第118章 遠い家族からの返事
出発の朝、結は義体の襟を直した。
作業用の外装を覆うために、アンナが上着を用意してくれた。袖の内側には、配線を圧迫しないよう切れ込みが入っている。
結は右手首を確かめた。
補助スイッチまで、指が届く。
固定具は緩んでいない。
確かめ終わっても、手を離せなかった。
『結』
CHUYUが呼んだ。
「何?」
『三度目の確認です』
「出発前だから」
『承知しました』
結は、もう一度だけ留め具を押した。
「次は、歩けるようにする」
『帰還後の作業計画へ追加してください』
「もう、書いてある」
義体の指が、結の手の甲に触れた。
以前より、力の加減が滑らかになっていた。
結はその手を握り、そっと膝へ戻した。
旧邸の玄関には、荷物より人の方が多かった。
律とアンナ。
結と蓮。
リディア。
研究所の助手と、時計職人も来ていた。
職人は義体の固定枠を見て頷き、陸一郎へ小さな工具袋を渡した。
「使わずに済むのが、いちばんです」
「借りていきます」
「ええ。借りたものですから」
陸一郎は、笑って頷いた。
リディアは海一郎へ、薄い封筒を差し出した。
「私の家に残る記録の写しです。向こうの装置を調べるとき、役に立つかもしれない」
「ありがとう。扱いの条件は?」
「中に書いてある」
海一郎が封を確かめると、彼女は少し笑った。
「今度は、先に」
蓮はポッドへ積み込む箱の一覧を読み上げた。
家族の記録。
研究資料。
義体の予備部品。
食料と水。
海一郎が一つずつ答えた。
結は、そのやり取りを聞いていた。
弟の確認は細かかった。
今日は、それがありがたかった。
港外れの空き地で、陸一郎は律へ向き直った。
「空一郎が、お世話になりました」
律は首を振った。
「私たちが、世話になったのです」
二人は少し困って、それから笑った。
握手を交わす。
アンナは、家族の写真を入れた小さな封筒を渡した。
「みさをさんへ。皆、元気に暮らしていますと」
陸一郎は両手で受け取った。
母は、どんな顔をするだろう。
帰ってこなかった息子の、その先に続く家族。
会いたかったという言葉だけでは、足りないだろう。
「必ず、渡します」
最後に結が前へ出た。
陸一郎は、彼女へ小さな記録体を渡した。
「こちらの家族の記録です。海一郎が、読める形に直してあります」
「いただいた写真も、ここに?」
「ええ。空一郎が生まれる前のものも」
結は、それを両手で包んだ。
探していた人の、そのまた家族。
自分たちの知らなかった、遠い暮らし。
「陸一郎さん」
「はい」
「来てくれて、ありがとうございました」
陸一郎は、すぐには答えられなかった。
弟を連れ帰ることはできなかった。
それでも、この言葉を受け取ってよいのだろうか。
結が続けた。
「空一郎を、家族に戻してくれて」
陸一郎は、ゆっくり頷いた。
「こちらこそ」
それから、彼女の隣の蓮へ目を向けた。
「二人とも、元気で」
蓮が頭を下げた。
「また、来てください」
陸一郎はポッドを振り返った。
「帰り道を、大切にします」
最初の帰還では、三人が乗った。
海一郎が前席。
陸一郎と義体が、その後ろに並ぶ。
義体用に組み替えた支持枠が、肩と腰を固定した。右手の先には、大きな補助スイッチが置かれている。
キャノピーが閉じると、外の音が遠くなった。
全周映像に、結たちが映っていた。
蓮が最後の退避を確認し、片手を上げる。
リディアの髪が、海からの風に揺れていた。
「接続、正常」
海一郎が言った。
機体が浮いた。
光学迷彩が入り、外殻が空の色を映した。
結がこちらを見上げた。
姿は見えなくても、そこにいると知っている顔だった。
