第四十三章 三人の子どもたち 柊家の休日
ミーナが最初の子を身ごもったとき、黎明は予定表を三度書き直した。
地方の視察を減らす。
夜の会議を早く終える。
出産が近づいたら、帝都を離れない。
その紙を見たミーナは、少し困った顔で笑った。
「赤ちゃんは、その予定表を読めませんよ」
「分かってる。ただ、できるだけ家にいたい」
「それは、嬉しいです」
彼女は、予定表の余白へ指を置いた。
「でも、毎晩、何時に帰れるかを気にして、食事をしないのはやめてください。倒れる人が二人になったら困ります」
黎明は頷いた。
その夜は、書類を閉じてから食卓へ向かった。
長男が生まれたのは、婚礼の翌年、冬の終わりだった。
産室の外で待つ黎明は、廊下を何度も往復した。
空一郎は椅子へ座っていたが、息子が通るたび、顔を上げた。
「父さんは、僕が生まれたとき、落ち着いてた?」
「落ち着いていなかった」
「未来の医療を知っていても?」
「知っているから、考えることが増える場合もある」
空一郎は隣の椅子を指した。
「ここに座ろう。歩いていると、僕まで立ち上がりたくなる」
黎明は座った。
すぐに、また膝へ手を置き直した。
父も同じように、手を組み直した。
泣き声が聞こえたとき、二人は同時に立ち上がった。
母子ともに無事だと告げられてから、黎明は部屋へ入った。
ミーナは疲れていた。
それでも、夫を見つけると笑った。
「会えましたね」
「うん」
黎明は、寝台の脇へ座った。
小さな顔。
握られた手。
毛布の中で動く足。
抱かせてもらうと、腕が硬くなった。
「もう少し、肩の力を抜いて」
助産師が言った。
「落としたくなくて」
「その気持ちは分かります。でも、お父さんが息を止めていると、こちらが心配になります」
ミーナが、声を出さずに笑った。
黎明は息を吐いた。
「名前は、決めたとおりでいい?」
彼が尋ねると、妻は頷いた。
「暁人」
父から教わった日本語で、夜明けを表す字を使いたいと、黎明が提案した名だった。
空一郎が、紙へ漢字を書いた。
暁人。
この世界の文字による読み方も、その下へ添えた。
「僕の名前も、夜明けだね」
黎明が言った。
「では、あなたから、この子へ朝が続くのですね」
ミーナは、息子の頬へ指を寄せた。
黎明は、少し照れた顔で赤ん坊を見た。
二年後、次男が生まれた。
星司と名づけた。
空を見上げることが好きな黎明と、星の話を聞くことが好きなミーナが、一緒に選んだ名だった。
暁人は、初めて弟を見たとき、毛布を覗き込んだ。
「この子、帰らないの?」
黎明は、意味を確かめた。
「お客さんだと思った?」
暁人は頷いた。
「この子は、ここで暮らす。暁人の弟だよ」
「僕の部屋に?」
「もう少し大きくなるまでは、母さんの近くで寝る」
暁人は、母の寝台を見た。
「母さんも、弟のものになる?」
ミーナの笑顔が、少し変わった。
彼女は空いている手を伸ばした。
「暁人の母さんでもあります。弟が生まれても、それは変わりません」
長男は、その手を握った。
すぐに安心したわけではなかった。
弟が泣くたび、大人がそちらを見る。
自分の話が途中になる。
そのたび、暁人は父の上着を引いた。
黎明は、抱き上げて尋ねるようになった。
「何を話そうとしていた?」
短い話でも、最後まで聞いた。
さらに三年が過ぎた。
第三子を身ごもったミーナは、病院での仕事を少しずつほかの者へ渡した。
「全部を休まないのですか」
アリステリアが尋ねると、彼女は帳簿を閉じた。
「休むために、今、引き継いでいます」
「私に任せたい仕事は?」
「寄付者との会議を、お願いします」
「それなら、慣れています」
「それから、黎明が毎日、私の体調を五回ずつ尋ねるので、三回くらいに減らしていただけますか」
アリステリアは笑った。
「空一郎も、同じでした。そこは、あまり上手に教えられなかったようです」
娘が生まれると、兄たちは父に連れられて会いに来た。
暁人は、寝台の横で声を落とした。
