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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第四十六章 届かなかった声 父が残すもの


 星司が初めて自分の道具箱を持った日、暁人は契約書を一枚読まされた。


「どうして、僕は紙なの」


 長男が言うと、空一郎は眼鏡を外した。


「二人とも、好きなものを選んだと思っていたけれど」


「道具箱も、少し欲しかった」


「それなら、そう言っていい」


 祖父は棚から小さな木箱を出した。


 中には、定規と、先の丸い小さな工具が入っている。


 暁人は蓋を開け、すぐに閉じた。


「星司のより、少ない」


「星司は、今使う道具を自分で選んだ。君も、何を作りたいか決めたら、必要なものを増やそう」


「何でも、同じにはしないんだ」


「同じものが、二人に必要とは限らないからね」


 長男は考え、箱を膝へ置いた。


 星司が横から覗いた。


「定規は、僕のより長い」


 暁人は、ようやく少し笑った。


     


 駅の時計を揃え始めた年から、五年が過ぎていた。


 暁人は十七歳。


 星司は十五歳。


 灯花は十一歳になっていた。


 暁人は大学の法と商業の課程へ進み、星司は工房へ通いながら機関と測量を学んでいた。


 灯花は、まだ将来の仕事を決めていない。


 母と医療院へ行くことも、叔母エレオノーラの講習で術を試すことも好きだった。


 家の中から幼い子どもの声が減り、その代わり、食卓で交わす話が長くなった。


 空一郎は、その話を聞くのを楽しみにしていた。


 長く歩くことは難しくなっていたが、庭へ出る日もあった。


 研究室で働く時間は、午前と夕方の短い時間に区切られていた。


     


 暁人が読む契約書は、北の炭鉱と運送会社とのものだった。


 空一郎は、金額ではなく、最後の頁を指した。


「ここは、何の約束?」


「荷が遅れた場合の損害を、運送会社が払う」


「なぜ遅れたかは?」


 暁人は読み直した。


 洪水。


 港の閉鎖。


 橋の修理。


 それぞれの場合について、別の条項があった。


「運送会社に責任がない場合は、払わない」


「そう。何が起きても相手へ払わせる約束では、続けられない」


 暁人は頷いた。


 そのあと、別の箇所へ指を置いた。


「でも、遅れた理由を、相手が嘘で報告したら?」


「記録と、別の証言を確かめる」


「それでも、分からなかったら?」


 空一郎は、少し考えた。


「分からないまま残ることもある」


「それでは、騙した人が得をする」


「そういう場合もある。だから、確かめる仕組みをよくしたい」


 長男は納得しきれない顔だった。


 空一郎は、それを急いで直そうとはしなかった。


     


 隣の机で、星司は古い弁を分解していた。


 祖父の研究装置から外したものではない。


 現地の工房で作り、給水設備に使っていた部品だった。


 擦り減った面を見て、星司は細い線を描いた。


「ここから、水が漏れたんだね」


「その可能性が高い」


 空一郎が答えた。


「新しい部品へ替えるだけでは、また同じ場所が減るかもしれない。動き方も見たい」


 星司は、弁を手で動かした。


 途中で、少し引っかかる。


「真っすぐ動いてない」


「そこを、どう確かめる?」


 孫は道具箱を開いた。


 暁人は、その様子を見て言った。


「物は、調べれば理由が分かるから、いいな」


 星司が顔を上げた。


「分からないこともあるよ」


「人よりは、分かるだろ」


「人が作ったものだから、作った人にも聞かないと」


 空一郎は、二人の間で笑った。


「今日は、どちらも良いことを言った」


     


 その午後、黎明が屋敷へ来た。


 議会の会期が終わり、数日だけナグナリエへ戻れたのだった。


 父の部屋へ入ると、机に二つの箱が置いてある。


 工具の箱と、書類の箱。


「子どもたちへ?」


「少しずつ、渡している」


 空一郎が答えた。


「何でも、僕の机に集めておくと、僕が休んだだけで仕事が止まる」


 黎明は、自分の書斎を思い出した。


 同じ理由で、担当者へ渡したものがあった。


 それでも、最後に自分が読む書類は減っていない。


「父さんの方が、上手く任せている」


「僕は、身体から止められた」


 父は少し笑った。


「君は、止められる前に覚えた方がいい」


     


