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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第三十六章 聖女ミーナ  信仰の光と、鉄の道



「ミーナさま、山の村から患者さんが」


「熱はありますか。歩けますか」


「抱かれて来ました。男の子です」


 ミーナは椅子を引いた。


「まず、こちらへ。診療の担当を呼んでください」


 母親の腕から、痩せた子どもの顔が見えた。


 目は開いていたが、呼びかけへの返事が遅い。


 ミーナは、順番を待っていた人々へ事情を伝え、急いで診る場所を空けた。


 誰かが、小さく祈った。


「聖女さまが、来てくださった」


 彼女は、その言葉を聞いた。


 今は訂正せず、清潔な布を取りに行った。


     


 北の石炭が定期的に届くようになってから、医療院の裏庭にも炉ができた。


 湯を沸かし、布を洗い、器具の手入れに使う。


 煙を病室へ入れないため、炉の位置と煙突の高さを何度も変えた。


 暖かい湯がいつでも使えることは、立派な新薬ほど人の噂にならなかった。


 しかし、働く者には分かった。


 冬の朝、凍える指で布を絞らなくて済む。


 汚れたものを洗う仕事を、後へ回さずに済む。


 石炭の利益の一部は、医療院と大学へ回された。


 寄付の額は増えた。


 寄付した者が、自分の名を壁へ刻むよう求めることも増えた。


「患者さんの名より、大きな字になりますね」


 ミーナが言うと、アリステリアは苦笑した。


「小さくすれば、寄付も小さくすると言われました」


「困ります」


「ええ。ですから、寄付者の記録は別の部屋にしました」


 二人は同じ帳簿を見た。


 貴族の娘と、貧しい家で育った娘。


 違いは消えなかった。


 ただ、違う場所で働けることが、助けになった。


     


 夜、アリステリアは病室の前で足を止めた。


 ミーナが、眠れない患者の話を聞いていた。


 薬を増やすのではなく、椅子を寄せている。


 やがて患者が眠ると、彼女は静かに立った。


「私には、あのようにはできません」


 アリステリアが言った。


 ミーナは驚いた顔をした。


「できないのではなく、なさる時間がないのでしょう」


「そう言ってもらえると、少し救われます」


 母は、廊下の窓へ目を向けた。


「でも、ときどき妬ましくなる。あなたが手を握れば落ち着く人を、私は書類の上でしか助けられない」


 ミーナは、彼女の持つ鍵を見た。


「その書類で、今夜の食事が買えました」


 アリステリアは笑った。


 その笑いには、少し疲れがあった。


「黎明は、あなたの前で、ちゃんと弱音を吐きますか」


「最近は」


「なら、よかった」


 その言葉には、医療会議の長ではなく、母の声があった。


     


 山の遺跡には、調査隊が何度も入った。


 崩れた床を補強し、水の流れを変え、埋まっていた別の通路を開いた。


 石の輪がある部屋の奥には、小さな祭室があった。


 片腕を失った女性の像。


 足元には水を受ける浅い槽。


 壁の窪みに収められた、薄い金属板と、傷んだ冊子。


 ドルンが言ったとおり、古い水の施設であった可能性は高かった。


 ただし、祭室と輪が何のためにつながっていたのかは、分からなかった。


 女神の像だという者がいた。


 水路を守る術師の像だという者もいた。


 CHUYUは、両方を記録した。


 黎明が尋ねた。


「どちらが正しい?」


《今ある資料では、決められない》


 大学の古代史の教師は、金属板の文字を指した。


「ここだけは、既知の古い碑文に似ています。読む者、灯、水を分ける者――そのような意味かもしれません」


「灯を持つ女神?」


「そう訳すと、ほかの部分が読めなくなります。まだ、名を決めないでください」


 空一郎は、その慎重さを好ましく思った。


 同時に、別のことも考えた。


 像の前には、調査員だけでなく、坑夫たちが花を置くようになっていた。


     


 エレオノーラは、兄とは違い、母の術を使えた。


 小さな風だけだったころから、少しずつ練習を続けた。


 水面を揺らし、煙の流れを変え、紙を触れずに持ち上げる。


 疲れれば止める。


 記録を取り、翌日に確かめる。


 遺跡へ同行したとき、彼女は石の輪の前で掌を開いた。


 輪の内側に、淡い明かりが灯った。


 長くは続かなかった。


 CHUYUの計測器は、光が出たことを捉えた。しかし、その前に何が起きたかは説明できなかった。


「私が、光らせたの?」


 エレオが尋ねた。


 空一郎は娘の手を見た。


「君の術が、何かを動かしたのかもしれない」


「何か、ばかりですね」


「うん。今は、そればかりだ」


 エレオは笑った。


 その笑顔を見た坑夫の一人が、膝をついた。


 彼女は、笑うのをやめた。


     