陸一郎は、彼女が小さくなるまで見ていた。
景色が細い光へ変わり、港が消えた。
元の研究室へ戻ると、海一郎が先に降りた。
受入設備の状態を確かめ、帰還記録を保存する。
陸一郎は、ポッドの中で待った。
次の出発まで、数時間。
身体を休め、機体を冷やすための時間だった。
義体の制御は、善一AIへ切り替えられていた。
彼は、研究室を静かに見ていた。
昔の自分が知る部屋とは違う。
機器は小さくなり、窓の外の建物も変わっている。
『みさをは』
善一AIが尋ねた。
陸一郎は顔を向けた。
「元気だよ」
『そうか』
「空一郎のことは、海一郎から話す。僕が戻ったら、記録を見せる」
『私のことも、伝えてくれるか』
「もちろん」
義体の右手が、座席の上で少し動いた。
『会えたら、何から話せばいいだろうね』
陸一郎は考えた。
「顔を見れば、わかると思う」
祖父は娘を抱いたまま論文を読もうとして、アヤに叱られたという。
結が見つけた記録で、初めて知った話だった。
陸一郎は、もう一つ付け加えた。
「そのときは、書類を置いて」
善一AIの指が止まった。
やがて、小さく笑う声がした。
午後、海一郎が操縦席の横へ立った。
ポッドは点検を終えていた。
推進剤も、予備電源も補充された。
行き先には、研究棟の外の搬入路が表示されている。
試験開始、四十五分前。
人の出入りが少なく、上空にも障害物がない時間帯だった。
「元の接続は、こっちで保つ」
海一郎が言った。
「戻るときは、記録された座標を使って。目の前の世界を、帰還先として上書きしないで」
「わかった」
「アヤを助けられても、その場で何が変わったか確かめようとしない。実験区画から離れて、まず連絡を」
「ああ」
海一郎は、兄の肩帯を引いて確かめた。
きつすぎないかと尋ねる代わりに、もう一度、留め具を見た。
陸一郎は、その手首へ触れた。
「戻ったら、母さんのところへ行こう」
「うん」
「二人で、話す」
海一郎は頷いた。
ポッドから降りる。
キャノピーが閉じる直前、彼は兄を見上げた。
「兄さん」
「何だ」
「今度こそ、迎えが間に合うといいな」
陸一郎は頷いた。
声では、答えられなかった。
出現した空は、明るかった。
全周映像に、低い研究棟と、遠くの工事用クレーンが映る。
予定した搬入路に、人はいない。
ポッドは光学迷彩を保ったまま降下した。
横風を受け、姿勢制御器が短く噴いた。
外壁から距離を取り、舗装された隅へ着地する。
「接地。周囲、安全」
陸一郎は報告した。
海一郎から、短い応答が返る。
「受信。帰還経路、維持」
陸一郎は隣を見た。
義体の顔は、建物へ向いていた。
『北側の入口だ』
善一AIが言った。
『廊下を進むと、左に受付がある』
陸一郎は写真と資料の入った鞄を取った。
もう一度、時計を見る。
まだ、間に合う。
受付の職員は、訪問予定にない名前を聞いて首を傾げた。
「葛城先生と、お約束は」
「ありません。ただ、今日の試験を始める前に、確認していただきたい記録があります」
「資料をお預かりして——」
「七分後に、磁場の制御値が乱れます」
職員の手が止まった。
陸一郎は、それ以上声を大きくしなかった。
「遮断指令のあとにも続く波形です。実験担当の方へ、この一枚だけでも渡してください」
机へ、記録を置いた。
未来の装置は見せなかった。
事故後にしか得られない波形を、過去の紙へ写したものだった。
職員は戸惑いながら、内線を取った。
陸一郎は時計を見ないようにした。
廊下の向こうから、二人分の足音が近づいてきた。
「どの試験の話ですか」
女の声だった。
陸一郎は顔を上げた。
