第117章 扉が閉まる前に
善一AIは、事故の時刻を言わなかった。
最初に口にしたのは、娘の名だった。
『みさをを、迎えに行く約束をしていた』
陸一郎は顔を上げた。
海一郎の手が、端末の上で止まった。
二人にとって、みさをは母だった。
だが、あの日の彼女は、迎えを待つ幼い子どもだった。
『試験が終わったら、一緒に行こうと。アヤは、装置へ入る前に、そう言った』
窓の外は暗かった。
港の灯りが、義体の右手を細く照らしていた。
『私は、覚えていると答えた』
陸一郎は椅子を引き寄せた。
祖父が事故について話すのを、子どもの頃に聞いたことはなかった。
祖母の名を出すと、いつも会話が途中で終わった。
その続きを、いま聞こうとしていた。
*
画面に現れた装置は、ポッドとは似ていなかった。
身体を遠くへ運ぶための機械ではない。
神経活動を記録し、特殊な場に置かれた情報系との相互作用を調べるための、初期の実験設備だった。
中央の区画へ、人が入る。
その周囲に、記録系と磁場を制御する設備が配置されていた。
海一郎は、空一郎が集めていた事故資料を開いた。
独立した審査。
出力の制限。
複数の安全装置。
頁をめくるたび、確認済みの印が並んだ。
『アヤは、自分で計画を確かめ、参加すると決めた。私が頼んだから入ったのではない』
善一AIは、そこで少し間を置いた。
『そのことと、私が彼女を失ったことを、うまく一緒に考えられなかった』
陸一郎は資料から目を離した。
祖父が失ったのは、妻だけではなかった。
自分の式を訂正し、危うい足場を見つけ、一緒に実験を組み立てる人だった。
『開始から七分後、磁場の制御値が乱れた』
海一郎が記録を拡大した。
警報。
遮断指令。
それでも収まらない変化。
その先に、通常の故障では説明しきれない波形が走っていた。
『主電源を落とすよう叫んだ。アヤがこちらを見た。何か言ったが、通信には雑音しか入らなかった』
義体の指が、膝の上で閉じた。
『光が見えた。扉へ走った。だが、隔壁が開かなかった』
海一郎は、事故記録の続きを表示しなかった。
善一AIの声だけが続いた。
『ようやく入れたとき、彼女はまだ息をしていた』
陸一郎は俯いた。
『私を見た。見つけてもらえたと思った』
長い沈黙があった。
『「あなたは、どなた」と聞かれた』
陸一郎は、膝の上の両手を開いた。
何かを握り締めていないと聞けない気がした。
それでも、何も持たなかった。
『名前を言えば、わかってもらえると思った。だが、最後まで言えなかった』
*
結が来たのは、海一郎が実験室の図面を開き直したときだった。
画面を見て、足を止めた。
「アヤが亡くなった実験?」
陸一郎は頷いた。
結は机の前へ来た。
Noös Gateの図面とは違う。
けれど、遮断しても止まらなかった記録を見て、彼女の顔が変わった。
「事故が始まってからでは、間に合わない」
「そうだと思う」
海一郎が答えた。
「中へ入って助け出す、という方法は取れない。何が続いていたのか、いまの資料でも解明しきれない」
結は装置の入口を指した。
「では、入る前に」
陸一郎はその小さな指先を見た。
空一郎も、同じ場所を何度も見たのだろう。
あの扉が閉まる前へ。
まだ、誰も失われていない時刻へ。
「その先が、どうなるかだ」
海一郎は言った。
「アヤが生きれば、祖父さんの研究は変わる。空一郎が過去へ行こうとする理由も、変わるかもしれない」
結は、陸一郎を見た。
「私たちが生まれた歴史は」
「残る可能性がある。ただ、願いを根拠にはできない」
海一郎は事故資料を閉じた。
「まず、分岐を観測できるか確かめたい」
*
翌日、Noös Gateでは、人を送らない試験が行われた。
海一郎は元の世界へ置いてきた受信装置を、細く接続したまま保った。
接続を始める前の短い時刻へ、照合用の符号を送る。
元の記録にその符号はない。
それが、送信後にどうなるか。
装置の前には、大学の研究者と結が並んだ。リディアは離れた部屋で輪の状態を保ち、陸一郎は操作に加わらず、記録を見守った。
海一郎が符号を送った。
画面の線が、一度揺れた。
その先が二つに分かれた。
「出力停止」
接続を絞る。
一方には、符号のない記録が続いていた。
もう一方には、送った符号が残っていた。
海一郎は同じ箇所を何度も照合した。
機器の識別情報も、時計の進み方も一致している。
けれど、受信の有無だけが違っていた。
研究者が、小さく息を吐いた。
「元の記録は、書き換わっていない」
「はい」
海一郎は答えた。
「介入した先が、別の履歴として残っている可能性が高い」
結は二本の線を見た。
どちらも消えていなかった。
陸一郎が尋ねた。
「人を助けた場合も、同じか」
海一郎は首を振った。