 新しい信仰をまとめる話は、礼拝堂の不足から始まった。


 医療院の患者は、違う神へ祈った。


 大学には、違う土地の子が来た。


 鉱山では、獣人とドワーフと人間が同じ坑道へ入った。


 それぞれの祈りを禁じず、一緒に弔える場所が欲しい。


 その願いと、領地をまとめたい政治の思惑が、同じ会議に載った。


 空一郎は、遺跡の記録を置いた。


「古い資料をきっかけに、今の僕たちの言葉をまとめることはできる」


「古い教えが戻ったと、言えばよいのです」


 招かれた聖職者が言った。


 ティオが顔を上げた。


「まだ、古文書の全体を読めていません」


「民には、細かな違いは――」


「大学の名で、読めていないものを読めたとは言えません」


 部屋が静かになった。


 黎明は、父を見た。


 空一郎は、自分が置いた記録を引き寄せた。


「発見した資料と、これから作る教えは、分けて残そう」


 便利な言い方を、一度は考えた。


 息子には、それも伝えた。


     


 リュクス・セレスティア。


 空一郎の故郷に残る古い言葉を手掛かりに、「天の光」を表す名が選ばれた。


 教えを集めた冊子は、『リュミナリスの書』と呼ばれた。


 遺跡で見つけた文章の翻訳と、新たに編まれた文章は、異なる印で区別した。


 癒しと慈愛。


 学び、確かめること。


 共に暮らし、互いを助けること。


 黎明は、その三つを各地の聖職者へ示した。


 反対はあった。


 神の権威を、学ぶ者の判断へ渡すのか。


 貴族の権利より、貧しい者の必要を優先するのか。


 同じ言葉に頷いた者同士でも、解釈は違った。


 それでも、慈善医院と学問院を共に支える仕組みは、少しずつ受け入れられた。


 エレオノーラは、祈りの式を担った。


 ミーナは、救護と奉仕を担った。


 二人を「巫女」と呼ぶ声が上がり、ミーナを「聖女」と呼ぶ声は、もう院内だけではなくなった。


     


「私を、像の隣へ立たせたいのですか」


 ミーナは、儀式の案を読んで尋ねた。


 黎明は、頷いた。


「皆が、君を信じている」


「病院で働いているからでしょう」


「それを、もっと広い場所でも――」


「患者が亡くなったら、信じるものもなくなりますか」


 彼は黙った。


 ミーナは紙を置いた。


「治った人だけを、皆の前へ出さないでください」


「ミーナ」


「治らなかった人も、私の患者です」


 その日、式典で読む報告へ、死者の数と、救えなかった病の記録が加えられた。


 聖職者の一人は、不吉だと言った。


 エレオノーラは、兄の隣から答えた。


「その人たちのためにも、祈るのでしょう」


     


 未来から持ち込まれた薬が、重い感染症の患者を救ったとき、人々は奇跡だと言った。


 空一郎には、その呼び名を止めきれなかった。


 保管する薬の量は限られていた。


 成分を知っていることと、現地で安定して作れることは違う。


 器具、原料、純度、保管。


 大学の薬学の教室は、一つずつ確かめた。


 予防接種の研究も、同じように進んだ。


 CHUYUが整理した病気の記録と、現地で集めた試料を照合する。似た症状だからといって、故郷の病原体と同じとは決めなかった。


 作る方法が定まり、安全性と効果を調べ、接種を続けられる見込みが立ったものから、限られた地域で始めた。


「神の祝福を、子どもたちへ」


 布告の案を読んだミーナは、筆を取った。


 その下へ、薬の名前と、接種後に具合が悪くなったときの相談先を加えた。


 祈りの言葉だけでは、親が子を連れてくる理由に足りなかった。


 戻って来られる場所を、先に知らせた。


     


 信仰が広がるにつれ、黎明へ届く報告も増えた。


 慈善医院の患者数。


 学校の欠席。


 村ごとの死者。


 水害と、食料の値段。


 CHUYUは、記録の抜けを示しながら、地図へ重ねた。


《この地区では患者が少ない。ただし、医院まで遠く、記録へ入っていない可能性がある》


 黎明は地図を見た。


「医院を増やすなら、ここか」


《現地の聞き取りが必要》


「人を送ろう」


 その横へ、別の報告が置かれた。


 新しい教えへ反対する説教師。


 集会に来る者の名。


 黎明は、名簿を端末へ入れようとした。


 CHUYUが尋ねた。


《これは、何を判断するための記録?》


「騒動になる前に、知りたい」


《反対していることと、暴力を準備していることは、同じではない》


「でも、見逃せば――」


《何をした者を調べるのか、先に決めて》


 黎明は手を止めた。


 フレイデンで、目的を言わずに機体を呼ぼうとした日のことが戻ってきた。


 今は、名簿だった。


 傷つける道具には見えなかった。


 だからこそ、簡単に使いそうになった。


     


