第26章 父・空一郎の「遺言」
「僕が説明できる間は、説明する」
父の答えを聞いて、黎明は机の上のノートを見た。
紺色の表紙は擦れ、背には補修の跡があった。
「そのあとは?」
空一郎は、息子の問いを聞き返さなかった。
少し考えてから、ノートを開いた。
「説明するための記録を残す。それから、僕とは違う答えを出せる人を育てる」
「違っても、いいの?」
「根拠があるなら」
父は、一つの頁を示した。
黎明が習っている日本語で、短い文が書かれている。
――再現された人が、私は違うと言ったら、その言葉を聞くこと。
「誰が書いたの?」
「祖父だ。ただ、言ったのは祖母らしい」
黎明は文字を追った。
「父さんの祖母じゃなくて、祖父の奥さん?」
「そう。僕の祖母、アヤ」
写真では見たことがある。
しかし、父が幼いころから会えなかった人の話をするときは、いつも少し声が変わった。
空一郎は、事故と転送計画の記録を呼び出した。
黎明は、父が遠い世界から来たことを知っていた。
ただ、地図の外から来たのではなく、地図そのものが違う場所から来たということは、まだ十分には理解していなかった。
「僕は、過去へ行くつもりだった」
父が言った。
「同じ世界の、祖父が若かった時代へ。事故を防ぐための記録と、こちらへ戻る装置の設計を渡す」
「でも、ここへ来た」
「途中で経路が変わった。原因は、まだ全部は分かっていない」
画面には、途中で二つに分かれた線があった。
片方には目的地がある。
もう片方は、座標を確定できないまま終わっていた。
「母さんに会ったのは、計画に入っていなかった?」
黎明が尋ねた。
「入っていなかった」
父は、妻を見た。
アリステリアは、息子へ頷いた。
「でも、結婚したのは、私たちが決めたことです」
黎明は画面と、母を交互に見た。
生まれる前の出来事が、少しずつ一つにつながっていった。
「僕が、ここで生まれるはずだったわけじゃないんだ」
息子の言葉に、空一郎は手を止めた。
「そういう言い方なら、そうかもしれない」
アリステリアが、黎明の肩へ手を置いた。
「でも、生まれてはいけなかったという意味ではありません」
「分かってる」
黎明は答えた。
少しして、付け加えた。
「……たぶん」
母は、急いで理解させようとはしなかった。
空一郎は転送記録を閉じた。
「僕たちは、先のことを全部知って決めたわけじゃない。君が生まれたあとも、分からないことばかりだった」
「父さんでも?」
「今も、そうだ」
黎明は、父の顔を見た。
知らないことがあるという返事は、以前なら心細かった。
今夜は、嘘をつかれていないと思えた。
卓上の表示が切り替わった。
保管設備の管理。
計算装置の維持。
緊急時の権限。
そして、空一郎自身が応答できなくなった場合の手順。
黎明は最後の項目を見た。
「これが、遺言?」
「その一部になる」
空一郎は答えた。
「今すぐ死ぬつもりではない。でも、何も決めないまま突然いなくなれば、困る人が多い」
「頭の中の道具も?」
「身体につながる部分は、専門に学んだ人が扱う。君が取り出そうとする必要はない」
父は、画面の一行を指した。
「CHUYUの記録や研究資料は、頭の中だけに置いていない。僕に何かあっても、外の装置で続けられるようにしている」
黎明は端末へ顔を向けた。
「ちゅゆ叔母さんは、残る?」
《電源と装置を維持できれば、動作を続けられる》
「ずっと?」
《ずっと、と約束するには、分からないことが多い》
黎明は唇を結んだ。
父も、CHUYUも、消えないものだと思っていた。
今夜は、どちらにも手入れと時間が必要なのだと聞かされていた。
「何を、守ってほしいの?」
黎明が尋ねた。
空一郎は、保管された機械の一覧を閉じた。
次に、鉱山の記録と、工房の帳簿を開いた。
「道具だけじゃない」
彼は言った。
「坑道で働く人。水路を使う畑。学校へ来る子。僕たちの仕事は、そういう人たちの暮らしへ入り込んでいる」
「全部、僕が?」
「一人では無理だ」
「でも、皆、僕が継ぐと言う」
父は頷いた。
「君の姓が柊だから、任せたいと思う人がいる。僕も、その一人だ」
そこで、声を少し落とした。
「だからこそ、僕の願いと、君が引き受ける仕事を、同じものにしたくない」
黎明は、母から渡された紙を見た。
「僕が、引き受けたくないと言ったら?」
「管理を任せる別の人を探す」
「この道具を、持てなくなる?」
「仕事に必要なものは、仕事をする人が使う。家族だから全部持てる、という決まりにはしたくない」
黎明は黙った。
公平だと思う。
それでも、自分が特別ではなくなるようで、少し寂しかった。
空一郎は、紙へ短い文を三つ書いた。
働く者の記録を消さないこと。
争いを終わらせる道を、始める前に考えること。
研究の記録を、都合の悪い結果まで残すこと。
「今日は、この三つを覚えておいてほしい」
「全部、父さんができてる?」
黎明が尋ねると、空一郎は少し笑った。
「できていないから、書いている部分もある」
アリステリアが続けた。
「私たちが破ったら、指摘してください」
「怒らない?」
「怒るかもしれません」
母は正直に言った。
「でも、怒ったから、あなたが間違っているとは限りません」
黎明は紙を折った。
机の上の端末より、その紙の方が、今夜は重く感じられた。
最後に、父は別の保存項目を開いた。
帰還研究。
送信した音声。
家族の写真。
黎明自身の誕生を報告した記録もあった。
再生すると、若い父の声が聞こえた。
『生まれた。男の子。名前は、黎明』
そのあとに、自分の泣き声があった。
「向こうから、返事は?」
黎明が尋ねた。
「まだ、ない」
父は答えた。
「それでも、この記録は残してほしい。いつか届く方法が見つかるかもしれない」
「僕が、見つけないといけない?」
「そういう義務にはしない」
空一郎は、画面へ眼を戻した。
「ただ、方法が見つかったら、伝えてほしい。僕が、ここで家族を作ったことを」
黎明は、自分の声が入った記録を見た。
会ったことのない祖父母と、父の兄たちと、叔母。
遠いという言葉では、足りないほど遠い家族だった。
「残す」
彼は言った。
「それは、残すよ」
書斎を出ると、庭からティオの声が聞こえた。
ミーナも、まだ待っていた。
黎明は、手の中の紙を自室へ置いた。
《Bible》の閲覧権限は増えていたが、危険な装備の操作権限は渡されていない。
今夜、父から受け取ったのは、力のすべてではなかった。
力のあるものが、何に囲まれて動いているかを学ぶ入口だった。
庭へ出ると、ミーナが尋ねた。
「大事な話だった?」
「うん」
「疲れた顔をしてる」
黎明は少し考えた。
「父さんの知らないことが、思ったより多かった」
ティオが笑った。
「それなら、俺たちが考えることも、多いんだろうな」
黎明は、友人の顔を見た。
その返事が、うれしかった。




