第10章 誓いと嵐の門出
襲撃のあと、アリステリアは負傷者のいる建物へ通った。
空一郎も、修理と試験の合間に、そこへ行った。
いつも二人きりになれるわけではなかった。
水を運ぶ。
包帯を替える。
家族から届いた手紙を読む。
その仕事の途中で、短く言葉を交わした。
「今日は、工房に?」
「はい。職人に叱られました」
「何をしたのです」
「簡単に作れる、と言いました」
「それは、叱られますね」
彼女は、洗った布を絞った。
「簡単なら、もう作られています」
空一郎は笑った。
「君まで、同じことを言う」
「グランハルトは、昔からそう言います。私も覚えました」
彼女は、父の娘として館にいるだけではなかった。
人の名前を知り、何が足りないかを知り、断られたときに誰へ話せばよいかを知っていた。
空一郎の道具には、そうした情報がまだなかった。
ある夜、二人はバルコニーへ出た。
アリステリアは、隣に立つ彼へ尋ねた。
「帰るための研究は、進んでいますか」
「少し。進んでいない部分の方が、多いけど」
「私にできることは?」
「今は、分からない」
彼は答えてから、言い直した。
「材料を集める場所や、話を聞ける人を教えてもらっている。それは、助かってる」
アリステリアは頷いた。
街の灯が、下に見えた。
「帰れるようになったら、行かれますね」
空一郎は、彼女を見た。
「家族がいるから」
「はい」
「でも――」
その先を、簡単に言えなかった。
帰らない約束はできない。
連れていく約束も、まだできない。
アリステリアは、彼の迷いを待った。
「君に会わずに出ていくことは、したくない」
彼女は、少し笑った。
「それは、約束していただきたいです」
「約束する」
空一郎は、欄干へ置かれた彼女の手へ触れた。
アリステリアは手を引かなかった。
*
ラグエルが婚姻について話したのは、それからしばらく後だった。
「君を、当家に迎えたい」
空一郎は、当主の顔を見た。
「役職の話ですか」
「娘との婚姻だ」
彼は黙った。
ラグエルは続けた。
「この館にいるだけでは、君の立場は弱い。王都で君を取り込もうとする者も増えている。私の家族になれば、守れることがある」
「私の技術も、ヴァレンタイン家のものになる」
ラグエルは否定しなかった。
「そう考える者は、いるだろう」
「アリステリアは、知っていますか」
「知っている。だが、返事は本人から聞いてくれ」
空一郎は、少し肩の力を抜いた。
「私は、帰還の研究をやめません」
「承知している」
「そのために、ここを離れる日が来るかもしれない」
「それも、娘と話すことだ」
ラグエルは書簡を脇へ置いた。
「父としては、穏やかな相手を選んでほしかった」
「今からでも――」
「君に、それを言わせるつもりはない」
空一郎は口を閉じた。
当主は、疲れたように少し笑った。
「私は、娘の選択に、家の利益を重ねようとしている。それが全部だとは、思わないでくれ」
*
アリステリアとは、音楽室で話した。
クラヴィーナの蓋は閉じていた。
「お父様から、聞かれましたね」
「うん」
空一郎は、向かいの椅子へ座った。
「君は、どう思ってる」
「あなたと暮らしたいと思っています」
彼女は、はっきり答えた。
空一郎は、一度眼を伏せた。
うれしかった。
そのうれしさを、帰れない不安の埋め合わせにしてはいけないとも思った。
「僕は、まだ故郷へ帰りたい」
「知っています」
「それを隠して、君に結婚してほしいとは言えない」
「隠さずに、言ってください」
彼は顔を上げた。
アリステリアは、膝の上で両手を重ねていた。
「ここに残ることだけが、私を選ぶことではないでしょう。あなたが何を大切にしているかを知って、それでも、一緒に暮らしたいと言っているのです」
「先のことを、保証できない」
「私も、できません」
彼女は、少し息を吸った。