 その夜、彼はミーナへ話した。


「僕を信じてくれる人が増えた」


「はい」


「信じない人が、怖くなった」


 彼女は、長く黙っていた。


「私も、あります」


 意外な返事だった。


「治療を受けない人に、腹が立つことがあります。でも、その人の怖さを聞いていないこともある」


 黎明は、椅子の背へ身体を預けた。


「聖女には、見せられない顔だね」


「あなたには、見せます」


 ミーナは彼の前へ立った。


「私にも、あなたの顔を見せてください。皆が欲しがる顔ばかりではなく」


 黎明は彼女の手を取った。


 その手を額へ寄せた。


 彼女は、もう何も言わなかった。


     


 改革は、数年の間に少しずつ広がった。


 石炭船の便が増えた。


 街道沿いの倉庫が増えた。


 大学を出た者が、地方の医院と学校へ赴いた。


 新しい教えは土地ごとの祈りを取り込み、同じ冊子を使いながら、違う歌で唱えられた。


 黎明は帝国の評議会へ呼ばれるようになり、やがて宰相の職を受けた。


 柊家の事業を率いる立場と、帝国の制度を決める立場。


 二つを兼ねることに、反対する者もいた。


 彼は事業の帳簿を別の管理者へ渡し、帝国との契約では、自分一人で決めない手順を設けた。


 それで疑いがなくなるわけではなかった。


「柊の印の船が、帝国の荷を運ぶ」


 ある議員が言った。


「宰相が印を押さなくても、儲かる家は同じだ」


 黎明は、その発言を議事録から消させなかった。


     


 黎明が三十歳、ミーナが二十四歳になる春、二人は結婚した。


 中央大聖堂の鐘は、大学で最初に鳴らした鐘とは違い、澄んだ音を出した。


 大学の古い鐘も、同じ時刻に鳴った。


 ロットは、その音を聞いて笑った。


「まだ、あいつは下手だ」


「最初の音だから、残すんだろ」


 フランが答えた。


 聖堂では、エレオノーラが『リュミナリスの書』を開いた。


 彼女が読む箇所は、古文書からの引用ではなかった。


 この時代に、兄とミーナと話し合って加えた文章だった。


「互いの言葉を聞くこと。困難の中でも、相手を一人にしないこと。相手の名を、自分の望みのためだけに用いないこと」


 黎明は、ミーナを見た。


 藍色を残した衣装に、白い薄布を重ねている。


 人々が呼ぶ聖女の姿よりも、診療所の裏口で髪をほどいていた姿を思い出した。


「あなたと、暮らしたい」


 決めていた長い誓いは、途中で短くなった。


 ミーナは少し笑った。


「私もです」


     


 広場には、空一郎の保管設備から出した投影装置が置かれた。


 薄い幕へ、聖堂内の二人が映る。


 全国へ同時に届けるだけの通信網は、まだなかった。


 遠い都市へは、記録を運び、あとから上映する。


 その場にいない人の顔まで映せるように見せかけることはしなかった。


 広場の子どもたちは、それでも大きな歓声を上げた。


 CHUYUは、人の流れを見ながら義体で端に立っていた。


 右手の指は、綺麗に動いた。


     


「ようやく、ですね」


 アリステリアが言った。


 空一郎は、妻の手を握った。


「うん」


「あなた、さっきから、それだけ」


「ほかの言葉を言うと、泣きそうだ」


 彼女は、夫の指を握り返した。


 隣でラグエルが姿勢を直した。長い式の間、座っていることが増えた公爵の肩へ、ディアナがそっと手を置いた。


 家族が揃っている。


 空一郎は、その光景を記録した。


 送信先は、今も返事のない家族だった。


     


 その日の祝いで、すべての仕事が止まったわけではない。


 医療院には勤務者が残った。


 釜の火を見守る者がいた。


 鉱山の排水機械は、祝いを待ってくれなかった。


 黎明は、その者たちへ交代の休みと食事を用意させた。


 聖堂の外へ出たあと、ミーナが言った。


「明日、病院へ顔を出します」


「明日くらいは――」


「挨拶だけです」


 彼女は、彼の袖をつかんだ。


「そのあとは、一緒にいます」


 黎明は、それ以上反対しなかった。


     


