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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第116章 残す者の仕事



 学校の展示室に、古い木箱があった。


 船の模型でも、最初に作った機械でもなかった。


 蓋の内側に、浅い文字が刻まれている。


 陸一郎は屈み込んだ。


 柊空一郎。


 その下に、小さくもう一行。


 使ったら戻す。


 陸一郎は、声を出して笑った。


 結と蓮が振り返った。


「自分に書いたんでしょうね」


 彼は文字を指さした。


「人に言える弟ではなかった」


 展示室の教師も笑った。


「子どもたちには、創業者の仕事の心得だと教えていました」


「心得ではあったと思います。守れたかどうかは、別ですが」


 陸一郎は箱を開けた。


 中身は、後の時代に揃えられた展示用の工具だった。


 だが、底に残った黒い染みと、縁の欠けは古かった。


 弟がここへ手を伸ばした。


 道具を取り、何かを作り、たぶん何度か戻し忘れた。


 陸一郎は蓋を閉じた。


「これを、写真に撮っても?」


 教師は頷いた。


「どうぞ」


 彼は海一郎から借りた機器を構えた。


 大きな会社の看板より先に、その一行を記録した。


     


 帰り道、蓮が足を止めた。


「寄っていきたい所があります」


 向かったのは、港へ続く大通りではなかった。


 線路を渡り、住宅の間を抜けた先に、車両修理工場があった。


 事務所では、職員たちが帳面を囲んでいた。


 蓮を見ると、一人が立ち上がりかけた。


「そのままで」


 彼は言った。


「今日は、お願いに来ました」


 結は入口で待った。


 弟は、現場の責任者と経理の職員へ、新しい紙を渡した。


 研究費。


 社内の設備投資。


 賃金支払いのために確保する資金。


 これまで別々の資料に埋もれていた数字を、一枚へまとめる案だった。


「研究を続けるために、皆さんの給料を使わないと約束するだけでは、足りません。何を先に確保しているか、わかる形にしたい」


 責任者は紙を読んだ。


「これを、現場へ見せるんですか」


「はい。まず、この数字で実際の支払いが守れるか、確認してください」


 経理の職員が眉を寄せた。


「この欄では、冬の部品購入分が足りません」


 蓮は隣の椅子へ座った。


「どのくらいですか」


 結は陸一郎を見た。


 彼は何も言わず、入口の柱へ寄りかかって待っていた。


 弟の仕事が終わるまで。


    


 その日の夕方、旧邸へ人が集まった。


 大学の研究者。


 鉱山の保安技師。


 会社の役員。


 行政の担当者。


 リディアと、魔法を用いる研究者がもう一人。


 机の上には、新会社案を差し戻したあとの修正書類が置かれていた。


 叔父も来ていた。


 彼は席へ着くと、結を見た。


「会社から完全に切り離して、明日からどう動かすつもりだ」


「明日からは、切り離せません」


 結は答えた。


「設備も人も、借りています。返すものと、引き続き借りるものを、一つずつ決めます」


 叔父は書類を開いた。


 結は続けた。


「研究の運営主体を、会社とは別に作りたい。土地は当面借用する。寄託品は、持ち主の同意を取り直す。成果と事故の記録は、出資者だけでなく、審査する人たちにも開きます」


「誰が費用を出す」


「最初の期間は、家と会社へお願いします。その先は、公的な研究費も申請します」


「認められなければ?」


 結は蓮を見なかった。


「規模を縮めます。できない実験は、しません」


 叔父は黙った。


 リディアが書類を手前へ引いた。


「私たちの側からも、条件があります」


 皆が彼女を見た。


「魔法を使える者を、交換できる部品のようには扱わないでください。休止の申し出に理由を求めないこと。身体への影響を調べる医師を置くこと。それから、方法を受け継いだ家の記録を、会社の所有にしないこと」


 法務の担当者が、一つずつ確認した。


 叔父は最後まで聞いた。


 やがて、書類の端を指で叩いた。


「この形では、結も好きにはできなくなる」


「はい」


「君が始めた研究でも、君を止められる人ができる」


「そのために、お願いしています」


 結の声は震えなかった。


 叔父は、窓の外へ顔を向けた。


 港の灯りが、ともり始めていた。


「私は、あの会社を守ってきたつもりだ」


 律が頷いた。


「知っている」


「君が王冠を置いたあとも、会社まで崩せば、この町が困ると思っていた」


「それも、わかる」


 叔父は長く黙った。


 そのあと、持ってきた万年筆を置いた。


「費用の上限と、見直す時期を入れよう。それがなければ、私は賛成できない」


 蓮が書類を開いた。


「そこを、相談したかったんです」


     


