第三十一章 悪童たちの発明 蒸気と、歩く叔母
大学の応用技術棟には、開校の翌月から貼り紙が増えた。
工具を借りた者は、戻すこと。
回る軸へ、袖を近づけないこと。
釜へ火を入れる前に、水位を確かめること。
最後の一枚だけ、字が大きかった。
――安全弁を、重くするな。
「誰が書いた」
ロットが尋ねた。
「お前が、重りを足したからだ」
エミルが答えた。
「力を出したかったんだよ」
「釜が先に、空へ出るところだった」
フランが横から言った。
三人は、黎明と同じ街で育った。
ロットは鍛冶屋の息子。
フランは木工職人の弟子。
エミルは、捨てられた金具から使える部品を見つけるのが上手かった。
学校の塀を乗り越え、工房の裏で余った材料を探し、黎明へ妙な玩具を持ってきた少年たちは、今や大学の技術棟に自分の作業台を持っていた。
ただし、入学の初日に誇った手先の器用さは、算術の授業では役に立たなかった。
「この記号は、何だ」
ロットが紙を指した。
「掛ける、だ」
ティオが答えた。
「その横は」
「割る」
「なんで、言葉で書かねえ」
「毎回書くより、短いから」
「俺には、読めない時間が長い」
ティオは笑い、鉄の棒を机へ置いた。
「では、これを三本買う場合から始めよう」
ロットは、ようやく椅子を引き寄せた。
蒸気の仕事は、すでに北の坑道で始まっていた。
大きな釜から蒸気を送り、筒の中で冷やす。
できた低い圧力の空間へ向けて、大気がピストンを押す。
揺れる梁が、長い棒を上下させ、坑道の水を汲み上げる。
その機械は役に立ったが、動きは遅く、石炭をよく食った。
筒を温めては冷やすので、次に入る蒸気まで水へ戻ってしまう。
「水を汲むだけなら、これでいい」
ロットは模型の梁を押した。
「でも、工房の軸を回したい。ずっと、同じ向きに」
そのとき、隣の小さな湯沸かしの蓋が跳ねた。
彼は蓋を指で押さえ、すぐに熱さで手を引いた。
「こいつは、勝手に押すくせにな」
エミルが顔を上げた。
「押す力と、戻す力を、交互に使えば?」
「戻すのは、重りか」
「弾み車に覚えさせる」
「車は、物を覚えねえだろ」
「止まりにくくする、という意味だ」
フランが、丸い板を転がした。
板は床の継ぎ目を越え、壁まで進んだ。
三人は、それを見た。
空一郎が最初に見せたのは、完成した未来の機関ではなかった。
熱の流れを書いた図だった。
「ここで温めて、ここで冷やしている。毎回、筒まで冷やす必要があるかな」
エミルは、二つの場所を指でつないだ。
「蒸気だけ、別の容器へ逃がす」
「その容器を冷やすなら、筒は熱いままにできる?」
フランが尋ねた。
「試せると思う」
ロットは腕を組んだ。
「容器を増やしたら、漏れる場所も増えるぞ」
「そこが、お前の仕事だ」
エミルが言う。
「簡単に言うな」
「難しいから、頼んでる」
ロットは少しだけ機嫌を直した。
復水器を別に置いた試作機は、最初の三日間、まともに動かなかった。
管の継ぎ目から空気を吸った。
弁が閉まりきらなかった。
ピストンの詰め物が、熱で傷んだ。
フランは筒の内面へ薄く煤をつけ、ピストンを通した。擦れて消えた場所を見つけ、そこだけを削った。
ロットは長い中ぐり棒を両端で支え、筒の中心をずらさず削る治具を作った。
エミルは、水と燃料の量を毎日量った。
動いた日にも、動かなかった日にも、帳簿は埋まった。
「その大きな輪は、何をしている」
見学に来た黎明が尋ねた。
ロットはフライホイールを押した。
「ピストンが押さない間も、軸を回す。クランクがまっすぐ並ぶ場所で、止まらないようにな」
「止まったら?」
「蒸気を止めて、圧が抜けたのを確かめてから、人が位置を変える」
黎明は、輪の近くに立てられた柵を見た。
「僕が、少し押してみても――」
「駄目だ」
三人の声が揃った。
彼は両手を上げた。
「分かった」
試験では、軸へ革帯を巻いた制動装置で負荷をかけた。