 夜、祝宴の声が遠くなった。


 ミーナは鏡の前へ座り、髪の飾りを外していた。


 最後の留め具が、うまく抜けない。


「手伝おうか」


「お願いします」


 黎明は彼女の背後へ立った。


 細い金具を外すと、髪が肩へ落ちた。


 首筋に、長い式の間についた小さな赤い跡があった。


 彼はそこへ口づけた。


 ミーナの手が、鏡の前で止まった。


「今夜は、聖女と呼ばないでください」


「呼んだこと、あった?」


「大勢の前では」


 彼は、彼女の肩へ額を寄せた。


「ミーナ」


 彼女は振り向き、彼の頬へ触れた。


 衣装の留め具を外す指が、途中で止まる。


 黎明が手を重ねると、彼女は小さく頷いた。


 蝋燭の灯りが揺れた。


 外で鳴り続けていた鐘も、やがて止んだ。


     


 婚礼から一月後、黎明は工房へ呼ばれた。


 庭には、二本の鉄の道が延びていた。


 継ぎ目ごとに、下の木へ固定してある。


 その上に、小さな蒸気車が載っていた。


「結婚祝いだ」


 ロットが言った。


 黎明は機関を見た。


「これを、家へ持って帰るの?」


「違う。金を出せ、という祝いだ」


 フランが笑った。


 機関の左右に、二つのシリンダーが置かれている。


 車輪を回すクランクの位置をずらし、一方が力を出しにくい位置でも、もう一方が動かせるようにした。


 船で必要だった大きな弾み車は、ここにはなかった。


 ボイラーは小さく、以前より高い圧力を使う。


 その分、板と鋲、継ぎ目の試験へ長い時間をかけた。


「復水器は?」


 黎明が尋ねた。


「今は、外へ蒸気を出す」


 エミルが答えた。


「水は食う。だが、復水器と冷却水まで積むと重すぎる」


 空一郎は、煙突を見た。


「出る蒸気で、火の通りを助ける工夫も試している」


「また、釜焚きの仕事が増えるな」


 黎明が言うと、ロットは笑った。


「だから、人を育てろ」


     


 試験の車は、重い荷台を一両だけ曳いた。


 最初、車輪が滑った。


 蒸気を絞ると、鉄の上で軋み、ゆっくり動き始めた。


 皆が黙った。


 小さな車が、荷を連れて進む。


 短い線路の端へ近づくと、ロットが早く蒸気を止めた。


 ブレーキをかける。


 停止したあと、エミルが距離を測った。


「速くする前に、止める方だな」


 黎明が言った。


 三人が頷いた。


 その日の夕方、最初の路線が地図へ描かれた。


 帝都から遠い都市まで、一気につなぐ線ではない。


 鉱山の積み出し場から、川の港まで。


 勾配を抑え、橋を少なくし、線路を保つ人を置ける距離。


 最初の十数キロだった。


     


 次に来た計画は、外洋へ出る蒸気船だった。


 ゼペットは、河川船の図面へ大きな線を引いた。


「これを長くしただけでは、海の船にならん」


 波を受ける船体。


 燃料を積む場所。


 塩水を釜へ混ぜない復水器。


 外輪が波で浮いたり沈んだりしたとき、機関へかかる負荷。


 帆を残すか。


 外輪とは別の推進装置を試すか。


 大学の壁には、終わらない図面が並んだ。


 空一郎が知る未来は、答えを示すことができた。


 だが、ここで作るための時間までは、消せなかった。


     


 鉄道への出資を求める会議の日、あの代理人が再び来た。


 以前より上等な上着を着ていた。


「路線沿いの土地を、先に確保しました」


 彼は地図を広げた。


 黎明の計画よりも前から買い集められた土地が、いくつもあった。


「将来、お役に立てるでしょう」


 ラグエルは地図を読んだ。


「線路を通さなければ、どうする」


「別の事業に使います」


 返事は滑らかだった。


 黎明は、その男の手元を見た。


 石炭を掘る前から、石炭を運ぶ道が買われている。


 道を作る者と、道が通るのを待つ者。


 同じ未来を見ていても、欲しいものは違った。


 会議が終わったあと、空一郎が息子へ尋ねた。


「疲れた?」


「少し」


 黎明は、買われた土地の印を見たまま答えた。


「父さん。僕たちが豊かになるほど、守るものが増えると思っていました」


「うん」


「欲しがる人も、増えるんですね」


 空一郎は、すぐには答えなかった。


 窓の外で、試験車の汽笛が鳴った。


 新しい道の始まりを知らせる、まだ細い音だった。


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