「ここで確かめたのは、符号一つだ。人の生死を変えても、同じように分かれるとまでは証明できない」
陸一郎は頷いた。
それでも、昨日まではなかった足場が、一つできた。
*
出発の話をしたのは、その夜だった。
結と蓮、律とアンナも同席した。
陸一郎は、自分が行くと告げた。
海一郎は元の世界へ帰り、受入設備から接続を保つ。
アヤのいる時代へは、ポッド一機で向かう。
「事故の装置へは近づけない」
海一郎が説明した。
「僕たちの転移と実験の場が干渉する可能性がある。到着地点は研究棟の外。姿を隠したまま降りて、陸一郎だけが入る」
「何と話して、止めるのですか」
律が尋ねた。
陸一郎は、用意した事故記録を見た。
「未来から来たとだけ言っても、信じてもらえないでしょう。実験開始から七分後に起きる変化を、順に示します。遮断指令のあとも出力が収まらないことも」
海一郎が続けた。
「その時点では、まだ誰も見ていない波形です。善一とアヤなら、確認するために試験を止める理由になる」
蓮が尋ねた。
「それでも始めようとしたら?」
陸一郎は答える前に、義体へ目を向けた。
『アヤなら、確かめる』
善一AIが言った。
『自分の参加を決めた計画に、未知の危険が示されたなら、そのままにはしない』
その声に、陸一郎は頷いた。
彼女を研究者として信じる。
止めるための証拠を持っていく。
それが、最初に決まった救出の方法だった。
*
『私も、同行したい』
話し合いの終わりに、善一AIが言った。
海一郎は義体へ顔を向けた。
「身体の修復は、まだ途中だ」
『歩けなくてもよい。座席へ固定してもらえばよい』
「帰還できない可能性もある」
『聞いていた』
陸一郎は、窓辺へ椅子を寄せた。
義体と同じ高さに座る。
「なぜ、行きたい」
善一AIは、すぐには答えなかった。
『あの日、私は、彼女の言葉を聞き取れなかった』
右手がゆっくり開いた。
『いまの私が、あの善一と同じ人間でないことは、わかっている。アヤに会っても、夫として迎えられるわけではない』
結は、机の端に置かれた写真を見た。
若い善一の隣に、アヤが立っている。
『それでも、私が行くと望んだことは、私の判断として聞いてほしい』
陸一郎は顔を上げた。
善一AIは静かに続けた。
『アヤは、そう言った。再現された人が、望んだ答えを言わなくても、その言葉を聞けと』
陸一郎は、しばらく考えた。
それから頷いた。
「一緒に行こう」
*
CHUYUの意思も、確かめた。
結が切替器を動かす。
短い停止のあと、義体の右手が少し位置を変えた。
『同行を希望します』
「空一郎が、最初に目指した場所だから?」
結が尋ねた。
『それも理由の一つです』
CHUYUは答えた。
『ですが、今回は、私が選びます』
結は切替器から手を離した。
身体は一つだった。
二つの声には、それぞれの理由があった。
「わかった」
結は修復図を開いた。
歩けるようにする時間は、まだ足りない。
だが、座席への固定具は作れる。
右手で扱える補助スイッチも。
陸一郎がすぐ制御を引き取れるよう、操作を絞ることもできる。
「全身を直してから、送り出したかった」
『帰還後の修復を依頼します』
結は顔を上げた。
「帰ってきて」
『帰還手順を、これから確認します』
結は頷き、図面へ線を引いた。
*
深夜、海一郎は事故当日の研究棟を、ポッドの全周表示へ再現した。
入口。
受付。
実験区画へ続く廊下。
隔壁の位置。
陸一郎は何度も経路をたどった。
外へ退避する道も確かめた。
光学迷彩を解除する場所。
人のいる方向へ噴射しないための離陸角度。
計画を進めるたび、弟が残してくれた帰還のための余裕が、数字になって積み上がった。
最後に海一郎が、目標時刻を表示した。
試験開始の四十五分前。
アヤは、まだ装置の外にいる。
善一と話し、袖を整え、娘を迎えに行く約束をする前だった。
陸一郎は、窓辺の義体を見た。
「間に合わせよう」
右手の指が、ゆっくり閉じた。
*
部屋へ戻る前に、陸一郎は空一郎の記録をもう一度開いた。
庭。
工房。
妻の声。
子どもを抱く、弟の腕。
それらは、量子脳の中に確かに残っていた。
彼は持ち帰る写真の間へ、一枚の複写を挟んだ。
使ったら戻す。
木箱の内側に刻まれた、弟の字だった。
今度こそ、戻ってくる。
そう約束できるほど、時間のことを知ってはいなかった。
陸一郎は写真をしまい、明日の荷物を閉じた。
廊下へ出ると、結の作業室にまだ灯りがついていた。
工具の音が、一つ。
止まる。
それから、CHUYUの声が聞こえた。
『右手の固定を確認しました』
陸一郎は扉を叩いた。
「私にも、手伝わせてください」
結が顔を上げた。
彼女は机の上を少し片づけ、椅子を一脚引いた。