重りと腕の長さから、軸がどれほどの力で回しているかを調べる。
帯はすぐ熱くなるので、水をかけ、短い時間で測定した。
「空回りなら、いくらでも元気だ」
エミルが言った。
「仕事をさせて、どれだけ持つかだ」
回転は遅くなった。
しかし、止まらなかった。
ロットの顔から、ふざけた笑いが消えた。
彼は軸を見つめた。
自分の打った鉄が、同じ場所へ何度も戻ってくる。
そのたびに、違う仕事をする力を渡していた。
その冬、技術棟の隣の倉庫へ、もう一つの試験設備が運ばれた。
白い布を外すと、人の形が現れた。
黎明は、最初に顔を見た。
「……ちゅゆ叔母さん?」
《まだ、こちらを見ているだけでは分からない?》
声が、その人の口元から聞こえた。
肩ほどの髪。
人の肌に似た顔。
しかし、衣服から出た手首には金属の継ぎ目があり、指の内側には滑り止めの細かな溝があった。
顔は、父が保管している写真の宙結に似ていた。
まったく同じではなかった。
「もっと、本人に似せられたの?」
黎明が尋ねると、空一郎は頷いた。
「でも、これは宙結が戻ってきた身体ではない」
《私が使う身体。顔については、私も選んだ》
CHUYUが付け加えた。
黎明は近づいた。
「触っても?」
《手を、出して》
掌が重なった。
温かかった。
人と同じ温度になるよう、表面の加熱を調整しているのだと、彼女は説明した。
黎明は、その説明を聞きながら手を離せなかった。
声だけの叔母が、目の前に立っていた。
義体の主要部品は、空一郎が保管していた遠隔作業用の機材だった。
細かな制御装置と電動の関節は、現地の工房ではまだ作れない。壊れれば交換できる部品にも、数の限りがある。
外側の装甲や靴底、取っ手、工具の固定具は、ロットたちが作った。
電源は有限だった。
倉庫へ戻れば充電できたが、遠くへ出るなら予備の電源と、使用時間の計算が必要になる。
《私は、走り続けるための身体ではない》
CHUYUは、最初の歩行試験でそう言った。
次の瞬間、床に置かれた角材へ足を引っかけた。
ロットが受け止めようとした。
「うおっ、重――」
《支えないで。離れて》
義体は片膝をつき、床へ手を置いた。
木の板が、低く軋んだ。
黎明は駆け寄りかけ、止まった。
「大丈夫?」
《関節は正常。床については、相談が必要》
フランが、すでに床下を覗いていた。
護衛として義体を使いたいと言ったのは、空一郎だった。
黎明が役所や工房へ出る機会は増えている。
人の護衛はついていたが、落下する荷や機械の異常へ、誰より早く気づける者が必要だった。
ベイルは、義体の前をゆっくり歩いた。
獣人の護衛長は年を取っていた。しかし、足を置く音は、なお小さかった。
「剣を避けられるか」
《条件による》
「風の術は」
《まだ、測定できていない作用が多い》
「良い返事だ」
ベイルは、小さく掌を返した。
風が床の砂を巻き上げた。
義体の足元が滑り、上体が傾く。
CHUYUは一歩を広く置き、姿勢を戻した。
《空気の流れだけでは、直前の変化を説明できない》
「だから、見えるものだけを頼るな」
ベイルが言った。
「君が前を見ているときは、私が横を見る」
CHUYUは彼へ顔を向けた。
《では、そうしよう》
黎明には、そのやり取りが心強かった。
父の科学と、この世界の護衛が、同じ側で立っていた。
「ずっと、僕についてくるの?」
帰り道、黎明は尋ねた。
《毎日ではない。義体の整備も要るし、私には別の仕事もある》
「僕専用じゃないんだ」
《あなた専用の叔母、という契約はしていない》
彼は笑った。
「危なくなったら?」
《助ける。ただし、あなたが命じたからといって、他人を傷つけるわけではない》
黎明は、十六歳のあの夜を思い出した。
目的を言わず、機体を出そうとした自分。
「分かってる」
《分かっているかどうかは、その都度、聞く》
義体は、隣で歩いた。
少し不揃いな足音が、二つになった。




