第15章 新たなる風と、静かなる敵意
ラグエリアという名を、空一郎が最初に意識したのは、荷車に押された焼印を見たときだった。
ヴァレンタイン家の紋章の下に、その文字があった。
「領地の名です」
アリステリアが教えた。
「王都の屋敷も、こちらの商館も、同じ印を使います。遠くでは、家の名より、土地の名の方が知られていることもあります」
空一郎は荷車を見送った。
水路ができ、街道が直され、工房の品が外へ運ばれる。
その一つ一つに、名前が付いて出ていく。
自分が作っているのは、設備だけではなかった。
ラグエリアという土地に対する、他人の期待でもあった。
リゼアス大陸の地図は、まだ一枚にはまとまっていなかった。
商人の地図には、宿と市場が詳しい。
兵の地図には、峠と渡河点が詳しい。
聖堂の記録には、古い地名と、すでに失われた道が残っている。
空一郎は、それらを観測記録と重ねていた。
衛星一号が通る時刻は限られる。雲が厚ければ、地表は見えない。地上から集まる報告にも、数日から数週間の遅れがある。
CHUYUは、その違いを消さずに表示した。
《この街道の記録は、十二日前。川の映像は、昨日》
「同じ地図に載せると、同時に見ている気になるな」
《だから、時刻を残している》
空一郎は画面を拡大した。
リュグノス公国とエルベリン王国を結ぶ道に、荷車が増えていた。
「軍の補給?」
《候補の一つ。市場の開催、収穫物の輸送、街道の迂回も考えられる》
「旗は読めるか」
《解像度が足りない。補正しても、記録されていない文字は復元できない》
彼は、拡大しすぎてぼやけた画像を戻した。
「商館へ照会を出そう。荷の中身と、値段の動きを知りたい」
空から見えるものと、人に聞かなければ分からないもの。
その境目を覚えるほど、地図は役に立つようになった。
街道の整備が進むと、ラグエリアへ来る人も増えた。
職人。
季節の労働者。
商人。
そして、故郷へ戻るつもりのない家族。
新しく設けた窓口には、朝から人が並んだ。
空一郎は、その列の脇で、書記が説明するのを聞いていた。
「仕事の紹介はできます。ただし、住む場所は、今すぐには――」
「子どもが三人います」
女が言った。
後ろに、小さな子どもたちが立っている。
空一郎は、建物の空きが記された帳面を開いた。
足りなかった。
街へ人を呼び込むことと、その人たちが暮らせることは、同じではない。
「工房の宿舎を増やす」
彼が言うと、隣の役人が尋ねた。
「費用は、どこから?」
空一郎は黙った。
Noös Pouchから物を出せば、今いる人を助けられる。
しかし、来月も、来年も、同じ方法を続けるわけにはいかなかった。
「工房の収益と、街道の収入を見直そう。まず、今いる人の数を確かめたい」
アリステリアが女へ近づいた。
子どもたちの名前を聞き、今夜泊まる場所を探す。
彼女は、その場を離れる前に、空一郎へ言った。
「将来の予算と、今夜の寝床は、両方要りますね」
彼は頷いた。
税を減らす議論は、予想より長くなった。
「通行税をなくせば、荷は増える」
商人が言った。
「道を直す金は、どこから出す」
領地の会計官が返した。
「荷が増えれば、市場の収入も増える」
「増えるまで、待てるかどうかの話だ」
空一郎は、机へ数字を並べた。
「全部はなくさない。同じ荷に、何度も掛けている分を整理したい」
商人が眉を寄せた。
「減免だけでは?」
「橋と道の維持費は残す。ただし、何に使ったかを出す」
今度は会計官が困った顔をした。
収入を守りたい者も、費用を払いたくない者も、説明を求められることには慣れていなかった。
ギルドの見直しも、一度には進まなかった。
新しい職人を締め出す規則は改める。
品質を確かめる仕事は残す。
値段をそろえるための圧力と、安全を守るための基準を分ける。
会議のあと、グランハルトが言った。
「古い決まりを全部捨てれば、粗悪な品を売る奴まで自由になるぞ」
「だから、検査は残します」
「検査する奴が、買われたら?」
空一郎は、議事録へ新しい項目を書き足した。
改革には、終わりの見えるところと、見えないところがあった。
夜警を再編した市民警邏隊にも、同じ問題があった。
商人や貴族に雇われた用心棒が、市場の争いを力で片づける。
それを止めるための組織が、今度は別の力になってしまう。
「隊員が、住民から金を取ったら?」
アリステリアが尋ねた。
「調べる」
「誰が?」
空一郎は、案を見直した。
苦情を受ける窓口は、隊の指揮官から離した。
拘束した理由を記録させた。
人数と給与を決め、罰金が隊員の取り分になる仕組みをやめた。
すぐに清潔で安全な街になったわけではない。
それでも、水を巡る争いの仲裁に、剣ではなく帳面を持って来る者が増えた。
空一郎は、その変化を気に入っていた。
数日後、ラグエルの書斎へ三通の書簡が届いた。
リュグノス公国。
エルベリン王国。
クラリス公国。
それぞれ文面は違ったが、訴えは似ていた。
住民の流出。
職人の引き抜き。
交易路の変更による収入の減少。
ラグエルは三通を並べた。
「君の仕事が、国境を越えた」
「設備は、越えていません」
「設備の影響だ」
空一郎は書簡を読んだ。
ラグエリアで起きたことを、隣国の領主たちも見ている。
ただし、同じものを見ているわけではない。
希望を見る者もいる。
失った税を見る者もいる。
奪われたと思う者もいる。
「会いましょう」
彼が言うと、ラグエルは頷いた。
「会う。ただし、私の領地の話だけでは済まない。王へも報告する」
空一郎は、そこで初めて、この土地の繁栄が、宮廷にとっても無条件の喜びではないと気づいた。




