第三十八章 大陸交渉 柊の印を越えるもの
外交使節の最初の荷は、金でも武器でもなかった。
定規と、分銅。
蒸気船の補修部品。
薬の調製記録。
それから、大学へ入るための案内だった。
イグナーツ・フォン・エステールは、荷の一覧を読んだ。
「交渉の前に、引っ越しをしている気分です」
黎明は笑った。
「同じ重さを使わないと、炭の値段も決められない」
「同じ重さを使っても、同じ値段では売ってくれません」
「そこは、君の仕事」
若い外交官は、溜息をつきながら紙を畳んだ。
西のレグリア共和国には、アリステリアの母方の親族が暮らしていた。
共和制となる前、その一族は地方の統治に関わっていた。
今は、議会へ選ばれて働く者もいれば、官職から離れた者もいる。
「親族だから、話が通るとは思わないでください」
アリステリアは使節へ言った。
「親族だからこそ、特別に扱ったと疑われることもあります」
イグナーツは、その言葉を覚えた。
通訳のマリナ・ロシュフォールと、軍事顧問のレオン・ツヴァイクが同行した。
レオンの任務は、条約で兵を動かす道を得ることではない。
国境の橋と港を、軍が独占しない条件を確かめることだった。
ヴェルメリアの議場で、レグリアの代表は尋ねた。
「柊家の装置は、我々にも向けられるのですか」
イグナーツは、答えを急がなかった。
女神の鉄槌の噂は、国境を越えていた。
「帝国の反乱で使われた装置について、調査と権限の見直しが続いています」
「見直しが終わる前に、友好を求める?」
「はい。恐れがあるからこそ、条件を紙へ残したいのです」
代表は彼を見た。
「では、軍による商港の使用から始めましょう」
会談は、ようやく具体的な話になった。
条約には、船が故障した場合の扱いが入った。
救援する港。
補修費の負担。
積荷を勝手に差し押さえないこと。
感染症を疑う船が来た場合の連絡先。
互いの貨幣は残し、重さと交換の基準を示す。
黎明が期待した大きな友好宣言よりも、細かな条項が先にまとまった。
空一郎は、それを読んで頷いた。
「こういう約束が、次の船を出す」
北のノルディエラ同盟では、マリナが故郷の港を案内した。
造船所には、帝国より優れた乾燥材があった。
船員は、風と潮の読み方を知っていた。
ゼペットは同行しなかったが、送られた図面へ何枚も返事を書いた。
帝国の外輪船を、そのまま海へ持ち込む案は退けられた。
沿岸を行く船に、帆を残し、補助の蒸気機関を載せる。
波で片側の外輪が浮けば、回転が急に軽くなる。沈めば、重くなる。
船体の横へ大きな輪をつけることは、荷役にも邪魔だった。
そこで、船尾の水中へ回転する羽根を置く試験が始まった。
「螺旋の一部で、水を押す」
図面を見たフランが言った。
「外輪より、軸を長く通すぞ」
ロットは船尾の線を指した。
「ここから、水が入る」
推進装置を変える話は、軸受と防水の話になった。
海を知る職人と、機関を知る職人が、互いの図面へ赤い線を引いた。
南のアルヴェニア王国から来たフェルナン・デ・ラ・クルスは、医療院を一周すると、最初に水場を見た。
「よい病院です」
ミーナは、まだ病室も見せていないと言った。
「水の通り方を見ると、働く者が何を大切にしているか分かります」
彼は、薬と古典医学に詳しかった。
その知識を、未来の医学がすべて置き換えるわけではなかった。
現地の病気。
薬草の採れる季節。
薬を飲ませる器。
患者の家へ届く言葉。
アリ・ザフラがバフラーン連邦から持参した標本も、比較の棚へ加わった。
ミーナは、効くという話だけでなく、効かなかった場合を尋ねた。
アリは驚いたあと、笑った。
「それなら、持ってきた帳簿が全部使えます」
ルーセント王国から来たセリーヌ・ド・バルモンは、技術棟の歯車を見て、いきなり軸へ耳を近づけた。
「そこへ、髪を寄せるな」
ロットが叫んだ。
「動いていないでしょう」
「動く場所では、癖にするな」
彼女は髪を結び直した。
「この音、軸受の位置が合っていない」
「分かるのか」
「父の工房で、同じ失敗をしました」
天才という評判より先に、失敗の経験が役に立った。
セリーヌは、部品へ番号をつける案を出した。
同じ名前の弁でも、取りつけるたびに削って合わせるのでは、替え部品にならない。
寸法の基準となる棒を作る。
穴を確かめる器具を作る。
合うものと合わないものを、手の感覚だけで分けない。
「これでは、職人の腕が要らなくなる」
古い親方が言った。
セリーヌは首を振った。
「基準を作る腕が要ります。私には、まだ作れません」
親方は、少し長く彼女を見た。
次の日、自分の道具箱を持ってきた。
黎明は留学生たちの集まる食堂へ来た。
帝国の制度を褒める声もあった。
批判する声もあった。
「講義で使う言葉が難しい」
「港の関税が高い」
「女神へ祈らなければ、奨学金が出ないのか」
最後の問いに、ティオが答えた。
「出る」
「そう聞いていない」
「では、案内が間違っている」
黎明は、配られた紙を受け取った。
慈善を担う教団の紋章が、大きく印刷されていた。
誰も改宗を条件にはしていない。
しかし、そう見える紙になっていた。
彼は持ち帰り、印刷を直させた。
知識を分けることにも、相手を自分たちの形へ変えようとする誘惑があった。
各国の新聞は、帝国を「柊の帝国」と呼び始めた。
正式な国号ではなかった。
港で見る印。
機械についた印。
薬の箱の印。
それらが、国の名より先に覚えられたのだった。
黎明は新聞を父へ見せた。
「僕たちは、帝国を持っていると思われている」
「持っているように見えるものが、多すぎるのかもしれない」
空一郎は答えた。
そのころ、帰国した留学生の一人が、故郷で柊の印を外した学校を開いた。
教える内容は似ていた。
教師と生徒が決めた、別の名がついていた。
ティオは、その知らせを嬉しそうに読んだ。
柊家の広報担当は、少し残念そうだった。




