第四十四章 海へ出る船 約束の期限
カンターベルの造船所へ着いたとき、星司は父の手を引いた。
「父さん。車輪がない」
岸に浮かぶ船の側面を、彼は見ていた。
川の蒸気船なら、左右に大きな外輪がある。
目の前の船には、それがなかった。
「後ろにある」
黎明が答えると、星司は船尾へ走りかけた。
父の手が離れないので、途中で止まった。
「見たい」
「まず、造船所の人に、歩いてよい場所を聞こう」
暁人が弟の横へ来た。
「海の下だったら、見えないよ」
「水から出したら見える」
「この船を?」
兄は大きな船体を見上げた。
星司は、当然のように頷いた。
家族で庭へ集まった休日から、四年が過ぎていた。
暁人は十歳、星司は八歳、灯花は四歳になっていた。
黎明が南部の揚水設備と港湾工事を視察することになり、ミーナも港の救護所を訪ねる予定を組んだ。
子どもたちは、学校の休みに合わせて同行した。
船を見たいと言ったのは星司だった。
港の市場へ行きたいと言ったのは灯花だった。
暁人は、何を見るかを決める前に、父へ尋ねた。
「何泊する?」
「三泊の予定」
「帰る日も、決まってる?」
黎明は頷いた。
「変わるときは、先に話す」
長男は、それを確かめてから荷物をまとめた。
ゼペットは、船の横に置いた椅子から立ち上がった。
以前より、立つ動作に時間がかかる。
しかし、船体へ向ける眼は変わらなかった。
「よく来た。孫たちまで連れてきたのか」
「僕の子どもたちです」
黎明が言うと、老人は笑った。
「分かっておる。空一郎の孫たち、という意味だ」
星司が一歩前へ出た。
「後ろの車輪を見せてください」
「車輪ではない。水の中で回る羽根だ」
ゼペットは杖で船尾を示した。
「船を上げていたときの模型なら、ここにある」
作業台には、短い軸へ斜めの羽根を取りつけた模型があった。
星司は顔を近づけた。
「これだけ?」
「小さいから、船の中へ収めやすい。だが、作るのが楽だったわけではない」
フランが模型の軸を回した。
「この向きで回すと、水を後ろへ押す。その反作用で、船が前へ進む」
「反対に回したら?」
「船を後ろへ動かせる。ただし、前へ進んでいた船が、すぐ後ろへ走り出すわけではない」
星司は模型を見た。
「まず、止まる?」
「そう。動いている船には勢いがある」
暁人が尋ねた。
「外輪より、速い?」
フランは少し考えた。
「この船では、まだ比べているところだ。外輪より役に立つ場面はある。でも、羽根の形や回転数が悪ければ、力を無駄にする」
ゼペットが横から言った。
「波で船が傾いても、片側の外輪だけが水から出る心配はなくなった。その代わり、船尾へ穴を開けて軸を通す仕事が増えた」
「穴を開けたら、水が入る」
灯花が言った。
「その通りだ」
老人は、嬉しそうに頷いた。
「だから、その穴をどう塞ぐかで、何か月も揉めた」
機関室へ入るのは、大人だけだった。
子どもたちはゼペットとミーナのところで待った。
黎明が階段を降りると、ロットが軸の周りを指した。
船内へ水が入らないよう、詰め物を収めた部分を締めてある。
「締めすぎると熱を持つ。緩いと、水が増える」
「完全に水を止めるのではないんだね」
「この仕組みでは、わずかな漏れを見ながら使う。冷やす役目もあるからな。入った水は集めて汲み出す」
ロットは、その下にある水受けを示した。
「漏れ方が急に変わったら、軸か詰め物を調べる。海へ出たら、ここを見る仕事を省けない」
黎明は頷いた。
新しい推進装置の話よりも、その周りで誰が働くかの話の方が長かった。
今では、それが実用になる機械の話だと分かっていた。
復水器には、細い管が並んでいた。
エミルが外側を叩いた。
「海水は、こちらへ通す。機関から出た蒸気は別の側で冷やし、水に戻して釜へ返す」
「管が漏れたら、塩が混じる」
黎明が言うと、エミルは頷いた。
「だから、返す水も調べる。漏れた場合に備えて、真水も積む」
「燃料も、水も、予備部品も」
「それから、人と食料」
フランが言った。
「積めば積むほど、荷を売る場所が減る。商人には、そこを何度も説明した」
ロットは階段の上へ声をかけた。
「船へ載せるときは、何でも重さがあるんだ。金になる荷だけ、軽くなるわけじゃねえぞ」
甲板から、笑い声が返った。
この船は、蒸気だけに頼る船ではなかった。
二本の帆柱を残していた。
風がよければ帆を使い、燃料を節約する。
港へ入るときや、風が弱いときには機関を使う。
ノルディエラから来た船員が、帆の綱を確かめていた。
帝国の機関士と、北方の船員。
話す言葉も、身につけた習慣も違う。
出航前の訓練では、互いの指示を取り違えることがあった。
そこで、停船や火災など、急ぐ指示には共通の言葉を決めた。
マリナが作った小さな対訳表が、船内のあちこちへ貼られていた。
