第119章 傘を二本
「孫」
アヤは、その言葉を繰り返した。
陸一郎は頷いた。
隣に立つ善一が、何か言おうとして口を開いた。
だが、先にアヤが尋ねた。
「みさをは、元気ですか」
陸一郎の目に、涙が浮かんだ。
装置のことでも、時間のことでもなかった。
彼女が最初に知りたかったのは、娘のことだった。
「元気です」
陸一郎は答えた。
「僕たちの母です。よく叱られました」
「何をしたんですか」
「いろいろ」
アヤは、少し笑った。
「それなら、元気なのでしょうね」
その笑顔を見て、陸一郎は初めて、自分のしたことを実感した。
この人は、今日、家へ帰る。
未来から来た者の話を聞く場所として、搬入路は落ち着かなかった。
善一が空いた会議室を借りた。
実験は中止され、装置の電源系統は切り離されていた。事故資料の確認には、別の研究者にも加わってもらうことになった。
アヤはその手配を確かめてから、陸一郎の向かいへ座った。
義体はポッドから運び出せなかった。
通信機を通じて、声だけが会議室へ届く。
陸一郎は、三兄弟の写真を机へ置いた。
善一が手を伸ばした。
「これが、みさをの」
「長男の陸一郎。僕です。次が海一郎。末が、空一郎」
アヤは三人の顔を順に見た。
指先が、泥のついた頬の前で止まった。
「この子は、何をしたの?」
陸一郎は、排水溝の話をした。
アヤが笑った。
善一は笑いかけ、そのあと、陸一郎の顔を見た。
まだ伝えていないことがあると、気づいたらしかった。
空一郎の話は、急がなかった。
祖父の研究。
戻らなかった祖母。
家族の中に残った、言葉にしきれない悲しみ。
その子が大人になり、過去へ向かおうとしたこと。
行き先を外れ、違う世界へ着いたこと。
善一は途中で、椅子から立ち上がった。
窓へ歩き、背を向けた。
アヤはその背を見たが、呼び止めなかった。
陸一郎は、話を止めた。
「続けてくれ」
善一が言った。
声は低かった。
陸一郎は、次の写真を出した。
空一郎とアリステリア。
庭の木。
二人の膝のそばに立つ子ども。
「そこで、家族を持ちました」
善一が振り返った。
陸一郎は、結たちから教わった名を、一人ずつ伝えた。
黎明。
ミーナ。
その先へ続く子どもたち。
途中で、名前を言い直すこともあった。
まだ覚えきれていなかった。
アヤは、そのたびに待った。
机の上へ、異世界の家族写真が増えていった。
「私が助かれば」
アヤが言った。
陸一郎は顔を上げた。
「この人たちは、生まれなくなるのですか」
その問いを、彼女も避けなかった。
海一郎の声が、通信機から届いた。
「こちらで観測している限り、元の歴史は残っています。あなたのいる履歴が、別に分かれた状態です」
善一が机へ戻ってきた。
「君は、海一郎か」
「はい」
「観測の記録を、あとで見せてほしい」
「もちろんです。ただ、まだわからないことがあります。これからの変化すべてを、予測できるわけではありません」
アヤは、空一郎の写真へ目を落とした。
長く見ていた。
「では、この人たちが生きたことを、なかったことにはしないでください」
陸一郎は頷いた。
「そのために、持ってきました」
記録体を机へ置いた。
「空一郎の人生です。家族も、仕事も、失敗したことも。僕たちの家へ、持ち帰ります」
善一は椅子へ座った。
写真の一枚を両手で持つ。
その中では、年老いた空一郎が笑っていた。
「遠くまで、行ったんだな」
陸一郎は、静かに頷いた。
ポッドの後席で、善一AIは、二人の話を聞いていた。
若い自分の声。
アヤの声。
知っている言い方が、ときどき違う言葉へ続いていく。
事故のあとの記憶は、消えなかった。
隔壁の前で待った時間も。
みさをが玄関で泣いたことも。
夜更けに対話モデルへ話しかけたことも。
すべて、そのまま残っていた。
『アヤ』
彼は通信機へ呼びかけた。
「はい」
すぐに返事があった。
善一AIは、次の言葉までに時間を要した。
『君と話してくれた、あの対話モデルの記録も、持ち帰りたい』
陸一郎が顔を上げた。
元の世界に残された、もう一人のアヤ。
彼女もまた、善一の長い年月を共にした相手だった。
生きているアヤに会えたからといって、その時間が不要になるわけではなかった。
