第23章 親友ティオとその妹
黎明がティオと親しくなったのは、助けたことがきっかけではなかった。
最初は、算術の答えを間違えたことだった。
ナグナリエの初等教室で、黎明は黒板へ数字を書いた。
荷車一台に積める石炭の量と、必要な台数を求める問題だった。計算は合っていたはずなのに、後ろの席で小さな声がした。
「それだと、最後の荷車が川を渡れない」
黎明は振り返った。
細い肩の少年が、教科書の図を指していた。
「橋の重さの制限。右下に書いてある」
見落としていた。
教師が頷いた。
「ティオの言うとおりです。運べる量だけでなく、通る道も確かめましょう」
黎明は答えを消した。
席へ戻ってから、少年へ尋ねた。
「先に言ってくれればよかったのに」
「途中で言ったら、怒るかと思って」
「間違えたままの方が、嫌だ」
ティオは、少し考えた。
「じゃあ、次は途中で言う」
それが、二人の最初の約束だった。
ティオは、走るのが速くなかった。
長く走ると咳が出た。冬には何日も学校を休むことがあり、戻ってくると、欠けた授業を一人で読み直していた。
しかし、地図と数字には強かった。
川が増水したとき、どの道を使えばよいか。
市場の秤が、どちらへ傾いているか。
大人が読み上げる帳簿の数字が、前の数字と合うか。
黎明が気づく前に、ティオは何かを見つけていた。
それが気に入らない者もいた。
学校帰り、橋の脇で、三人の少年がティオの鞄を取り上げていた。
「取りに来いよ」
一人が言った。
鞄が、欄干の外へ突き出される。
ティオは手を伸ばしかけ、足を止めた。
黎明が近づくと、少年たちは彼を見た。
「返して」
「遊んでいるだけだ」
「本人は、遊んでいない」
相手は笑った。
「お前が来れば、何でも済むと思ってるのか。公爵様の孫なら――」
黎明は一歩前へ出た。
拳に力が入る。
トマを殴った日のことを思い出した。
そのとき、ティオが言った。
「殴るなよ」
黎明が彼を見る。
「鞄が、落ちる」
欄干の向こうには川があった。
黎明は、握った手を開いた。
「返して。先生と、君の家の人にも、今のことを話す」
「告げ口か」
「そう。ここで殴るより、いい」
しばらく睨み合ったあと、鞄が放られた。
黎明は受け止めた。
少年たちが去ってから、ティオへ渡す。
「ありがとう」
「家まで、持とうか」
「持てる」
ティオは鞄を抱えた。
黎明は、その返事を聞いて、手を引っ込めた。
「今日は、うちへ来ない?」
ティオが言った。
「母さんが、パンを焼いてる」
「行っていいの?」
「昨日、聞いた。来ていいって」
家は、工房街の裏にあった。
狭い道に洗濯物が掛かり、入口には、補修した跡のある木の扉が付いていた。
中へ入ると、石鹸と、焼けたパンの匂いがした。
部屋は小さかったが、机の上は片づけられていた。窓際には、鉢に植えた草が幾つか並んでいる。
少女が、その鉢へ水をやっていた。
栗色の髪を一つに結び、袖を折っている。
「妹のミーナ。お前より一つ下」
ティオが言った。
少女は水差しを置いた。
「知ってる。学校で見た」
黎明は、少し慌てた。
「僕も、見たことはある」
「いつも、走ってる」
「……そんなに?」
ミーナは頷いた。
ティオが笑った。
「だから、妹は、お前の顔より背中を覚えてる」
パンは、四つに切られていた。
ティオの母は工房へ品を届けに出るところで、黎明へ挨拶をしたあと、子どもたちに留守を頼んだ。
ミーナは皿を出し、同じ大きさのものを一つずつ置いた。
「これは、母さんの」
残した一つに布を掛ける。
黎明は、食べる前に尋ねた。
「僕の分も、いいの?」
「来るって、言ってあったから」
ティオが答えた。
それ以上、遠慮するのも変な気がして、黎明は食べた。