黎明はその一枚を読んだ。
船を進めるために、鉄と蒸気だけを揃えればよいわけではなかった。
甲板へ戻ると、灯花がゼペットの椅子に座っていた。
老人は、その横で杖をついている。
「椅子を取ってしまいましたか」
黎明が尋ねると、ゼペットは首を振った。
「譲った。座った目の高さから、何が見えるかを調べてもらっておる」
灯花は、舷側の板を指した。
「海が、見えない」
「子どもには、少し高い」
「上に立ったら、見える」
「立ってはいかん」
ゼペットとミーナの声が揃った。
灯花は椅子へ座り直した。
暁人が笑うと、彼女は兄へ言った。
「お兄ちゃんは、背が高いから、いいの」
ゼペットは船の側面を見た。
「客を乗せる船なら、子どもも外を見たいな。落ちないようにして、見える場所を考えよう」
フランは、その言葉を手帳へ書いた。
翌日の試航には、家族も短時間だけ乗った。
港内と、その外の穏やかな海域を往復する。
遠くへ向かう本航海ではない。
出航すると、機関の振動が足元から伝わった。
灯花は、すぐ母の手を握った。
「お腹が、くすぐったい」
「船が揺れているからね」
ミーナは、娘を座らせた。
星司は父の袖を引いた。
「羽根が回ってる?」
「回ってる。後ろの水が動いているのが見える?」
船尾には、白く乱れる水があった。
大きな外輪は見えない。
それでも、岸が離れていく。
星司は、見えない場所にある機械の動きを、しばらく想像していた。
甲板へ来たエミルは、少し青い顔をしていた。
「具合が悪い?」
黎明が尋ねた。
「川では、こんなふうに揺れなかった」
ロットが笑いかけた。
しかし、エミルは先に言った。
「お前も、顔が白いぞ」
「機関室が暑かっただけだ」
「なら、パンを食べるか」
「今は、いい」
フランは二人を見て笑った。
ミーナは、水と座る場所を用意させた。
「今日は、海の船員さんたちの方が、元気ですね」
ロットは、北方の船員を見た。
男は、揺れる甲板で平然と綱をまとめていた。
「……機関のことなら、俺たちへ聞いてくれ」
ロットが言った。
「船に慣れるまでは、俺たちへ聞いてくれ」
船員が答えた。
二人は、苦笑しながら頷き合った。
試航は、無事に終わった。
その日の夕方、港の会議室で、定期航路の資金について話し合った。
造船費。
乗員の賃金。
燃料。
港の利用料。
修理に備える資金。
利益が出る前に、払わなければならないものばかりだった。
ヴァルデック商会の代表は、数字を確認してから言った。
「最初の二隻については、融資をまとめられます」
黎明は、条件の紙を読んだ。
商会の貨物を優先して運ぶこと。
一定量の輸送枠を、長期にわたり確保すること。
返済が遅れた場合、運航会社の持分を担保とすること。
露骨に不当な条件ではなかった。
だからこそ、簡単には断れなかった。
「輸送枠を、これほど長く押さえる必要がありますか」
黎明が尋ねた。
代表は答えた。
「船の事業が続くか、まだ分からないからです。長い契約があれば、銀行にも説明できます」
「小さな商人が利用できる枠は?」
「残りを使っていただけます」
「残りが少なければ、この航路は商会の専用に近くなる」
代表は、紙へ眼を落とした。
「宰相は、柊家の船であっても、帝国のすべての商人へ同じ条件を求められますか」
黎明は、しばらく黙った。
「帝国が港の工事へ費用を出すなら、その使い方は確かめます」
「では、帝国の仕事と、柊家の事業を、どこで分けるのでしょう」
それは、彼自身が答えを探している問いだった。
会議のあと、海を望む廊下で、ロットが黎明を呼び止めた。
「条件が悪いのか」
「受け入れれば、船は早く増やせる」
「断れば?」
「別の資金を探す。時間がかかる」
ロットは窓へ向いた。
造船所では、夜の作業が始まっていた。
「待つ間にも、人を雇ってる」
「分かってる」
「お前が分かってないとは、言ってねえ」
ロットは、声を少し落とした。
「俺たちも、借りなきゃ作れない。どこかで約束は要るんだろう」
黎明は頷いた。
「だから、何年後まで約束するかを、考えている」
自分たちが始めた事業のために、まだ仕事を選べない子どもたちへ、どれほどの義務を残すのか。
今夜は、そのことが気になっていた。
宿へ戻ると、ミーナは子どもたちの絵を並べていた。
暁人は、港と倉庫を描いた。
星司は、船尾の羽根を描いた。
灯花は、大きな船の横へ小さな魚を描いた。
「魚は、見えた?」
父が尋ねると、娘は首を振った。
「いたら、いいと思った」
黎明は笑った。
「そうだね」
暁人が、絵の倉庫を指した。
「父さん。この荷物を運ぶと、お金が入る?」
「運賃を払ってもらう」
「じゃあ、たくさん載せた方がいい」
「船が安全に運べる重さまでだよ」
「その中で、たくさん」
「そうだね」
長男は、荷の四角を増やした。
