第11章 帝国の萌芽と、不穏の兆し
水門が初めて予定どおりに動いた日、空一郎は、泥の付いた靴のまま堤に立っていた。
ノルド川から引かれた水が、ゆっくりと分水路へ流れていく。
水門は、見た目には大きな木と鉄の構造物だった。巻き上げ機と釣り合い重りを備え、水位に応じて開閉する。測定装置と制御器の一部は空一郎が持ち込んだものだが、故障すれば人の手でも動かせるように作ってあった。
CHUYUが、耳元で報告した。
《下流の水位、予測範囲内。第二水路への流入を確認》
「よし」
隣では、現地の管理人が目盛りを読んでいた。
「こちらでも、合っています」
空一郎は、その返事を聞いてから頷いた。
自分の端末だけが分かっていても、設備は長く使えない。
管理人は帳面に数値を書き、次の者へ渡した。水門を動かすための合図も、以前から土地で使われていたものに合わせた。
「あなたの道具がなくなっても、同じように動かせますか」
アリステリアが尋ねた。
「細かい予測は難しくなる。でも、水位を読んで動かすことはできる」
「では、その練習も必要ですね」
「来週、制御器を使わない日を作る」
彼女は頷いた。
堤の下で、農民たちが水の流れを見ていた。
一人の老人が言った。
「今年は、上の畑にも届きそうだ」
空一郎は笑った。
飢饉がなくなったわけではない。
雨が降らなければ川も減る。種が悪ければ、水だけでは育たない。
それでも、毎年乾いていた一枚の畑へ、水が届く。
今は、その変化を確かめればよかった。
水路の完成は、商人たちの関心も集めた。
穀物が安定して取れるなら、倉庫を増やせる。
街道が通れるなら、荷車を増やせる。
橋の通行料が決まっているなら、運ぶ費用を見積もれる。
ラグエルの書斎へ、以前より多くの提案が届くようになった。
その中に、隣国クラリス公国からの使者の訪問を求める書簡があった。
「交易の話ですか」
空一郎が尋ねた。
「表向きは」
ラグエルは封印を机へ置いた。
「彼らは、古い帝国の再建を唱えている」
「今の王国を、まとめる?」
「王国も、公国も、ほかの小国もだ。街道の関税を減らし、貨幣と軍をそろえると言う」
「商人には、魅力がありそうですね」
「そうだ。だから、空想と片づけられん」
ラグエルは、壁の地図を指した。
現在の国境とは別に、薄い線が幾つも残っている。
「昔、この範囲を一つの皇帝が治めた。だが、同じ法の下にいたからといって、同じ扱いを受けていたわけではない」
「誰が皇帝になるんですか」
「そこは、使者に聞こう」
空一郎は地図へ近づいた。
道をつなぐことと、国を一つにすること。
似ているようで、違う仕事だった。
クラリス公国の使者は、交易の話から始めた。
石炭の買い付け。
鍛造品の輸入。
街道の共同整備。
それから、空一郎へ視線を向けた。
「あなたの技術を、諸国のために用いていただきたい」
「どのように?」
「公国へ工房を置いていただく。研究のための費用は、こちらが負担します」
ラグエルは黙って聞いていた。
「こちらの工房とは、どういう関係になりますか」
「協力できるものは、協力する。ただ、重要な技術には、保護が必要です」
「保護というのは」
「公爵の管理下に置く、という意味です」
空一郎は、少し間を置いた。
「研究費を受け取れば、成果も渡すことになる」
「当然でしょう」
「では、先に、何を渡すのか決める必要があります」
使者は微笑んだ。
「あなたは、学者である以上に、商人に向いているかもしれません」
空一郎は笑わなかった。
故郷へ帰る装置を作るためなら、資金は欲しい。
けれど、その代わりに、この世界の誰かを従わせる道具を作ることになるかもしれない。
帰還の願いと、技術の使い道を、別々には考えられなくなっていた。
数日後、グランハルトが折れた金属片を持ってきた。
空一郎は、それを手に取った。
見覚えのある部品だった。
しかし、自分たちの工房で作ったものではない。
「どこで?」
「国境の商人が持っていた。クラリスから来た荷に混じっていたそうだ」
形は似ている。
寸法も、ある程度はそろっている。
内部の加工には無理があり、割れた部分に欠陥が見えた。
「図面が、出たのかもしれない」
空一郎が言うと、老職人は首を振った。
「買った品を、ばらしたのかもしれん。うちを出た職人が、作ったのかもしれん。決める前に、確かめろ」
「分かっています」
「その顔では、分かっておらん」
空一郎は部品を机へ置いた。
工房の者を疑えば、仕事は止まる。
疑わなければ、技術は流れる。
CHUYUが、記録を呼び出した。
《図面の閲覧履歴と、製品の出荷記録を比較できる。ただし、それだけで人物を特定することはできない》
「比較して。人の名前を出す前に、経路を調べよう」
グランハルトは、その返事には頷いた。
「作れるように教えたんだ。君の思う場所だけで作るとは、限らんぞ」
空一郎は、金属片を見た。
言われてみれば、当然だった。
技術を広げたい。
しかし、自分の望まない相手には渡したくない。
その二つを、どこまで両立できるのか。
まだ答えはなかった。
その夜、アリステリアは夕食をあまり食べなかった。
「疲れた?」
空一郎が尋ねた。
「少し。今日は、匂いが気になって」
「別のものを頼もうか」
「あとで、軽いものを」
彼女は杯を置いた。
何かを言おうとして、一度、彼の顔を見た。
「ソラ。話があります」
空一郎は端末を閉じた。
「うん」
「子どもが、できたようです」
彼は動かなかった。
言葉を聞き違えたのではないかと思い、もう一度、彼女の顔を見た。
「……僕たちの?」
アリステリアは、驚いた顔をしてから笑った。
「ほかに、どなたの子を想像されたのです」
「いや。そうじゃなくて」
空一郎は立ち上がりかけ、座り直した。
「大丈夫? 身体は」
「今のところは。ただ、しばらく無理をしないようにと言われました」
「何をすればいい」
「まず、そんなに慌てないでください」
彼女が手を差し出した。
空一郎は、その手を両手で包んだ。
うれしさが遅れて来た。
そのあとに、怖さも来た。
自分一人の帰還計画ではなくなった。
アリステリアと、この子の暮らす場所を、同時に考えなければならない。
「うれしい」
彼は、ようやく言った。
「とても」
彼女は、ほっとしたように息を吐いた。
「私もです」
空一郎は彼女の隣へ座った。
今夜は、地図を開かなかった。