外側は少し硬く、中は温かかった。
「おいしい」
ミーナが顔を上げた。
「焦げたところ、あるけど」
「そこも、好き」
「じゃあ、次は端を残しておく」
何でもない返事だった。
それなのに、次に来ることを、彼女が当たり前のように話したのが、うれしかった。
机には、学校の本があった。
ミーナは、薬草の挿絵を開いていた。
「これ、何の本?」
「救護所で借りた」
「治療者になりたいの?」
「まだ、分からない。でも、植物の名前は覚えたい」
黎明は窓際の鉢を見た。
「全部、薬になる?」
「ならない。これは、料理に入れる。こっちは、匂いが好きだから」
彼は、一つの葉へ触れようとした。
「それ、触った手で目をこすらないで」
すぐに手を止めた。
ミーナは笑った。
「知らないで触るの、黎明もするんだね」
「父さんには、よく怒られる」
「私も」
ティオが本をのぞき込んだ。
「その頁、もう読めた?」
「ここだけ、分からない」
ミーナが一行を指す。
ティオが読もうとすると、咳が出た。
黎明は水を持ってきた。
その間に、ミーナは自分で文字を追った。
兄が助ける。
妹が待つ。
今度は、妹が兄の背中へ手を置く。
黎明は、二人を見ていた。
きょうだいがいる暮らしを、初めて近くで見た気がした。
それから、黎明はティオの家へ通うようになった。
算術を教えてもらう。
借りた本を返す。
市場で見たものを話す。
理由は、幾つもあった。
ただ、ミーナが留守の日には、少し残念に思った。
そのことを、ティオには言わなかった。
ある日、菓子を持っていくと、ミーナは包みを見て眉を上げた。
「これ、高いでしょう」
「そんなに――」
「市場で見た」
嘘はつけなかった。
黎明が黙ると、彼女は一つを取り、残りを包み直した。
「皆で食べよう。次は、何もなくても来ていいよ」
黎明は頷いた。
家へ帰る道で、その言葉を何度も思い出した。
菓子が喜ばれたことより、次も来ていいと言われたことの方が、うれしかった。
空一郎が息子の変化に気づいたのは、衛星映像からではなかった。
黎明が、出かける前に鏡を見るようになったからだった。
襟を直す。
靴の泥を落とす。
忘れ物を確かめる。
以前なら、扉を開けながら全部やっていた。
「最近、丁寧だな」
空一郎が言うと、息子は振り返った。
「悪い?」
「いや。いいことだ」
「じゃあ、言わなくていい」
黎明は出ていった。
空一郎は廊下で少し笑った。
《気になる?》
CHUYUが尋ねた。
「気になる」
《本人が話したら、聞こう》
「どこへ行ったかだけでも――」
《出かけるとき、ティオの家へ行くと言っていた》
「そうだった」
空一郎は端末を開きかけ、閉じた。
道具があれば、確かめられることは多い。
だからといって、確かめてよいことが増えるわけではなかった。
その晩、アリステリアは夕食を少し残した。
「気分が悪い?」
空一郎が尋ねる。
「朝から、少し。診てもらいました」
彼は箸に似た食具を置いた。
「何て?」
彼女が、静かに笑った。
「また、子どもを迎えるかもしれません」
黎明が顔を上げた。
「弟?」
「まだ、分からない」
「妹?」
「それも、まだ」
彼は両親を交互に見た。
「本当に?」
アリステリアは頷いた。
「経過を見ながら、確かめていきます」
黎明は、しばらく黙った。
それから言った。
「僕、うるさくしない」
空一郎が笑いかけると、息子は真面目な顔をした。
「今は、笑わないで」
父は笑いを止めた。
「分かった」
黎明は母へ尋ねた。
「何か、できる?」
「今日は、水を持ってきてもらえますか」
彼はすぐに立った。
弟か、妹か。
まだ分からない。
それでも、自分が兄になることだけは、少しずつ実感になり始めた。




