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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第三十章 黎明の改革  医療と教育の礎



 医療院の最初の議題は、薬でも、治療法でもなかった。


 裏庭の便所を、どこへ移すかだった。


「井戸から離せばいいのでしょう?」


 役人が言うと、ミーナは机の上へ土地の見取り図を広げた。


「離すだけでは足りません。雨の日に、どちらへ水が流れるかも見てください」


「そこまで調べるのですか」


「先週、井戸の水が濁りました。隣の家の子も、その隣の子も、お腹を壊しています」


 黎明は、彼女が指した細い線を見た。


 屋根から落ちた雨水が、裏庭を横切り、井戸の縁へ集まる。


 建物を買ったとき、彼は部屋の数と街道への近さを確かめた。裏庭の傾斜までは見ていなかった。


「便所を移す。井戸の周りを高くして、排水溝をつけよう」


「工房へ頼む前に、土地の持ち主へ説明してください」


 ミーナが言った。


「溝の先は、隣の庭です」


 黎明は、伸ばしかけた手を止めた。


「……また、人が図面から抜けていた」


「図面には描けますよ。話を聞けば」


 彼女は、空いている場所へ隣家の名前を書いた。


     


 フレイデンの騒動から、三年が過ぎていた。


 黎明は十九歳になっていた。


 あの日の死傷者の記録は、まだ彼の書斎にあった。救護所へ運ばれた者のうち、傷そのものよりも、その後の発熱で亡くなった者がいた。


 命を救う仕事は、戦いが終わっても続く。


 それを、彼は報告書の最後の数行で知った。


 ナグナリエに設けられた小さな診療所には、従軍経験のある衛生兵、薬草に詳しい修道士、町で出産を手伝ってきた女性たちが集まった。


 最初から、互いのやり方を認め合えたわけではない。


「その草は、熱のある者へ昔から使っている」


「量は?」


 ミーナが尋ねた。


「ひとつかみだ」


「誰の手で、ひとつかみですか」


 老人は、自分の大きな掌を見た。


 向かいに座る少女の手は、その半分ほどだった。


「……秤が要るな」


「はい。それから、効かなかった場合も書きます」


 卓上の端末で、CHUYUが記録の項目を整えた。


 患者の名。


 症状。


 与えたものと、その量。


 翌日の状態。


 未来の薬理学を、そのまま薬草の名前へ置き換えることはできなかった。似た葉を持つ植物が、同じ成分を含むとは限らない。


 空一郎は、採集された標本へ番号をつけた。


「知っているつもりで使うのが、一番危ない」


「父さんの機械でも、全部は分からない?」


 黎明が尋ねる。


「成分を調べる助けにはなる。でも、人へどう働くかは、別に確かめなければならない」


 未来の知識は、答えの棚ではなかった。


 何を疑い、どう調べるかを教える道具だった。


     


 診療所の水場には、足で板を踏むと水が出る仕掛けがついた。


 手を洗ったあと、汚れた栓へ触らずに済む。


 作ったのは、鍛冶屋の息子ロットと、木工職人の弟子フランだった。


「どうだ。これなら、肘でも鼻でも開けなくていい」


 ロットが得意そうに言った。


 ミーナは板を踏んだ。


 水が勢いよく飛び、彼の前掛けを濡らした。


「……少し、強いですね」


「そこは、改良する」


 フランが笑いながら、弁の開く幅を狭めた。


 街角に貼る衛生の絵は、文字を読めない人にも伝わるようにした。


 飲む水と、洗った水を分ける。


 傷へ汚れた布を巻かない。


 便所のあと、食べ物を扱う前に手を洗う。


 ただし、煮沸を勧めるだけでは、薪を買えない家に届かなかった。


 黎明は共同の湯沸かし場を試した。


 燃料代を帳簿へ入れると、役人が眉をひそめた。


「診療所の支出に、薪まで含めるのですか」


「この薪で、患者が減るかもしれない」


「減った患者の数は、どう数えます」


 黎明は返事に詰まった。


 そこでミーナが、街区ごとの記録を置いた。


「まず、始める前と後を比べます。季節もありますから、すぐに成功とは言いません」


 役人は紙を引き寄せた。


 話は、ようやく予算の相談になった。


     