「家のことも、この国のことも、明日どうなるか分からない。それでも、明日の話を一緒にする相手は、選べます」
空一郎は立ち上がり、彼女の前へ来た。
「結婚してほしい」
アリステリアの表情が、ようやく緩んだ。
「はい」
彼は、差し出された手を握った。
装具を外した、自分の手だった。
*
婚礼は、王都レグラントの礼拝堂で行われた。
ラグエルは、王都に公爵家の屋敷を持ち、領地と宮廷を行き来していた。空一郎がこの街へ来たのは、婚礼の準備が始まってからだった。
館の周辺とは違い、人も、荷も、多かった。
華やかな通りの裏には、雨水のたまる路地があり、商人の店の横では、水を求める人々が列を作っていた。
その街を、婚礼の鐘が渡っていった。
礼拝堂には、祝福する者と、見極めようとする者が集まった。
空一郎は、知らない作法を何度も練習していた。
それでも、アリステリアが入ってきたとき、次に何をするのか、一瞬忘れた。
《立つところだよ》
CHUYUが静かに言った。
彼は立った。
アリステリアが、気づいたように笑った。
神官が誓いを読み上げた。
空一郎は、その言葉を聞き、自分の言葉で答えた。
「この人に、誠実であることを誓います。困難なときに、黙って一人で決めず、話し合うことを」
神官は、定められた返答とは違う言葉に、少し間を置いた。
アリステリアも答えた。
「私も、同じことを誓います」
後方で、誰かが小さく囁いた。
異国の男。
家柄のない男。
空一郎にも、一部は聞こえた。
彼は動じないふりをしたが、すべてを聞き流せたわけではなかった。
アリステリアの手が、彼の手を握った。
その感触を、覚えておこうと思った。
*
婚礼のあと、空一郎は公爵家の技術顧問として、正式な役目を与えられた。
軍の将官でも、王族でもなかった。
命令できる範囲は限られ、工事には領主と関係者の承認が必要だった。
最初に手を付けたのは、水だった。
レグラントへ流れ込むノルド川の水位を測り、井戸の位置と、汚水が流れる場所を調べる。
調査には、現地の職人と、水売りと、住民が加わった。
「川の水を引けば、井戸を掘るより早い」
空一郎が言うと、水売りの男が尋ねた。
「その水は、誰が売るんです」
「売らなくても、共同で使える場所を――」
「では、俺たちは、どう食うんです」
空一郎は言葉を止めた。
便利なものを作れば、全員が喜ぶと思っていたわけではない。
それでも、目の前で仕事を失う人の顔は、図面には描いていなかった。
アリステリアが尋ねた。
「水路や貯水槽の管理には、人が要るのではありませんか」
「要る」
「運ぶ仕事を知る方に、まず相談しては」
空一郎は、男へ向き直った。
「水を運ぶ道と、足りなくなる場所を、教えてもらえますか」
男は、すぐには頷かなかった。
翌日、もう一度話した。
計画は、そのあとで描き直された。
*
農地では、小さな試験区画から始めた。
水路を直す。
作物を替える。
同じ条件の畑を残し、収穫を比較する。
最初の年に、収量が倍になることはなかった。
むしろ、新しい作物を植えた一部の畑では、結果が悪かった。
「土が違う」
農民の一人が言った。
「こっちの畑は、水が抜けんのです」
空一郎は土を調べ、記録を見直した。
《Bible》には、故郷の農業知識が大量にある。
しかし、目の前の土と、雨と、作物は、故郷の資料どおりではなかった。
「教えてください」
彼は言った。
「ここで、何を育ててきたのか」
その言葉を聞いてから、農民たちは少しずつ話すようになった。
*
風車を建てると、粉を挽く仕事が変わった。
水路を整えると、下流の領主から抗議が来た。
工具の規格をそろえようとすると、ギルドが反対した。
新しい橋の計画には、多額の資金が必要だった。
ラグエルは、机へ帳簿を広げた。
「便利なものほど、最初に金が要る」
「運ぶ費用が下がれば、後で回収できます」