「今度は、妹?」
「そうだよ」
星司は、自分の指と赤ん坊の指を見比べた。
「小さい」
「星司も、最初は同じくらいだった」
「僕も、ここで生まれた?」
「うん。母さんが抱いて、父さんも抱いた」
星司は、母を見た。
ミーナが頷くと、彼は満足したようだった。
娘は、灯花と名づけた。
暮らしを照らす灯りの「灯」と、ミーナが好きな「花」。
暁人は、赤ん坊を覗き込んだ。
「灯花は、何が好き?」
「それは、これから分かる」
黎明が答えた。
長男は少し考え、持ってきた木の列車を寝台の脇へ置いた。
「大きくなったら、貸してあげる」
灯花が生まれて数か月後、家族はナグナリエの屋敷へ集まった。
空一郎とアリステリアの家だった。
暁人は六歳。
星司は四歳。
灯花は、まだ抱かれている時間の方が長かった。
久しぶりに予定を空けた黎明は、朝食の席で言った。
「今日は、仕事をしない」
ミーナは、夫の脇に置かれた封筒を見た。
「では、その銀行の手紙は、帰るまで鞄に入れておきましょう」
「返事を一行だけ――」
「一行書くと、続きを考えますよね」
黎明は封筒を鞄へ戻した。
暁人が尋ねた。
「父さん、母さんの言うことを聞くの?」
「聞くよ」
「仕事でも?」
「母さんが詳しいことは、仕事でも聞く」
ミーナはパンを配りながら言った。
「父さんが詳しいことは、私も聞きます。何でも一人で決めると、間違いに気づけないので」
暁人は頷いた。
星司は、すでにパンへ手を伸ばしていた。
庭では、CHUYUの義体が灯花を抱いていた。
娘は叔母の指を握り、顔を見上げている。
「重くありませんか」
ミーナが尋ねた。
《抱くことはできる。長く立っていると膝へ負担がかかるので、今日は座っている》
「ありがとうございます。嫌になったら、渡してください」
《今のところ、互いに問題はない》
灯花が、CHUYUの髪を握った。
《髪については、相談したい》
ミーナは笑いながら、小さな手をほどいた。
星司が義体の膝を見た。
「叔母さん、怪我したの?」
《怪我ではなく、使っているうちに部品がすり減った》
「新しいのに替えたら?」
《同じ部品を、この世界ではまだ作れない。だから、直せるところを直して、大切に使っている》
星司は、その金属の継ぎ目を見つめた。
「僕が作れるようになったら、替えていい?」
《作れるようになったら、一緒に確かめよう》
彼は嬉しそうに頷いた。
空一郎は、孫たちの前へ三枚の紙を置いた。
いただきます。
ありがとう。
おかえり。
「今日は、日本語を三つだけ」
暁人が、紙を指した。
「じいちゃんの国の言葉?」
「そうだよ。父さんも、子どものころから覚えた」
黎明は、隣へ座った。
「僕が教わったときは、三つで終わらなかった」
「途中で、君が質問したからだ」
アリステリアが茶を置いた。
「そして、答えが長くなったのですね」
空一郎は笑った。
「今日は、短くする」
暁人が「ありがとう」と読み、星司が真似をした。
「あ、り、が、と……」
「う」
黎明が、最後の音を添えた。
「ありがとう」
「言えたね」
父が言うと、星司はもう一度繰り返した。
暁人が、三枚目を見た。
「おかえり、は?」
「外から戻った人へ言う」
空一郎は答えた。
「ただいま、と帰ってきたら、おかえり、と迎える」
「父さんが仕事から帰ったときも?」
「使えるよ」
暁人は、黎明へ向き直った。
「おかえり」
「まだ、出かけてないけどね」
黎明が笑うと、星司も言った。
「おかえり」
灯花が、叔母の腕の中で声を出した。
空一郎は、三人の顔を見た。
遠い故郷の言葉が、この庭で使われていた。
昼前、ロット、フラン、エミルが来た。
大きな包みを見たミーナは尋ねた。
「食べ物ですか、機械ですか」
「両方だ」
ロットが答えた。
「パンは、俺が持ってきた」
エミルが別の籠を上げた。
「機械のそばには置いていない。油の匂いもしない」
「それは、助かります」
フランとロットが包みを開くと、小さな蒸気機関が現れた。