 医療会議の設置を提案したとき、黎明はミーナを実務の長にしたいと言った。


 最初に異議を唱えたのは、ミーナ自身だった。


「私に、治療のすべてを決めさせるのですか」


「そういう意味では――」


「皆には、そう聞こえます」


 彼女は、まっすぐ彼を見た。


「薬のことなら、私より詳しい方がいます。難しい出産を何十件も見てきた方も。私が得意なのは、必要なものを揃えて、人の話をつなぐことです」


 黎明は椅子へ座り直した。


 守ろうとしていたつもりだった。


 しかし、自分の信頼だけで彼女を高い椅子へ押し上げれば、その椅子から降りる自由まで奪いかねなかった。


「運営をまとめる役なら?」


「引き受けたいです。ただし、私の仕事も、ほかの人と同じように確かめてください」


 会議体の長はアリステリアが務めた。


 名を貸すだけではなかった。助産師と修道院、貴族の出資者の間を回り、誰が何を負担するかを交渉した。


 治療の判断は経験ある担当者が受け持ち、薬の調製には別の確認者を置いた。ミーナは物資、勤務、患者の受付と記録をまとめた。


 それでも、陰口は残った。


「柊の若君に気に入られれば、平民の娘でも上へ行ける」


 廊下で聞いた黎明は、振り返りかけた。


 ミーナが袖をつかんだ。


「今、私の代わりに怒らないで」


「でも」


「私が働いた記録を、見てもらいます」


 彼女の手は、冷えていた。


 平気だから言ったのではないと、黎明には分かった。


     


 その夜、診療所の裏口で、二人はしばらく並んで立っていた。


 ミーナが髪をほどくと、結い目の下に赤い跡があった。


「痛くない?」


「夕方になると、少し」


 黎明は指を伸ばしかけた。


「触っても?」


 彼女は、小さく頷いた。


 髪の間へ指を入れると、ミーナの肩が緩んだ。


「君を、僕の仕事に巻き込んだかな」


「巻き込まれた部分はあります」


 彼は手を止めた。


「でも、ここへ来たのは、私が決めました」


 彼女は振り向いた。


「あなたに会うためだけではありません」


「うん」


「それでも、会えるのは嬉しいです」


 黎明は彼女へ口づけた。


 短く離れるつもりだったのに、ミーナの指が上着をつかんだ。


 もう一度、近づいた。


 裏口の向こうで、桶の落ちる音がした。


 二人は同時に離れた。


「……水場も、直してもらわないと」


 ミーナが言った。


 黎明は、まだ少し息の整わないまま頷いた。


    


 診療所が医療院へ変わるまでには、さらに数年を要した。


 外来と病室を分け、産婦が休める部屋を増やした。薬を保管する場所には鍵をつけ、調べものをする小さな部屋も設けた。


 町の人は、いつしかそこを「ミーナ病院」と呼び始めた。


「正式な名前は、違います」


 彼女が訂正すると、患者の老人は笑った。


「俺が道を聞くときは、その名で通じる」


 そのころ、黎明には次の問題が見えていた。


 建物は増やせる。


 働く人は、建物ほど早く増やせない。


 医療院の講習、工房の算術教室、役人のための読み書きと法の勉強。


 別々に始まったそれらを、つなぐ場所が必要だった。


 大学という名を、空一郎が口にした。


     


「私を、初代理事長に?」


 ラグエルは、渡された案を読んだ。


「資金と土地の交渉をお願いしたいのです」


 黎明が答えた。


「名誉の椅子かと思ったが、ずいぶん仕事が多い」


「嫌なら、別の方に」


「そこまで言っておいて、老人を降ろすのか」


 公爵は笑い、次の紙をめくった。


 笑顔が消えた。


「寄付した家の子を、優先して入れる条項がある」


「出資者からの要望です」


「金で席を買えるなら、学ぶ場所ではなく、家柄を並べる部屋になる」


 その条項は、削られた。


 代わりに、読み書きから始める準備課程と、働きながら通える夜の授業が加わった。


     


 ティオは、開校準備の帳簿を何度も作り直した。


 教師を招く。


 教室を割り当てる。


 石炭を買う。


 体調の悪い日には家から記録を確認し、教室では別の担当者が彼の代わりを務めた。


 数年の実務を経たのち、初代学長の話が出た。


「僕が、一番学問に詳しいわけじゃない」


 ティオは言った。


「学問に詳しい人たちが、ここで働けるようにしてほしい」


 黎明が答えた。


「君は、僕の計画にも反対してくれる」


「それを理由に選ぶなら、毎日後悔するぞ」


「もう、何度もしてる」


 二人は笑った。


 ティオは窓の外を見た。


 教室へ向かう者の中には、貴族の子も、作業着の職人もいた。


「引き受ける。ただし、教師を選ぶとき、君の友人だからという理由は使わない」


「分かった」


「ミーナの病院へ送る人も、きちんと学ばせる。名前だけの資格は出さない」


 黎明は頷いた。


 それは、彼が望んだ以上に厳しい返事だった。


 だからこそ、任せられると思った。


 大学の最初の鐘は、工房で鋳られた。


 音が少し濁っていた。


 ロットは、次はもっと良いものを作ると言った。


 ラグエルは、今の鐘を残せと言った。


「始めた日の音は、一つしかない」


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