第三十三章 蒸気船進水式と、炭層の奥
船を川へ下ろした日、外輪はまだ回さなかった。
ゼペットは船底の水を確かめ、荷を積む位置を変え、岸から船の傾きを見た。
ロットが加減弁へ手を伸ばすと、老人は杖で甲板を叩いた。
「浮くことと、走ることは、別だ」
「浮いてるだろ」
「今はな」
その一言で、ロットは手を引いた。
正式な試航は、三日後だった。
小型船が先に出る。
中型船は、そのあとに続く。
中型船の甲板には、左右の機関へ指示を送る札と鈴があった。黎明が操船台から命じ、ロットとエミルが、それぞれの機関の状態を返す。
フランは外輪と伝動軸を見回った。
「水位よし」
「圧、規定の範囲」
「冷却水、流れてる」
ゼペットが綱を見た。
「岸の者、離れろ」
黎明は、両側へゆっくり前進の札を出した。
機関の音が変わった。
歯車が噛み合い、外輪の羽根が順に水へ入る。
最初は水面が乱れるだけだった。
やがて岸の杭が、後ろへ動いた。
黎明は、息を吐いた。
船が、自分の力で進んでいた。
広い淀みで、左右の回転を変えた。
片方を弱めると、船首がそちらへ寄る。
片方を止めれば、さらに大きく曲がる。
両側をいったん止め、右を前進、左を後進にすると、船は狭い範囲で向きを変え始めた。
「回るぞ!」
ロットの声が響いた。
しかし、風と流れに押され、船は回りながら横へ移動した。
黎明は岸を見た。
「両側、止める!」
ゼペットが頷いた。
「今のうちに覚えろ。水は、地面ではない」
船の動きが収まるまで、思ったより長かった。
便利な仕組みと、止まる距離。
両方を身体で覚える必要があった。
北へ向かう航海は、試験を重ねた翌月に決まった。
目的地は、既存の炭鉱よりさらに上流にある露頭だった。
石炭そのものは、すでに領内で使われている。
今回は、船で運び出せる新しい採掘場所を確かめる。
衛星の記録が示したのは、地形と、地表へ現れた層の手掛かりだった。地下の石炭の厚さまで、見通せるわけではない。
現地で採った試料を調べ、試掘してから判断する。
後ろには、浅い喫水の艀を二隻つないだ。
最初から満載にするつもりはなかった。曳き綱を急に張れば、綱も船尾の金具も傷む。
出発前、エミルは積荷の表へ、義体の重さを入れた。
「叔母さんは、荷じゃない」
黎明が言った。
《重量としては、同じ表に入る》
CHUYUは甲板の中央へ立った。
《私が移動したときの傾きも、確かめて》
ゼペットは満足そうに頷いた。
「話の分かるお嬢さんだ」
上流へ進むにつれ、川幅が狭くなった。
流れが速い場所では、機関の音が変わらなくても、岸の景色がほとんど動かない。
外輪の前に、枝が引っかかった。
フランが長い鉤で外した。
復水器の冷却水の取り入れ口にも、ごみが集まる。
エミルは、温度が上がる前に網を掃除した。
「もっと速く、もっと遠くへ、だったな」
黎明が言うと、ロットは汗を拭った。
「今日は、止まらず着けばいい」
CHUYUの声が、甲板へ響いた。
《左岸の岩場を越えて、二キロほど。接岸予定地点の水深は、最後に測り直す必要がある》
空一郎は前方を見た。
帰還装置の座標を、何度も確かめたころとは違う。
今は、竿を持った船員が、川底へ触れて深さを読む。
どちらも、見えない場所へ進む仕事だった。
接岸では、外輪を止めただけで船は止まらなかった。
流れを受ける向きへ船首を保ち、短く動力を使い、岸へ綱を渡す。
船員が杭を打った。
最後に、艀の綱の張り方を確かめた。
「橋板は、まだだ」
ゼペットが言う。
船が落ち着いてから、幅のある板を渡した。
CHUYUは板を見て、別の位置へ向かった。
「どこへ?」
黎明が尋ねた。
《私には、補強した板を使う》
彼女の一歩で、太い板が少し沈んだ。
フランは、それを確かめてから肩の力を抜いた。
昼食には、船で焼いたパンが出た。
機関用の釜で焼いたのではない。煙道の余熱を利用する、小さな窯を別に作ってあった。
ただし、火の入り方は機関の運転に左右される。
エミルは焦げた端を切り落とした。
「釜焚きが張り切ると、パンまで張り切る」
ロットは黒い部分を取った。
「ここが、うまい」
「お前は、何でもそう言う」
フランが笑った。
黎明は温かなパンを割った。
川の向こうに、来た道が見えた。
自分たちで作った船で、自分たちの機関を動かし、ここまで来た。
