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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第19章 民の名のもとに


 新しい協約に署名する朝、ラグエルは、用意された椅子の数を確かめていた。

「三つ、増えているな」

 書記が答えた。

「都市と、商人組合と、工房の代表です」

「昨日まで、控えの間で待たせる話ではなかったか」

 空一郎が、書類から顔を上げた。

「負担する費用を決めるのに、払う人を外へ置くのは、不自然だと思いました」

「各国の使節は、同じようには思わんだろう」

「先に伝えました。発言する議題も、決めてあります」

 ラグエルは、椅子へ手を置いた。

 領主と、王の代理と、諸国の使節。

 その列に、爵位を持たない者が座る。

 たった三脚だった。

 それでも、今日の会議で最も目立つ変化になるだろう。

「座らせた以上、話させろ」

 当主は言った。

「飾りなら、次から来なくなる」

     

 署名される文書は、『西リゼアス協約』と呼ばれることになった。

 ラグエリア公爵領と、その属する王国。リュグノス公国、エルベリン王国、クラリス公国。

 国も、君主も、境界も、そのまま残る。

 しかし、街道を共同で管理し、通行料の扱いを定め、商取引の争いを調べる窓口を置く。

 河川の上流と下流が、別々の都合だけで水を使わないよう、協議の場を作る。

 すべての関税がなくなるわけではない。

 争いが消えるわけでもない。

 それでも、兵を出す前に、同じ机へ戻る理由ができる。

 空一郎は、文書の最初の頁を見ていた。

 

――本協約は、参加する諸邦の住民の生活と交易を保全するために結ばれる。


領主の名ではなく、住民の暮らしから始める一文だった。

「私の領地の住民まで、あなたが語るのか」

 クラリスの使節が言った。

 空一郎は顔を上げた。

「私が代わりに話すのではありません。影響を受ける人の話を、聞けるようにしたいのです」

「誰を代表として認める?」

「それも、今日から決める必要があります」

 使節は鼻で息をついた。

「決まっていないものを、始めるのか」

 空一郎は頷いた。

「決まるまで始めなければ、今のままです」

     

 最初の反対は、貴族からではなく、商人の代表から出た。

「共同の検査所へ払う費用が、高すぎます」

 書記が数字を読み直した。

 商人は、荷の量が違うのに同じ額を払うのは不公平だと訴えた。

 工房の代表は、重量だけで決めると、鉄を扱う者ばかり負担が増えると言った。

 都市の代表は、門を通る荷だけでなく、周辺の道を使う荷も数えるべきだと主張した。

 会議は、すぐには進まなくなった。

 ラグエルが空一郎へ顔を向けた。

「君が増やした椅子だ」

「はい」

「静かには、ならんな」

「そのようです」

 二人は小さく笑った。

 結局、費用の一部は暫定額とし、半年分の記録を集めて見直すことになった。

 誰も、完全には満足しなかった。

 それでも、何を記録し、いつ話し直すかは決まった。

 空一郎は、その点を議事録へ残した。

     

 協約が結ばれても、ラグエリアの街の問題は続いた。

 ナグナリエは、公爵領の工房と市場が集まる街だった。

 新しい水路と橋へ人が集まり、空き家が減り、家賃が上がった。仕事を探す者は増えたが、誰もがすぐに働けるわけではない。

 空一郎は、倉庫を借りて開いた教室を訪ねた。

 子どもだけでなく、大人も座っていた。

 黒板の前で、教師が同じ数字を何度も書く。

「名前を書ければ、賃金の受け取りを自分で確かめられます」

 教師が言った。

 年配の男が、筆記具を握り直した。

「俺の名前は、長い」

「では、今日は最初の二文字だけ」

 空一郎は、後ろの席で、そのやり取りを聞いていた。

 識字率の正確な数は、まだ分からない。

 工房の調査では、契約書を一人で読める者は少なかった。だからといって、知恵がないわけではない。畑や炉や荷の扱いなら、空一郎より詳しい者が大勢いた。

 必要なのは、その知識を持つ者が、帳簿と契約の前でも黙らされないことだった。

     

「子どもを学校へ来させる規則を作ればよい」

 会議で、一人の役人が言った。

 アリステリアが尋ねた。

「畑を手伝っている子は?」

「親を説得します」

「仕事を休ませた分の食事は、誰が用意しますか」

 役人は黙った。

 空一郎は、学校の計画を見た。

 教師を育てる必要がある。

 教える部屋も、本も、筆記具も要る。

 来なさいと命じるだけでは、学校はできない。

 まず、街ごとに初等教室を置いた。

 農繁期には時間を変える。食事を用意する。子どもの働きに頼る家には、別の支援を組み合わせる。

 教材はCHUYUと整理したが、言葉遣いは現地の教師に確かめてもらった。

 印刷所では、同じ頁を何枚も刷った。

 文字が潰れ、紙が破れ、修正が続いた。

 グランハルトは、版を押さえる部品を作りながら言った。

「君の未来では、これも簡単か」

「もっと速い機械があります」

「では、今日は遅い機械を、まともに動かそう」

     

 賃金を巡る話し合いも、難しかった。

 工房には仕事が増えていた。

 しかし、見習いは長時間働いても、食事だけで済まされることがあった。

「技術を教えている」

 親方が言う。

「仕事も、している」

 見習いが答える。

 空一郎は、その両方を聞いた。

 柊の印を使う工房から、支払いを記録する規則を始めた。仕事の種類と時間を確かめ、食事や宿代がどこまで差し引かれるのかを明記する。

 公共工事の契約にも、最低限の条件を入れた。

 領内すべてへ、同じ規則を一度に押しつけることはできなかった。

 それでも、ある若い職人が、自分で書いた名を受取簿へ残した。

 空一郎は、その筆跡を見た。

 学校で覚えた文字だった。

     

 帰宅した夜、アリステリアは、椅子へ腰を下ろしていた。

 机の上に、読み終えた報告書がある。

「今日は、少し休めた?」

 空一郎が尋ねると、彼女は腹へ手を置いた。

「この子は、よく動きました」

 彼も隣へ座った。

 彼女が、その手を導く。

 掌の下で、小さな動きがあった。

「……今の?」

「はい」

 もう一度、待った。

 何も起きない。

 空一郎は、指を動かさずに座っていた。

 アリステリアが笑った。

「呼んでも、すぐには答えてくれませんね」

「僕の子だからかな」

「私の子でもあります」

 彼は頷いた。

 机の向こうには、協約の写しがある。

 世界を変えるつもりで書いた文書より、今は、掌の

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