 研究室では、CHUYUが帰還研究の表示を開いた。


 最近の試験では、送り出す信号の乱れが減った。


 現地で作った電源設備が安定し、測定のやり方も改良できたからだった。


 しかし、それは行き先を見つけたという意味ではなかった。


 空一郎が故郷へ送ろうとした記録は、今も受け取られたかどうか分からない。


「送れているのかも、分からない?」


 黎明が尋ねた。


《装置から信号が出たことは確認できる。相手の世界へ届いたかは、確認できていない》


「返事がないから」


《返事がないことだけで、届いていないとも決められない。受信する装置がない場合や、時間の対応が違う場合も考えられる》


 空一郎は、古い座標の表を見た。


「試せることは、まだある」


 黎明は父の声を聞いた。


 希望を失ってはいない。


 ただ、以前のように、すぐ試そうと立ち上がることはなくなっていた。


     


「研究の担当者を、増やそうか」


 黎明が言った。


「大学で、数学と術の両方を学んでいる者がいる」


「話は聞いてみたい」


 父は答えた。


「でも、君が帰還研究を急がせる必要はない」


「父さんに、会ってほしい人たちがいる」


「僕も、会いたい」


 空一郎は息子へ顔を向けた。


「だからこそ、返事が欲しいという願いと、実験で分かったことを、混ぜないようにしたい」


 黎明は頷いた。


 その言葉を、父から何度も聞いてきた。


 今は、父の時間が減るほど、それを守ることが難しくなる気がした。


     


 夕食には、家族が集まった。


 エレオノーラが来ると、灯花はすぐに椅子を寄せた。


「叔母さん。今日は、紙を浮かせられた」


「どれくらい?」


「机から、指二本くらい」


「何回?」


「最初の一回だけ」


 灯花は、正直に答えた。


 叔母は頷いた。


「では、一回できたことを残そう。次もできるかは、また確かめる」


 暁人が言った。


「この家では、何でも記録になるな」


 ミーナは息子の皿へ料理をよそった。


「あなたが、小さいころ、私の薬草を花壇へ植え替えたことも残っています」


「枯れそうだったから」


「乾燥させていたのです」


 星司が吹き出した。


 暁人は弟を見た。


「お前の失敗も、たくさんあるだろう」


「あるよ」


「そこは、素直なんだな」


「隠しても、ロットさんが覚えてる」


 食卓に笑いが広がった。


     


 食事のあと、灯花が祖父へ紙を渡した。


 日本語で、家族の名前を書いてある。


 空一郎。


 アリステリア。


 黎明。


 ミーナ。


 暁人。


 星司。


 灯花。


 最後に、少し小さな字で「ちゅゆ」とあった。


「漢字が分からなかった」


 娘が言うと、CHUYUは紙を覗いた。


《読める。ありがとう》


 空一郎は、孫の字を指で追った。


「向こうの家族の名前も、書いておこうか」


 灯花は頷いた。


 葛城善一。


 アヤ。


 陸一郎。


 海一郎。


 宙結。


 紙の上へ、会ったことのない人たちが加わった。


     


「宙結は、叔母さんと同じ人?」


 灯花が尋ねた。


 CHUYUは、少し間を置いた。


《同じとは言い切れない。私は、宙結の記録をもとに作られ、そのあと、ここで経験を重ねてきた》


「会ったら、似てる?」


《似ているところは、あると思う》


「二人とも、私を知ってる?」


《私は知っている。向こうの宙結が、あなたのことを知っているかは、分からない》


 灯花は、紙を見た。


「じゃあ、写真を送る」


 空一郎は頷いた。


「送ろう」


 娘は、祖父の隣へ座った。


 CHUYUが記録を始めると、灯花は背筋を伸ばした。


「私は、灯花です。紙を浮かせる練習をしています」


 そこで、兄たちを見た。


「お兄ちゃんも、話して」


 暁人は困った顔をしたが、逃げなかった。


     


 家族が眠ったあと、空一郎は研究室へ戻った。


 その夜は、アリステリアも一緒だった。


 夫の隣へ椅子を置き、毛布を膝へ掛ける。


「今日は、長く座らない約束です」


「分かっている」


「その返事は、長く座る日の返事です」


 空一郎は笑った。


「送信したら、終わる」


 画面には、三人の孫の映像が並んだ。


 暁人は学校で学んでいることを話した。


 星司は、修理した弁を見せた。


 灯花は、名前を書いた紙を持った。


 空一郎は、それらへ短い言葉を添えた。


「子どもたちが、大きくなった。黎明は、僕が思っていたよりも、よい父親になった」


「思っていたよりも、ですか」


 アリステリアが尋ねた。


「もっと仕事ばかりするかと、心配していた」


「今も、仕事は多いですよ」


「でも、帰る約束を覚えている」


 妻は頷いた。


 そのことは、彼女も嬉しかった。


     