それを口にすると、ロットは黙って頷いた。
いつもの大きな言葉が出なかった。
試掘の三日目、坑夫が煤で黒くなった手を上げた。
「石じゃない」
掘り進んだ壁の奥に、平らな面があった。
煤を払うと、同じ幅の石が積まれている。
自然の割れ目ではない。
現場監督は、道具を下ろさせた。
支保を増やし、周囲の石を少しずつ除く。
やがて、半分埋まった入口が現れた。
「古い坑道か?」
ロットが言った。
同行していた坑夫の一人が首を振った。
ドワーフと呼ばれる亜種の男で、名をドルンといった。背は低かったが、誰よりも先に天井のずれへ気づく。
「鉱石を出すには、狭い。水を通した穴なら、あり得る」
彼は入口の石へ手を置いた。
「ただ、ここは古い話がある。山の下へ降りて、戻らなかった者の話だ」
フランが黎明を見た。
「いわゆる、ダンジョンか」
空一郎は暗い入口を覗いた。
「そう呼ぶ人は、いるだろうね」
「父さんは?」
「まだ、古い建物の入口だと思ってる」
無人機を先に入れた。
映像には、狭い通路と、下へ降りる階段が映った。
途中から通信が弱くなる。
飛行機体を無理に進めず、小さな有線の探査機へ替えた。
空気を調べる。
水の深さを測る。
天井のひびを記録する。
その準備を見ていたロットは、落ち着かない様子だった。
「宝箱があるなら、先に見つけた奴が――」
「開ける前に、呼ぶ」
空一郎が言った。
「毒でもあるのか」
「中身が腐っていても、石が崩れても困る。古いものは、触っただけで壊れることもある」
ロットは腰の道具を確かめた。
「宝探しも、面倒なんだな」
《面倒を省くと、探す人が減る》
CHUYUが答えた。
中へ入ったのは、空一郎、黎明、CHUYU、ドルンと、支保を扱う坑夫だった。
ベイルは入口に残った。
狭い通路へ人数を押し込むより、帰り道と外の連絡を守る。
彼は黎明へ、小さな紐を渡した。
「灯りがあっても、戻る道を見失うことはある」
黎明は紐を結び、壁へ印をつけながら進んだ。
CHUYUの足音が、前で響く。
かつての彼女は、暗い場所へ入った黎明に話しかけることはできても、先を歩くことはできなかった。
今は、照明を胸元へ固定し、片手で壁を確かめている。
その背中が、妙に頼もしかった。
階段の下には、水の跡があった。
石壁の中央に刻まれた溝が、奥の部屋へ続いている。
ドルンは床を叩いた。
「下に空間がある」
CHUYUが義体の膝を曲げ、確認の器具を当てた。
《床の一部が薄い。中央を避けて》
壁沿いに進むと、丸い部屋へ出た。
天井から伸びる金属の棒。
欠けた石の輪。
その周囲に、人の手の大きさほどの印が並んでいる。
黎明が一つへ近づいた。
指先の皮膚が、わずかに粟立った。
「父さん」
空一郎が振り向いた。
「変な感じがする」
CHUYUが計測値を呼び出した。
光も、熱も、大きな変化はない。
しかし、黎明が壁から離れると感覚が薄れ、近づくと戻った。
「術を習うときに、似てる」
黎明は言った。
空一郎は印へ触れず、写真を撮った。
「君に反応している可能性はある。でも、まだ使い方は分からない」
石の輪の一部が、かすかに鳴った。
誰も動かなかった。
次の瞬間、奥の隙間から冷たい風が吹いた。
風は、まっすぐには吹かなかった。
灯りの紐が上へ持ち上がり、床に落ちていた砂が円を描く。
CHUYUは足を広げた。
《入口へ戻って》
黎明が一歩を引いたとき、足元の石が沈んだ。
音がした。
床の端が、下へ抜けた。
身体が傾く。
義体の腕が、彼の胴をつかんだ。
背中へ硬い胸が当たった。
CHUYUの片足が滑り、もう一方が壁際へ踏み込む。
黎明の靴の下で、石が暗闇へ落ちていった。
しばらくして、水音がした。
「……ちゅゆ」
《つかまって。首ではなく、肩へ》
黎明は言われたとおりに腕を回した。
CHUYUは彼を持ち上げ、安全な床へ戻した。
右手の指が、不自然な角度に曲がっていた。
壁の金具へつかまったとき、負荷が集中したのだった。
「壊れた」
《指の駆動部だけ。あなたは?》
「大丈夫」
《痛む場所は》
「ない」
《もう一度、ゆっくり確認して》
空一郎が横へ来た。
息子の顔を見てから、義体の手を見た。
「戻ろう」
黎明は、輪のある部屋を振り返った。
何かを見つけた。
何かは、分からない。
その違いを忘れたら、今度は戻れないかもしれなかった。