暁人が椅子から降りた。
「僕の列車につなげられる?」
「今日は、台の上で回すだけだ」
ロットは答えた。
「走らせるには、釜と機関を載せても倒れない車を作らないといけねえ」
星司は、弾み車を指した。
「これは、何をするの?」
「ピストンが押す力を受けて回る。押していない間も回り続けるから、機関の動きが途切れにくくなる」
空一郎が、感心したようにロットを見た。
「説明が上手くなった」
「子どもに、何度も聞かれるからな」
「昔は、僕たちが聞いた」
黎明が言った。
ロットは、少し照れた。
機関は台へ固定した。
小さな釜で水を温め、蒸気が出るのを待つ。
子どもたちが触れないよう、周りへ柵を置いた。
最初の数分、暁人はロットの顔ばかり見ていた。
「まだ?」
「水が温まるまで、待つ」
「火を強くすれば?」
「強くしすぎると、扱いにくくなる。今日は、急いで動かす試験ではないんだ」
暁人は釜を見た。
星司は、動くはずの棒を見ていた。
やがてピストンが往復し、弾み車が回り始めた。
二人の顔が、同時に明るくなった。
フランは、木の人形を台へ取りつけた。
機関の動きを細い棒で伝えると、人形の腕が上下した。
星司が笑った。
「こんにちは、ってしてる」
「お前が、昨日そう言ったからな」
フランが答えた。
暁人は弟を見た。
「星司が、考えたの?」
「腕を動かしてほしいって言った」
灯花も人形を見て、声を上げた。
星司は、叔母の椅子へ近づいた。
「灯花にも、見える?」
《見ている。あなたの方も、よく見ている》
星司が手を振ると、娘の指が動いた。
彼は人形よりも長く、妹の顔を見ていた。
昼食には、エミルのパンと、屋敷で作った煮込みが並んだ。
遅れて来たティオは、庭の機関を見て溜息をついた。
「休日にも、蒸気の音を聞くとは思わなかった」
「もう、火は落とした」
ロットが言った。
「お前の分も、パンを残してある」
「それなら、歓迎されたことにしよう」
ティオは席へついた。
暁人が彼へ尋ねた。
「学校には、機関がある?」
「あるよ。大きいものも、小さいものも」
「触れる?」
「使い方を習ってから、先生と一緒に」
星司が、すぐに言った。
「僕、学校へ行く」
「読み書きの授業もある」
ティオが答えた。
ロットが顔を上げた。
「そこは、先に言っておいた方がいい」
「君は、最初に困ったからね」
「今は、図面も帳簿も読めるぞ」
「だから、子どもたちにも習ってもらいたい」
ティオは微笑んだ。
ロットも、今度は反対しなかった。
暁人は、エミルへ尋ねた。
「このパンにも、柊の印をつける?」
「どうして?」
「父さんの工場のものには、ついてるから」
「これは、俺が家で焼いた。俺の名前をつけてもいい」
暁人は、パンを見た。
「じゃあ、エミルのパン」
「そうだ」
「おいしい」
「ありがとな」
エミルは、机に残っていた紙を見て言い直した。
「アリガトウ」
星司が、正しい音で繰り返した。
ロットは笑った。
「今日は、先生が多いな」
食事のあと、子どもたちは庭の端で木の列車を走らせた。
暁人が線路をつなぐ。
星司が車輪を確かめる。
フランが間へ入って、曲がり角の下へ小さな板を敷いた。
灯花は、アリステリアの腕の中で眠った。
黎明は、その様子を父と見ていた。
「暁人は、いつも誰のものかを聞く」
「自分のものと、借りたものを覚えている時期なんだろうね」
空一郎が言った。
「僕が家業の話をしているのも、聞いてるのかな」
「聞いていると思う。意味は、まだ全部分からなくても」
黎明は、長男が線路を弟へ渡すのを見た。
「星司は、仕組みばかり気にする」
「君も、そうだった」
「僕は、もっと何でもできると思ってた」
父は笑った。
「それも、覚えている」
しばらくして、空一郎は書斎から薄い本を持ってきた。
日本語と英語で、研究者たちの手紙を収めた教材だった。
「子どもたちの本?」
黎明が尋ねた。
「これは、君へ」
「今日は、僕も生徒?」
「最近、英語を読んでいる?」