「後まで、貸し手が待つかどうかだ」
空一郎は、橋の図面を見た。
「通行料を取るなら、上限を決めたいです」
「誰が、上限を守らせる」
「契約に書く」
「契約を守らせるのは、人だ」
ラグエルは、書記を呼んだ。
「君の道具が見ている数字を、この者たちにも分かる形にしてくれ。君が病に倒れても、仕事が続くように」
空一郎は頷いた。
家族が彼へ渡した技術を、この世界の人が使える形へ変える。
それは、道具を取り出すより、ずっと時間のかかる仕事だった。
*
一年近くたったころ、政務の机には、報告書が積まれるようになっていた。
CHUYUは観測値と帳簿を照合し、不自然な数字を拾った。
《アルグレイ領の資材費に差がある。市場価格だけでは、説明できない》
空一郎は報告書を開いた。
「横領か」
《まだ分からない。輸送費、損失、記載方法の違いも候補にある》
彼は書記へ言った。
「支出の内訳を、もう一度出してもらってください。現地の担当者にも、説明を聞きたい」
隣で、アリステリアが別の報告を読んでいた。
「水路の開通を急いでほしいそうです」
「雨季までに終わらせたい」
「工夫が必要ですね。人を増やすと、今度は畑に人が足りなくなります」
空一郎は端末を閉じた。
「現地で、日程を決めよう」
彼女は頷いた。
CHUYUが計算する。
書記が記録する。
職人が実際に作る。
住民が使い、困ったことを伝える。
空一郎一人の仕事ではなくなっていた。
*
その夜、彼はまだ机に向かっていた。
アリステリアが扉から顔を出した。
「今日も、橋ですか」
「今日は、水路」
「明日は?」
「橋に戻るかもしれない」
彼女は机の前まで来た。
「では、今夜は、私の番にしてください」
空一郎は笑い、端末を閉じた。
「そうする」
寝室へ戻る途中、彼女が尋ねた。
「故郷への通信は?」
「今日も、返事はない」
「そうですか」
彼女は彼の手を握った。
何も言わずに、少しだけ強く。
「寂しい?」
彼が尋ねた。
「あなたが、寂しいのを見ていると、私も」
空一郎は立ち止まった。
「君がいても、家族を思い出す」
「ええ」
「それは、君といるのが足りないからじゃない」
「分かっています」
アリステリアは彼を見上げた。
「私を、故郷の代わりにしなくていいのです」
彼は、彼女を抱き寄せた。
腕の中に、温かい身体がある。
遠くにいる家族と、今ここにいる妻。
片方を大切にするために、もう片方を忘れる必要はなかった。
「明日も、一緒に暮らしたい」
彼が言うと、彼女は顔を上げた。
「では、明日の朝は、朝食に遅れないで」
「努力する」
「約束にしてください」
「……約束する」
*
翌朝、空一郎が約束を守って食堂へ入ると、グランハルトが待っていた。
老職人の靴には、黒い泥が付いていた。
「食べてからでいい」
そう言いながら、彼は布包みを机へ置いた。
中には、黒い石があった。
「北の坑道で出た。鍛冶場の火に入れると、木より長く燃える。煙はひどいがな」
空一郎は、石を手に取った。
CHUYUへ分析を頼む。
結果を待つ間、彼は黒い表面を見ていた。
幼いころ、祖父の書斎へ持ち込んだ石を思い出した。
あのとき、世界は石の向こうへ広がった。
今度は、誰がこの石を掘るのだろう。
誰が運び、誰が買い、誰が土地を持つのだろう。
グランハルトが続けた。
「ただ、坑道の権利が厄介だ。ヘルマンス家が、自分たちのものだと言っている」
空一郎は顔を上げた。
アリステリアも、食事の手を止めた。
端末に、分析結果が現れた。
石炭に相当する、可燃性の堆積岩。
空一郎は黒い石を、静かに机へ置いた。
「まず、坑道を見たい」
彼が言うと、グランハルトは頷いた。
「そう言うと思った」
窓の外では、朝の荷車が通り始めていた。
その車輪の先に、次の争いと、まだ誰も知らない産業が待っていた。