入口へ戻ると、ベイルは黎明の袖をつかんだ。
「歩けるか」
「うん」
「では、座れ」
彼は逆らわず座った。
ミーナが用意した救護袋から、坑夫が布と水を出した。
膝に小さな擦り傷があった。
黎明は、その傷よりも、CHUYUの曲がった指を見ていた。
「痛い?」
《人が感じる痛みとは違う。でも、損傷を知らせる信号はある》
「怖くなかった?」
CHUYUは、少し間を置いた。
《判断を急ぐ必要はあった》
「僕は、怖かった」
《うん》
義体が隣へ座った。
壊れていない方の手が、彼の肩へ触れた。
今度は、つかまえるためではなかった。
遺跡の奥には、その日は戻らなかった。
入口を守り、別の採掘線を引いた。
坑夫たちは不満を言った。良い炭層へ届いたところだった。
出資者の代理人も、工期が延びれば利益が減ると訴えた。
黎明は現場の帳簿へ、遺跡を残す範囲と、失われる採掘量を書かせた。
「調査のために止める。その費用も、隠さない」
代理人は紙を読んだ。
「価値のあるものが、見つかるのですか」
「まだ分かりません」
「分からないものに、石炭より高い値をつける?」
黎明は、暗い入口を見た。
「値をつける前に、壊さず調べる時間が欲しいのです」
相手は、それ以上言わなかった。
納得した顔ではなかった。
帰りの船には、試験用の石炭を積んだ。
新しい炭は、これまでのものよりよく燃えた。
しかし、火床には固い塊が残り、空気の通りを塞いだ。
ロットは棒で砕こうとして、エミルに止められた。
「火格子まで傷める」
「燃えるなら、全部同じだと思った」
「俺も」
二人は炉を覗いた。
石炭の名前だけでは、釜の扱いは決まらない。
火床の厚さ。
空気の量。
灰を落とす間隔。
次の機関に必要な改良が、もう見えていた。
艀は重くなった。
下流の流れに助けられても、止めるには距離が要る。
黎明は、行きより早く指示を出した。
CHUYUは、右手を固定したまま隣に立っていた。
遺跡から持ち帰ったのは、宝石でも武器でもなかった。
崩れた場所の近くに落ちていた、文字を刻んだ薄い金属片。
触れる位置によって感覚の変わる、欠けた石の一部。
それから、測定と映像の記録だった。
空一郎は石を見つめた。
この世界の術が、自然に備わったものなのか。
誰かが遠い昔に、その使い方を整えたのか。
その問いには、まだ答えがなかった。
黎明は父の手元を覗いた。
「帰る道と、関係ある?」
空一郎は首を振った。
「今は、何も言えない」
「でも、調べる?」
「調べる」
その返事を聞き、黎明は頷いた。
帰着した夜、ミーナは黎明の膝を見た。
「擦り傷だけ、という報告でした」
「その通りだよ」
「床が抜けた、という話は?」
黎明は黙った。
CHUYUが扉のところで、壊れた手を上げた。
《私の修理記録に、残っている》
「叔母さん」
《記録を消さないように、教わっているでしょう》
ミーナは黎明へ向き直った。
怒っているのが分かった。
目の端が、少し赤かった。
「帰ってきてくれて、よかった」
それだけ言った。
黎明は彼女を抱いた。
細い背中へ腕を回すと、ようやく、足元が抜けた瞬間の怖さが戻ってきた。
「怖かった」
「はい」
「助けてもらった」
「はい」
ミーナは、彼の背へ手を置いた。
しばらくして、黎明の肩越しに言った。
「CHUYUさんも、ありがとうございます」
《修理用の予算を、お願いします》
黎明は笑った。
ミーナも、涙を拭いながら笑った。
大学では、船の試験記録をもとに、次の計画が始まった。
鉱山では、採掘権と運搬の契約が作り直された。
蒸気船があれば、これまで運べなかった量を運べる。
運べるなら、掘る場所が増える。
掘る場所が増えれば、土地と権利へ金が集まる。
ラグエルは、新しい契約の写しを並べた。
「この出資者は、前にも見た」
黎明が顔を上げた。
公爵の指は、一つの家の名に置かれていた。
フレイデンの通行料をめぐる交渉にも、別の商会を通して関わっていた名だった。
「同じ者ですか」
「同じ金かどうかは、まだ分からん」
老人は、二枚の紙を重ねた。
「だが、道を押さえられなかった者が、道を動かす燃料へ出資することはある」
窓の外から、川を上る船の汽笛が聞こえた。
黎明は契約書を引き寄せた。
船を作った仲間たちは、もっと遠くへ行きたいと言った。
その船が運ぶ富を、別の誰かも待っていた。