「仕事の書類の方が、多くなった」
空一郎は、椅子へ座り直した。
「僕の世界の資料には、英語のものも多い。翻訳を使うことはできる。でも、元の言葉で読むと、書いた人が迷っていたのか、強く言い切っていたのか、気づけることがある」
黎明は本を開いた。
辞書が必要な単語が、幾つもあった。
「《Bible》の歴史資料も?」
「そうだね。機械の説明だけでなく、それを使った人たちの記録もある」
「父さんの世界は、僕たちより豊かだったんでしょう?」
黎明が尋ねた。
「多くのものを作れた。遠くへ行けた。治せる病気も増えた」
「では、暮らしがよくなった」
「よくなったところは、たくさんある」
空一郎は、本へ手を置いた。
「でも、同じ力で、人を傷つけることもできた」
黎明は父を見た。
空一郎は続けた。
「僕が持ってきた道具でも、君はそれを見た。僕の世界には、もっと多くの出来事が記録されている」
「いつか、全部読める?」
「読める。ただ、ひとつの記事や映像だけで、その時代を分かったと思わないでほしい」
黎明は頷いた。
父が何を思い浮かべているのかまでは、まだ分からなかった。
CHUYUが、隣の椅子から言った。
《分からない言葉は、一緒に確かめられる》
「父さんの説明も?」
《必要なら、別の説明をする》
空一郎が苦笑した。
「僕の説明は、長いから?」
《今日は、三つの日本語だけと聞いていた》
机には、英語の本まで増えていた。
アリステリアは夫を見た。
「やはり、三つでは終わりませんでしたね」
黎明は笑いながら本を閉じた。
「続きは、家で読むよ」
夕方、仲間たちが帰ったあと、暁人が父へ小さな紙を渡した。
大きな字で、「おかえり」と書いてあった。
「玄関に置いて」
「どうして?」
「父さん、遅く帰ると、僕たち寝てるから」
黎明は、紙を受け取った。
暁人は続けた。
「起きてたら、言う。でも、寝てたら、これを見て」
父はしゃがみ、息子と同じ高さになった。
「ありがとう」
暁人は頷いた。
星司は、その横から尋ねた。
「明日、機関を見に行っていい?」
「明日は、父さんは仕事だ」
「じゃあ、いつ?」
黎明は、すぐに曖昧な返事をしなかった。
「次の休みに行こう。工房の人に、見学できる時間を聞いておく」
星司は指を折って、その日までを数え始めた。
夜、家へ戻ると、ミーナは暁人の紙を玄関の棚へ置いた。
灯花を寝かせ、兄たちの部屋へ行く。
戻ってきたとき、黎明はまだ紙を見ていた。
「どうしました?」
「帰る時間を、もう少し守りたい」
「毎日、同じ時刻でなくてもいいと思います」
彼女は隣へ立った。
「帰れない日は、帰れないと伝えてください。子どもたちは、待っていてよいのか分からないのが、寂しいのです」
黎明は頷いた。
ミーナの手を取り、口づけた。
「今日は、僕にも、いい休日だった」
「私にもです」
奥の部屋で、灯花が小さく泣いた。
二人は顔を見合わせた。
「今度は、僕が行く」
黎明は上着を脱ぎ、妻へ渡した。
ナグナリエの研究室では、空一郎が一日の映像を見ていた。
孫たちが日本語を読む。
小さな機関が回る。
仲間たちがパンを分ける。
暁人が、父へ紙を渡す。
送信する記録へ、空一郎は短い説明を加えた。
「黎明に、三人目の子が生まれた。娘だ。灯花という」
少し間を置いた。
「暁人は六歳、星司は四歳になった。今日は、皆で庭に集まった」
CHUYUは送信の準備を続けていた。
空一郎は、故郷の家族へ話しかけた。
「日本語を、少しずつ教えている。僕が帰れなくても、ここに残る子たちが、君たちの言葉を読めるように」
そこで、声が少し途切れた。
「元気でいる。皆も、元気でいてほしい」
送信を終えたとき、アリステリアが戸口へ来た。
「今日は、もう終わりにしませんか」
空一郎は頷いた。
妻の隣へ立ち、その手を取った。
研究室の画面には、孫たちの名前が残っていた。
暁人。
星司。
灯花。
CHUYUは、漢字と、この世界の文字による読み方を、同じ記録へ保存した。