星司は、羽根をもう一枚描き加えている。
同じ船を見ていても、気になる場所が違った。
夜、ミーナは夫へ尋ねた。
「会議は、決まりました?」
「まだ」
黎明は、契約案を閉じた。
「この船が利益を出すころ、暁人は何歳になるだろうと考えていた」
「継がせるつもりですか」
「今は、決めたくない」
「なら、その子が継ぐ前提で借りない方がよいですね」
「借りなければ、今働いている人が困る」
ミーナは頷いた。
簡単な励ましでは済まない話だった。
「私も、病院を広げるとき、似たことを考えます。寄付が増えると、病室を増やせる。でも、寄付が減ったあとも、働く人の賃金は要る」
黎明は妻を見た。
「君は、どうしてる?」
「建物へ使うお金と、続けるためのお金を、分けて確かめます。それでも、足りなくなることはあります」
彼女は、夫の手へ触れた。
「あなたに、答えを教えられるわけではありません。でも、期限のない約束が怖いのは、分かります」
滞在の最後の日、南部の揚水設備を見た。
試験発注を始めた工房の弁が、補助ポンプに使われていた。
大きな主機関には、まだ柊の工場の印がある。
その横に、別の製造者の名が刻まれた小さな部品がついていた。
工房の代表が、運転記録を渡した。
「不具合は?」
黎明が尋ねた。
「最初の一月に、一度、漏れました。取りつけ方にも問題がありました。部品の形と、手順の両方を直しました」
「記録は、大学へも?」
「送っています」
代表は、少し笑った。
「こちらから、質問も送っています。返事が遅いときがありますが」
同行したティオの助手が、慌てて手帳を開いた。
黎明は笑いをこらえた。
助ける側と、助けられる側が、少しずつ変わっていた。
港へ戻ってから、黎明は融資の条件を再び提示した。
船の建造を支える長期の融資と、貨物の優先契約は、同じ期限にしない。
一定期間ごとに運航実績を確認し、輸送枠を見直す。
ほかの商人が使える枠を、初めから残す。
帝国の港を使う部分については、契約の要点を公開する。
ヴァルデック商会の代表は、何度も数字を書き直した。
「この条件なら、利率は上がります」
「承知しています」
「利益は、薄くなります」
「それも、見積もり直します」
交渉は夕刻まで続いた。
帰る列車の時刻が近づくと、黎明は時計を見た。
「続きは、運航会社の担当者へ引き継ぎます。私の判断が必要な箇所は、書面で送ってください」
代表は、意外そうに顔を上げた。
黎明は資料を揃えた。
今夜は帰ると、子どもたちへ約束していた。
列車へ乗ると、灯花はすぐ眠った。
星司は、船尾の模型を包んだ布を膝へ置いた。
ゼペットから、学ぶために貸してもらったものだった。
暁人は、父が席へ来たのを見て言った。
「三泊だったね」
「約束どおり」
「仕事、終わった?」
「全部は終わっていない。でも、続きを頼めた」
長男は、その返事を考えていた。
やがて、窓の外へ向き直った。
港の帆柱が遠くなり、線路沿いの倉庫が過ぎていく。
黎明は、妻の肩へ外套を掛けた。
ミーナは眠る娘を抱き直し、小さな声で言った。
「おかえり、の紙を、家へ帰ったら見ましょうね」
「うん」
同じ夜、ナグナリエの研究室には、空一郎とCHUYUが残っていた。
船の試航記録が届いていた。
回転数。
燃料の消費。
軸受の温度。
そして、甲板で孫たちが撮った写真。
空一郎は、模型を持つ星司の姿を拡大した。
「海兄が見たら、何て言うかな」
《まず、羽根の形を尋ねると思う》
「陸兄なら、試験の条件だ」
《宙結なら、灯花が寒くなかったかを聞くかもしれない》
空一郎は笑った。
そのあと、机の端にある部品を手に取った。
帰還研究に使う制御装置の一部だった。
「交換できる部品は?」
《同じ仕様の予備は、これが最後》
彼は掌の中の小さな部品を見た。
「海の船は、こちらで直せるようになってきた」
《うん》
「僕の装置も、少しずつ置き換えられると思ったけど」
《置き換えられる部分と、まだ置き換えられない部分がある》
空一郎は頷いた。
急げば壊すかもしれない。
急がなければ、自分の時間が足りないかもしれない。
今までは、研究の予定として考えていた。
その夜は、自分の身体の時間として考えた。
アリステリアが、戸口へ来た。
「黎明たちは、予定の列車へ乗れたそうです」
「よかった」
「あなたも、今日は終わりにしましょう」
空一郎は部品を箱へ戻した。
妻が、彼の手を見た。
「疲れました?」
「少し」
彼は正直に答えた。
「でも、孫たちが船を見られた。今日は、それが嬉しい」
アリステリアは夫の隣へ立った。
二人が部屋を出たあと、CHUYUは試航記録の保存を確かめた。
新しい船の記録と、故郷へ戻る装置の記録。
同じ設備の中にありながら、一方は少しずつ先へ進み、もう一方は、なお返事のない座標を見つめていた。