 その夜、すべてが決まったわけではなかった。


 法的な手続きも、資産の査定も残った。


 それでも、輪と研究設備を親族の新会社へ集める案は、正式に撤回された。


 代わりに、独立した研究機関を設ける準備会が発足した。


 結の名は、研究責任者の欄にあった。


 その上には、彼女一人では変更できない安全規程が置かれた。


 蓮は会社側の窓口を引き受けた。


 姉の希望額をそのまま通す役ではなかった。


 何を約束でき、何が約束できないか、双方へ伝える役だった。


 最後に律が署名した。


 肩書は、会社代表。


 一族の当主としての署名は求められなかった。


     


 人々が帰ったあと、陸一郎は廊下で結と蓮を待っていた。


「少し、来てもらえますか」


 二人を案内したのは、空一郎の部屋だった。


 海一郎が机の前にいた。


 窓辺には義体が座っている。


 その膝に、薄い箱が載っていた。


 結が直した右手が、箱の縁を押さえていた。


「何ですか」


 蓮が尋ねた。


 海一郎は箱を開けた。


 中には、光を反射する小さな記録体があった。


「僕たちの量子脳へ移すための、記録の整理を始めた」


 結は陸一郎を見た。


 彼は頷いた。


「空一郎を、到着した時代から連れ帰ることはしません」


 部屋が静かになった。


 陸一郎は、二人へ向き直った。


「別の歴史が分かれるなら、救えるのかもしれない。けれど、いまは、それを確かめる方法がない」


 結は何も言えなかった。


「あなたたちが残る方へ、賭けることもできない」


 陸一郎は窓の向こうを見た。


「昨日、学校で、子どもが走っていたでしょう」


「はい」


「あの子の顔を、私はもう知っている」


 蓮が目を伏せた。


 結の頬を、涙が伝った。


「ごめんなさい」


 言った瞬間、陸一郎が首を振った。


「謝らないでください」


 声が、少し強くなった。


 彼は一度、息を整えた。


「あなたたちに謝らせるために、来たのではないんです」


 結は唇を結んだ。


 陸一郎は、机の上の写真を手に取った。


 幼い弟。


 庭の老人。


 その両方を、同じ封筒へ入れた。


「空一郎の一生を、持ち帰ります」


     


 記録の整理は、夜更けまで続いた。


 会社の沿革だけでは足りなかった。


 船の進水日。


 工房で起きた失敗。


 アリステリアと暮らした部屋。


 子どもを抱く手つき。


 黎明とミーナの病院。


 家族が争った日の記録も、消さなかった。


 陸一郎は、残すものを選ぶたびに尋ねた。


「この人は、誰ですか」


 結と蓮が答えた。


 知らないところは、CHUYUが補った。


 ときどき、皆で間違いを直した。


 始祖の人生は、完全な物語ではなかった。


 記録の残らない年月もあった。


 それでも、声と名前を添えていくと、写真の中の人々が少しずつ近くなった。


     


 深夜、海一郎が接続装置の記録を閉じた。


 渡航先の候補には、まだ空一郎の到着直後の座標が残っていた。


 海一郎はそれを削除せず、使用を停止した保管領域へ移した。


 陸一郎が隣へ立った。


「兄さん」


「うん」


「ほかにも、戻りたい日はある」


 陸一郎は答えなかった。


 画面には、元の世界の座標が表示されていた。


 空一郎が目指した場所。


 アヤの事故が起きた日。


 義体の指が、膝の上で微かに動いた。


 いつから聞いていたのか、善一AIの声がした。


『その日は、私も覚えている』


 陸一郎が振り返った。


 義体の顔は動かなかった。


 だが、右手がゆっくり開かれた。


『何を変えられるのか、まず、私にも見せてくれないか』


 海一郎は椅子を引いた。


 陸一郎は、その隣へ座った。


 今度は、祖父の記憶を聞くために。

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