってくる」


「うん」


「できれば、また見に来てくれ」


 言ってから、ロットは口を閉じた。


 空一郎は、少し笑った。


「行けたら、行きたい。行けなければ、ここで説明してほしい」


 ロットは頷いた。


 大きな手で、椅子の背へ一度触れてから去った。


     


 夏の終わり、空一郎は研究室へ家族を呼んだ。


 寝台から長く離れるのが難しくなり、研究室の隣に休める部屋を設けていた。


 黎明とエレオノーラ。


 アリステリアとミーナ。


 暁人、星司、灯花。


 CHUYUは卓上の端末から話し、義体は壁際の椅子へ座っていた。


 空一郎は、保存項目を一つずつ開いた。


「これは、装置の管理者へ渡す。君たちが身体の接続部分を触る必要はない」


 次に、研究の記録。


「成功した試験だけでは、次の人が同じ失敗をする。動かなかった理由が分からないものも、残してある」


 それから、家族の記録。


 画面に、幼い黎明が現れた。


     


 暁人が、思わず笑った。


「父さん、こんなに小さかったんだ」


「君より、小さい時期もあったよ」


 黎明が答えた。


 映像の中で、幼い彼は紙へ何かを書いていた。


 空一郎の声が聞こえる。


『ここは、反対だね』


『でも、読める?』


『僕には読める。でも、知らない人にも読めるようにしたい』


 星司が父を見た。


「今、僕たちに言っていることと同じだ」


 黎明は苦笑した。


「教わったことを、使っているんだろうね」


 アリステリアは、映像の息子と、隣に座る息子を見比べた。


 その手が、静かに夫の腕へ触れた。


     


 画面が変わる。


 アリステリアとの婚礼。


 エレオノーラの誕生。


 最初の工房。


 鉱山で働く人々。


 無人機が撮った、まだ線路のない土地。


 そして、女神の鉄槌の記録。


 暁人の顔が引き締まった。


 空一郎は、その項目を閉じなかった。


「これも、残す」


 彼は言った。


「僕が使った力と、そのあとに起きたことだ。家の祝いの記録だけでは、僕が何をした人間だったか分からなくなる」


 灯花は、母の手を握った。


 ミーナが握り返した。


     


「祖父さんを、悪く言う人が、これを使うかもしれない」


 暁人が言った。


 空一郎は頷いた。


「そうかもしれない」


「それでも?」


「事実と違うことを言われたら、確かめて、訂正してほしい。でも、本当に起きたことを隠して、僕を良い人にする必要はない」


 長男は、画面を見た。


 星司は祖父へ尋ねた。


「記録が壊れたら?」


「紙にできるものは、大学にも置く。映像や、この装置でしか読めないものは、保存方法を調べ続ける」


 空一郎は、二人の孫を見た。


「残す仕事には、読む人と、直す人の両方が要る」


     


 家族が部屋を出たあと、黎明だけが残った。


 父の寝台の脇へ椅子を置く。


 空一郎は、窓の向こうを見ていた。


「故郷のことを、もっと聞けばよかった」


 黎明が言った。


「まだ、聞ける」


「日本の町。父さんの家。学校。どんなところを歩いたか」


 空一郎は、少し考えた。


「雨の日に、兄たちと祖父の家へ行ったことがある」


 大きな出来事ではなかった。


 傘を忘れた。


 海一郎が、鞄を濡らさないよう上着で包んだ。


 陸一郎は、空一郎が水たまりへ入るたび叱った。


 宙結は、濡れた靴下を嫌がって途中から抱かれた。


 着くと、善一が玄関へ古い布を持ってきた。


 黎明は聞いた。


 会ったことのない家族が、少しずつ人の姿になった。


     


「祖父は、アヤに会いたかった」


 空一郎は言った。


「僕たちは、その願いを聞いて育った。僕も、何とかしたかった」


「だから、過去へ行こうとした」


「うん」


 父は息を整えた。


「ここへ来たあと、何度も考えた。あのとき別の判断をしていたら、どうなっただろうと」


 黎明は、父の手を見た。


「後悔してる?」


 空一郎は息子へ顔を向けた。


「故郷へ帰れなかったことは、悲しい。家族を心配させたことも、今も気になる」


 そこで、手を伸ばした。


 黎明が、その手を取った。


「でも、君が生まれたことを、間違いだと思ったことはない」


 息子は俯いた。


 父の手を、少し強く握った。


     


 空一郎は、しばらく休んでから続けた。


「僕を帰すために、君たちの人生を使い切らないでほしい」


 黎明は、父の顔を見た。


「研究を、やめてほしい?」


「違う。続けたい人がいれば、続けてよい。君にも、君の子にも、必ず完成させろとは言いたくない」


「途中で止まるかもしれない」


「止まることもある。あとから、別の人が読み直すかもしれない」


 空一郎は、保存された記録へ眼を向けた。


「僕が、ここで家族を作ったことを残してほしい。いつか届く方法が見つかったら、向こうへ伝えてほしい」


 黎明は頷いた。


「それは、約束する」


     