黒髪をまとめた女性が、書類を片手に立っていた。
写真でしか知らなかった人だった。
その隣に、若い善一がいた。
「この記録を、どこで」
善一が尋ねた。
陸一郎は口を開いた。
用意してきた説明が、すぐには出なかった。
アヤが、一歩近づいた。
「大丈夫ですか」
生きている声だった。
陸一郎は鞄の持ち手を握り直した。
「今日の試験を、延期してください」
アヤは、波形を最後まで見た。
途中で善一が口を開きかけたが、彼女は指を上げて止めた。
「ここの時刻は、開始からですか」
「はい」
「遮断は?」
陸一郎が指し示す。
アヤは、その先の線を見た。
「遮断後も、場が維持されている」
善一が紙を取った。
「だが、この値は」
「わかっています。いまの想定では、出ないはずです」
アヤは陸一郎を見た。
「元の測定記録を、確認できますか」
「できます」
「装置の構成も?」
「残っています」
善一が、彼女へ顔を向けた。
「アヤ」
「参加するつもりで、計画を確認しました」
彼女は静かに言った。
「でも、この危険は、その計画に入っていません。今日は入りません」
善一は、ほんの一瞬、目を閉じた。
それから、受付の電話へ手を伸ばした。
「制御室につないでくれ。試験を延期する」
陸一郎は、その言葉を聞いた。
膝から力が抜けそうになり、机の端へ手を置いた。
アヤが、彼の顔を覗き込んだ。
「座ってください。ひどい顔色です」
陸一郎は首を振った。
目の前で、彼女が袖を整えた。
装置へ入るためではなく、椅子を引くために。
腕の通信機から、海一郎の声が小さく届いた。
「分岐を確認。元の経路も残っている」
陸一郎は目を閉じた。
三人をポッドへ案内するとき、陸一郎は初めて空一郎の名を出した。
善一が立ち止まった。
アヤも足を止めた。
「誰ですか」
アヤが尋ねた。
「あなたは、私たちの何をご存じなんですか」
陸一郎は、研究棟の陰へ向かった。
光学迷彩を解く。
何もなかった搬入路に、黒い機体が現れた。
善一が息を呑んだ。
アヤは後ずさりせず、機体と陸一郎を交互に見た。
キャノピーが開いた。
後席に固定された義体が、そこにいた。
『善一』
その声に、若い善一が硬直した。
『説明は、彼から聞いてくれ。まず、アヤに伝えたいことがある』
アヤはゆっくり近づいた。
義体の右手が、座席の縁で動いた。
『君の記録から作った対話モデルに、私は、同じ人だと言ってほしかった』
善一が、隣のアヤを見た。
彼女は義体から目を離さなかった。
『だが、彼女はそう言わなかった。それでも、話を続けてくれた』
声が少し途切れた。
『私は、そのおかげで、みさをの話をできた』
アヤは長く黙っていた。
それから、義体の手の近くへ、自分の手を差し出した。
「あなたのことも、あとで聞かせてください」
義体の指が、彼女の指へ触れた。
若い善一が、その肩越しに名を呼んだ。
「アヤ」
「ええ」
彼女は振り返った。
いつもの返事だった。
それだけのことを、陸一郎は聞きに来たのだと思った。
返事のできる人が、そこにいる。
アヤは、陸一郎へ向き直った。
「説明していただけますね」
「はい」
「まず、お名前を」
陸一郎は、胸元の記録体へ手を添えた。
その中に、空一郎の人生があった。
アリステリアの庭。
工房の笑い声。
病院。
船。
鉄と油と光の街。
遠い世界で生まれた、結と蓮。
誰も消えていない。
海一郎が守る帰還経路は、まだつながっていた。
アヤが、もう一度、静かに尋ねた。
「あなたは、誰?」
陸一郎は、彼女の顔を見た。
今度は、最後まで答えられた。
「あなたの孫です」
声が震えた。
「少し、迎えに来るのが遅くなりました」