 送信の途中で、表示が変わった。


 受信系に、弱い変化が記録されている。


 空一郎は身体を起こした。


「ちゅゆ」


《確認している》


 冷却装置の音が、部屋へ響いた。


 短い波形が、画面に現れた。


 形が、いつもの雑音とは少し違う。


 空一郎は、息を止めた。


 アリステリアの手が、夫の腕へ触れた。


「返事ですか」


「まだ、分からない」


 彼は答えた。


 声が、少し速くなっていた。


     


 CHUYUは、送信と受信の記録を重ねた。


 電源の変化。


 装置の切り替え。


 その時刻に、研究室で動いていた機器。


 空一郎は、表示を見つめた。


 やがて、CHUYUが言った。


《今回の波形は、電源の切り替えと一致している。受信した信号ではなく、設備の内部で生じた変化の可能性が高い》


「もう一度、試せる?」


《同じ条件で、繰り返す》


 二度目にも、同じ波形が出た。


 外からの返事ではなかった。


 空一郎は椅子へ身体を戻した。


 しばらく、何も言わなかった。


     


「期待した?」


 アリステリアが尋ねた。


「うん」


「私もです」


 彼女は夫の手を握った。


「違ったと分かって、悲しいのは、私も同じです」


 空一郎は妻を見た。


「君には、僕が帰りたいと言うたび、嫌な思いをさせたかもしれない」


 アリステリアは首を振った。


「帰る場所が、私の知らないところにもある。それは、初めから分かっていました」


「でも」


「あなたが、ここで暮らしたことまで、少なくなるわけではありません」


 彼女は、画面の孫たちを見た。


「この子たちは、あなたが遠くへ行きたいと思ったから、いなくなるわけではないでしょう」


 空一郎は、ゆっくり頷いた。


 妻の指を、握り返した。


     


 翌朝、黎明が研究室へ来た。


 受信系に変化があったと聞いて、予定より早く来たのだった。


 父は、試験の記録を見せた。


「設備の中で生じたものだった」


「そうか」


 黎明は、隣へ座った。


 慰める言葉を、急いで探さなかった。


 空一郎は、画面を閉じた。


「僕の家族が、何もしていないとは思えないんだ」


「探している?」


「たぶん。陸兄も海兄も、答えが見つからないからといって、すぐやめる人ではない」


 父は少し笑った。


「僕も、人のことは言えない」


 黎明も笑った。


 それから言った。


「向こうの家族に、会ってみたかった」


「うん」


「今も、会いたい」


 空一郎は息子の顔を見た。


 それは、父の願いを聞いてきた子どもの返事ではなかった。


 黎明自身の願いだった。


     


 その日、空一郎は記録を整理した。


 故郷の家族。


 この世界の家族。


 成功した仕事。


 失敗した研究。


 女神の鉄槌の使用記録と、亡くなった者の名簿。


 一覧を見た黎明が尋ねた。


「今、全部を確認しておく?」


「少しずつでいい。でも、僕が説明できるうちに、分からないところを聞いてほしい」


「装置の使い方も?」


「必要な部分は。ただ、これを受け取ったからといって、帰還研究を続ける義務までは負わなくていい」


 黎明は父を見た。


 空一郎は続けた。


「君には、君の家族と仕事がある。僕を帰すために、それを全部、後回しにしないでほしい」


 息子は、すぐには返事をしなかった。


 父が諦めたように聞こえた。


 しかし、机の上には次の試験の案があった。


 父は、研究をやめたわけではない。


 自分の願いを、息子の義務に変えたくなかったのだった。


     


 帰り際、灯花が廊下から顔を出した。


「じいちゃん。昨日の写真、送れた?」


 空一郎は頷いた。


「送る操作はできた。届いたかは、まだ分からない」


「届いたら、私の名前も分かる?」


「そうだね」


 娘は安心したように笑った。


「じゃあ、今度は、花の絵も送る」


 彼は頷いた。


「描けたら、見せて」


 灯花が走っていくと、黎明は父へ言った。


「また、送るものが増えた」


「増えていい」


 空一郎は、廊下の先を見た。


 机には、届いたかどうか分からない記録が積み重なっている。


 それでも、まだ書くことがあった。


 次の声を、残す理由があった。


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