 秋になり、空一郎は寝台で過ごす日が多くなった。


 研究の話をする日もあれば、庭の話だけで終わる日もあった。


 アリステリアは、窓のそばに鉢を置いた。


 灯花が選んだ小さな花だった。


 暁人は、銀行で読んだ書類の中から、祖父へ聞きたい箇所を持ってきた。


 星司は、完成したポンプの図を見せた。


 エレオノーラは、無理のない小さな術で、寝台の上へ紙を浮かせた。


「昔は、僕にも使えたらと思った」


 空一郎が言うと、娘は笑った。


「今なら、練習してみますか」


「今日は、見ていたい」


 紙は、窓から入る光の中でゆっくり動いた。


     


 ある夕方、空一郎はアリステリアと二人になった。


 妻は、夫の手を拭いていた。


「最初に会ったとき、僕の服の留め具を探した?」


 彼が尋ねると、彼女は顔を上げた。


「覚えているのですか」


「映像で見た」


「見慣れないものばかりでした。息をしているかも、分かりにくくて」


「助けてくれて、ありがとう」


 アリステリアは、布を置いた。


「今ごろ?」


 少し笑ったあと、その顔が崩れた。


 空一郎は、握る力の弱くなった指を動かした。


 妻が手を重ねた。


「私も、あなたが来てくれてよかった」


 彼女は言った。


「帰る道を、見つけてあげられませんでしたけれど」


「君が、見つけなければならない道ではなかった」


 空一郎は答えた。


 アリステリアは俯き、夫の手へ額を寄せた。


     


 亡くなったのは、それから数日後の明け方だった。


 前の晩には、短い言葉を交わしていた。


 朝になれば、もう一度話せると、黎明は思っていた。


 部屋へ入ると、母が寝台の脇に座っていた。


 空一郎の手を握ったままだった。


 黎明は近づいた。


「母さん」


 アリステリアは顔を上げた。


 返事をしようとして、できなかった。


 息子は、その肩へ手を置いた。


 もう片方の手で、父の手へ触れた。


     


 葬儀には、家族だけでなく、工房と鉱山、大学、医療院から人が来た。


 教団は、空一郎を天へ帰った者として称えたいと言った。


 黎明は、弔辞の案を読み直した。


 この世界へ来た経緯には、家族しか知らない部分がある。


 だからといって、本人が話していないことを、死後に神の物語へ変えたくなかった。


「ここで暮らし、ここで亡くなった人として、弔ってください」


 彼は伝えた。


 祈りは捧げられた。


 同時に、空一郎を知る者たちが、自分の言葉で話した。


 ロットは、最初に見せてもらった熱の図を持ってきた。


 エミルは、燃料の量を測った古い帳簿を持ってきた。


 フランは、木の歯車を一つ、棺のそばへ置いた。


     


 黎明の弔辞は、長くなかった。


「父は、知らないことがあると言う人でした」


 彼は、集まった人々を見た。


「初めは、その返事を心細く思いました。でも、知らないことを隠さず、一緒に考えてくれたことが、私たちの仕事を続ける力になりました」


 そこで、少し声が詰まった。


「父から受け取ったものを、今すぐ全部使いこなせるとは思っていません。分からないままの記録も残っています。それを、次に読む人へ渡していきます」


 暁人は父を見ていた。


 星司は、俯いていた。


 灯花は、母の袖を握っていた。


     


 葬儀のあと、黎明は父の研究室へ入った。


 椅子は、いつもの位置にあった。


 机には、途中まで読んだ資料が置かれている。


 端末へ触れると、CHUYUの声がした。


《黎明》


「うん」


《今日は、整理を始めなくてもいい》


 彼は椅子へ座った。


 何を見ればよいか、分からなかった。


 しばらくして、家族の記録を開いた。


 庭の休日。


 幼い暁人と星司。


 赤ん坊の灯花。


 そして、若い父の声。


『元気でいる。こちらで、家族が増えた』


 黎明は、その声をもう一度聞いた。


     


「今日のことも、残して」


 彼は言った。


《どのように》


「父さんが亡くなった日。来てくれた人。皆が話したこと」


《残す》


 黎明は、父の名前を画面へ入力した。


 日本語の文字を、間違えずに打てた。


 子どものころ、何度も書き直した名前だった。


 その下に、短い文を加えた。


 ――家族に囲まれ、この世界で生涯を終えた。


 故郷へ送る記録の一覧に、新しい項目が並んだ。


 まだ、返事はなかった。


     


 夜、食卓には、父の椅子が残っていた。


 誰も、すぐに片づけようとは言わなかった。


 ミーナが料理を運ぶ。


 灯花が、祖母の前へ皿を寄せる。


 星司は、食べ始めるまで匙を持たなかった。


 暁人は、父の方を見ていた。


 黎明が、いつもの言葉を言った。


「いただきます」


 皆が、小さな声で続けた。


 アリステリアも、その言葉を口にした。


 空一郎が持ってきた言葉だった。


 その人がいなくなった食卓で、家族は、同じ言葉を使って食事を始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。