第四十章 お忍びの旅 誰の暮らしが変わったか
レグリアへの旅行は、休暇であると同時に、正式な訪問の一部でもあった。
最初の二日は会談。
最後の一日は、予定を空けた。
黎明とミーナは、上等な服を置き、町へ出た。
護衛は離れてついた。
CHUYUの義体は、荷を持つ親族に見える衣服を着ていた。
《普通の親族は、この量の荷を一人では持たない》
彼女は、ミーナの買った包みを見た。
「もう一つだけです」
《三つ前にも、そう聞いた》
黎明は笑った。
ミーナは、彼の腕を軽く叩いた。
ヴェルメリアの織物店には、柊の印を描いた看板があった。
使節団の紹介で機械を入れた店だった。
若い女主人が、二人へ布を広げた。
「以前より、同じ幅で織れます」
「働く人も、増えましたか」
ミーナが尋ねた。
「ここでは、増えました」
女主人は、少し間を置いた。
「家で織っていた人は、減りました。うちへ来る人もいます。でも、子どもを見ながら家で働きたい人は、困っています」
黎明は布へ触れた。
整った織り目。
安い値段。
その二つだけを、成功の記録で読んでいた。
「機械を入れたとき、相談する場所は?」
「商会です。商売をやめる相談は、あまり歓迎されません」
女主人は、笑ってみせた。
黎明には、その笑いをどう受け取ればよいか分からなかった。
港へ近づくと、煤の匂いがした。
船の修理場では、蒸気の巻き上げ機が荷を持ち上げていた。
重い仕事は楽になった。
荷の動く速さは、人が避ける速さより早くなった。
右手を布で包んだ男が、壁際で食事をしていた。
ミーナが声をかけた。
「怪我ですか」
「巻き上げ機の綱だ。仕事が早いから、こっちも早く手を出した」
「診てもらいました?」
「診てもらった。しばらく休めとさ」
男は、港を見た。
「休んだ間、誰が飯を買うかは、言ってくれなかった」
ミーナは、隣へ座った。
黎明は少し離れて立っていた。
宰相と名乗れば、男は話す内容を変えるかもしれない。
名乗らないまま聞いていることにも、気が引けた。
その落ち着かなさを、彼は忘れないようにした。
昼には、層を重ねて焼いた三日月形のパンを買った。
公園の椅子へ座ると、ミーナが半分を渡した。
「冷める前に、食べてください」
「さっきのことを、考えてた」
「分かっています」
彼はパンをかじった。
薄い層が崩れ、膝へ落ちた。
ミーナが笑った。
「今日は、うまく食べる練習からですね」
黎明も笑った。
笑えたことに、少しほっとした。
「僕たちの仕事で、暮らしが楽になった人はいる」
「はい」
「困った人もいる」
「はい」
「全部を止めたくはない」
「私もです」
ミーナはパンの包みを畳んだ。
「だから、困った人が次に行ける場所を、増やしたいです」
夕方、小さな劇場へ入った。
芝居には、何でも帳簿へ書きたがる宰相が出てきた。
靴を片方なくした男へ、靴の数を数え直せと言う。
観客が笑った。
黎明も笑った。
ミーナは、隣で肩を震わせていた。
「僕に似てる?」
「少し」
芝居の最後、宰相は天へ向かって命令した。
光を落として、帳簿の間違いを焼け、と。
客席が、また笑った。
黎明の笑いは止まった。
ミーナの手が、彼の手へ重なった。
光の事件は、ここでは冗談になっていた。
それも、記録の一つだった。
宿へ戻ると、二人は窓辺で靴を脱いだ。
長く歩いた足が痛んだ。
黎明がミーナの足首を掌へ載せると、彼女は少し驚いた。
「自分でできます」
「今日は、僕が」
彼は、きつくなっていた留め紐をほどいた。
足の甲に跡が残っている。
ミーナは彼の髪へ触れた。
「明日は、宰相に戻るのですね」
「今夜は?」
「私の夫です」
黎明は顔を上げた。
彼女が身をかがめ、口づけた。
窓の向こうで、港の船が汽笛を鳴らした。
黎明は手を伸ばし、窓を閉めた。
帰国後の茶会で、空一郎は旅の話を聞いた。
「良い町だった?」
「良いところも、困っているところも」
黎明が答えた。
ティオは学術新聞を膝へ置いた。
「それは、良い休暇の報告ではないな」
「良い休暇だったよ」
ミーナが笑った。
エレオノーラの膝では、猫型の機械が小さく動いていた。
未来の機材を使った古い玩具だった。関節の一つを修理できず、左前脚の動きがぎこちない。
「この子も、全部は戻せない」
エレオが言った。
「でも、好きです」
空一郎は、その脚を見た。
持ち込んだものを、いつまでも同じ状態で残せるわけではない。
義体も、計算装置も、帰還研究の機材も。
だから、記録と、使い方を残す。
それでも、残らないものはある。
「どんな未来を、望んでる」
父が尋ねた。
黎明は、以前なら差別も戦争もない世界と答えただろうと思った。
今も、望んでいる。
ただ、今夜は別の言葉になった。
「柊の印がなくても、病院が開くこと」
皆が、彼を見た。
「僕たちに反対する人も、学校へ通えること。誰かが怪我をしたとき、休んだら飢えると思わなくて済むこと」
ティオが頷いた。
アリステリアは、茶を注いだ。
ミーナは、夫の手へ指を重ねた。
家の奥で、子どもの泣き声がした。
二人は同時に顔を上げた。
「私が行きます」
「僕も」
空一郎は、立ち上がる二人を見送った。
未来は、今夜も誰かを眠らせる仕事から始まっていた。