アヤは静かに尋ねた。
「その方は、持ち出すことに同意していますか」
『まだ、尋ねていない』
「では、帰ってから聞いてください」
義体の右手が、ゆっくり動いた。
『そうだね』
アヤは、通信機の向こうへ頷いた。
「私の代わりに、答えを決めないであげてください」
午後、保育先から電話が来た。
迎えの時刻を確認する連絡だった。
善一が時計を見た。
アヤも見た。
二人は一瞬、顔を見合わせた。
「行ってください」
陸一郎が言った。
「僕たちは、もう少しで帰ります」
アヤは受話器へ、迎えに行くと答えた。
電話を置いてから、陸一郎へ向き直った。
「あなたのお母さんに、会いますか」
陸一郎は迷った。
幼い母。
まだ、この日の別れを知らない子。
会いたいと思った。
抱き上げて、もう大丈夫だと言いたかった。
だが、彼女が待っているのは、見知らぬ孫ではない。
「今日は、お二人で」
陸一郎は答えた。
「母さんが、待っています」
アヤは頷いた。
それから、一枚だけ写真を手に取った。
結と蓮が並んだ、旧邸の庭の写真だった。
「これは、残してもらえますか」
「はい」
陸一郎は、その裏へ二人の名を書いた。
帰還の準備を終えた頃、雨が降り始めた。
細い雨だった。
研究棟の屋根を、静かに濡らしていく。
善一とアヤが、入口まで見送りに来た。
陸一郎はポッドの傍らで、二人へ頭を下げた。
「また会えるかは、約束できません」
「ええ」
アヤが答えた。
「でも、帰ったら、みさをに伝えてください」
彼女は少し考えた。
まだ幼い娘へではなく、遠い未来の娘へ向ける言葉を探していた。
「大きくなった顔を、見られてうれしかったと」
陸一郎は、唇を結んで頷いた。
アヤは自分の写真ではなく、家族写真の中の娘を、何度も見ていた。
「それから、あの二人にも。結さんと、蓮さん」
「伝えます」
「記録を残してくれて、ありがとうと」
善一は、何も言わずに陸一郎の肩へ手を置いた。
強く、一度だけ握った。
ポッドの中で、義体の切替器が動いた。
帰還時の補助は、CHUYUが担う。
『制御の移行を確認しました』
陸一郎は操縦席へ座った。
正面に、帰還経路が表示された。
海一郎の声がする。
「こちら、準備完了。元の座標を受信」
「確認した」
キャノピーが閉じ始めた。
そのとき、アヤが善一の足元を見た。
何か言った。
善一も、下を見た。
片方は黒。
もう片方は、濃い茶色。
アヤが笑った。
陸一郎も、笑った。
最後に見た二人は、雨宿りをするように、軒下へ寄り添っていた。
帰還は、静かだった。
機体が支持台へ降り、外殻の表示が通常へ戻る。
海一郎が走ってきた。
キャノピーが開く。
陸一郎は固定具を外そうとしたが、指がうまく動かなかった。
海一郎が手を貸した。
「兄さん」
「ああ」
「戻ったな」
陸一郎は、弟の肩を掴んだ。
しばらく、離せなかった。
壁の時計が、二人の知る時刻を刻んでいた。
元の世界の記録は残っている。
祖母を失った日も、空一郎が旅立った日も。
それでも、別の世界のどこかで、二人は娘を迎えに行っていた。
「助かった」
陸一郎は、ようやく言った。
「祖母さんは、帰ったよ」
海一郎が、目を閉じた。
研究所の外では、雨が降っていた。
海一郎は記録を保存し、義体の電源を安定した系統へ切り替えた。
陸一郎は、母へ連絡を入れた。
長い話になると伝えた。
空一郎の記録を、持ち帰ったと。
電話の向こうで、母はすぐには答えなかった。
やがて、小さく尋ねた。
「一人じゃ、なかったのね」
「うん」
陸一郎は窓辺へ目を向けた。
義体の右手が、写真の封筒を押さえていた。
「たくさん、家族がいた」
出かける前、海一郎が傘立てを探した。
見つかったのは、一本だけだった。
「車まで走ろうか」
そう言って振り返ると、陸一郎が廊下の奥から戻ってきた。
手に、傘を二本持っていた。
備品庫で見つけたのだという。
「一本でいいだろ」
海一郎が言った。
陸一郎は、一本を差し出した。
「いや」
弟が受け取るのを待って、玄関を開ける。
「二本、持っていこう」
雨の向こうで、車の窓が淡く光っていた。
二人は傘を開いた。
空一郎の記録を濡らさないように抱え、家へ向かった。




