第115章 まだ生まれていない人たち
「私たちは、どうなるんですか」
蓮が尋ねた。
海一郎の端末には、二つの時点が光っていた。
いま、この旧邸へ到着した地点。
そして、空一郎がこの世界へ来た直後。
その間に、一族の歴史があった。
結は、画面を見つめていた。
空一郎を連れて帰る。
昨日まで、それは叶わない願いだった。
いまは、技術の問題として机へ載っている。
だが、その青年がアリステリアと出会わなければ。
黎明は生まれない。
その先の家族も、生まれない。
「わからない」
海一郎は答えた。
蓮は顔を上げた。
曖昧な慰めを待っていたわけではない。
それでも、胸の奥が冷えた。
「歴史が変わっても、この世界が残る可能性はある。介入した先に、別の歴史が分かれる可能性もある」
海一郎は端末へ新しい線を引いた。
一本の帯から、細い枝が延びる。
「でも、僕たちは、分岐を作って確かめたことがない」
陸一郎が尋ねた。
「変えた本人には、どう見える」
「元の歴史へ戻れるかもしれない。戻れないかもしれない。記憶がどう扱われるかさえ、確証はない」
結は自分の手を見た。
そこにある指が、急に頼りなく思えた。
話し合いは、食堂へ移された。
律とアンナが来た。
リディアも呼ばれた。
窓辺には、支持枠をつけた義体が置かれた。
CHUYUと善一AIにも、聞いてもらうためだった。
海一郎は、同じ説明をもう一度した。
空一郎の到着直後へ接続できる可能性。
そこで彼を連れ帰った場合の、予測できない影響。
話が終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。
最初に尋ねたのは、アンナだった。
「その時代の空一郎は、帰りたいのでしょうね」
海一郎は頷いた。
「おそらく。少なくとも、到着直後なら」
アンナは夫を見た。
律は机へ置かれた写真を見ていた。
幼い三兄弟。
空一郎の晩年。
離れた二枚の間に、手を置いていた。
「帰りたかった人へ、帰る道があると知らせることも、いけないのか」
律が言った。
結は父を見た。
「父さん」
「止めろと言っているのではない。何を決めようとしているか、確かめたい」
律は陸一郎へ向き直った。
「私たちのために、あなたの弟へ、生涯帰れずにいろと言うことになるのか」
陸一郎は答えられなかった。
その問いを、向こうの家族から受けるとは思っていなかった。
「記録を、最後まで聞いていただけますか」
CHUYUが言った。
皆が義体へ顔を向けた。
『先日の伝言には、続きがあります』
陸一郎は椅子の背から身体を起こした。
「なぜ、あのとき」
『陸一郎の状態から、一度に再生することを避けました。続きを聞くか、確認する予定でした』
陸一郎は頷いた。
責める気持ちは起きなかった。
「聞かせてください」
結は机の上の記録器を動かした。
部屋の音が静まる。
空一郎の、年老いた声が流れた。
『……戻った』
椅子へ座る音。
少し、息が切れていた。
『アリステリアに、まだ話していたのかって言われた。届くかどうかもわからないのに、長いって』
笑い声がした。
陸一郎は写真を見た。
庭に並ぶ、二人。
『兄さんたちが、もし僕のところへ来られるなら』
空一郎の声が、少し低くなった。
『若い僕に会うことも、できるのかもしれないね』
海一郎が顔を上げた。
『僕なら、考えるから。そういうことを』
短い間があった。
『そのときの僕は、きっと帰ると言うと思う』
結は膝の上の手を握った。
『父さんたちにも会いたい。兄さんたちにも。祖父さんに、ちゃんと謝らないといけない』
風が吹いた。
何かが机の上で鳴った。
『だから、いまの僕が、昔の僕に帰るなと言っていいのか、わからない』
陸一郎は目を閉じた。
弟は、その問題も考えていた。
『でも、もし、ここへ来てくれたなら』
声が柔らかくなった。
『先に、皆に会ってほしい』
誰かを数えるように、間があった。
『僕が帰りたいと思いながら、それでも明日まで生きようと思えた人たちです』
結の頬を涙が落ちた。
『僕のことで、誰かがいなかったことになるような決め方だけは、しないでほしい』
最後に、小さく付け加えた。
『頼みが多くて、ごめん』
記録は終わった。
*
陸一郎は、しばらく動かなかった。
弟の頼みを、兄として聞く。
それなら、これまで何度もしてきた。
壊した物を一緒に直した。
祖父へ謝るとき、隣に立った。
帰りが遅いときは、迎えに行った。
けれど、いま預けられた頼みは、どちらへ手を伸ばしても、誰かを取り残すものだった。
海一郎が言った。
「兄さん。いま決めなくてもいい」
「ああ」
「接続点は記録してある。装置を動かさなければ、何も起きない」
陸一郎は目を開けた。
「それなら、動かさない」
結が顔を上げた。
「今日は、だ」
陸一郎は続けた。
「わからないことを、帰ってほしい気持ちだけで越えるわけにはいかない」
律が静かに頷いた。
救出を諦めたわけではなかった。
だが、この日、過去への渡航は計画から外された。
*
会議が終わったあと、蓮は海一郎を倉庫へ案内した。
ポッドの点検場所だった。
黒い機体は、脚を畳まずに据えられている。
側面の外装が開き、冷却管と制御装置が見えていた。
「この機械なら、違う歴史へ行けるかもしれないんですね」
蓮が言った。
「可能性はある」
「戻ったら、自分の家族がいないことも?」
「否定はできない」
海一郎は整備用の画面を閉じた。
蓮は機体の縁へ触れた。
「結は、これをずっと探していたんだな」
「お姉さんが?」
「家の昔を。僕は、先のことを考えていたつもりでした」
蓮は手を離した。
「でも、何代か先から見れば、僕も昔の人になる」
海一郎は頷いた。
蓮は苦笑した。
「そのときの誰かに、僕の名前で勝手なことを言われたら、嫌でしょうね」
「たぶん、僕も嫌だ」
二人は少し笑った。
海一郎は工具を手に取った。
「空一郎も、そんな立派なことばかり考える奴じゃなかった」
「そう聞きました」
「片づけないんだ。使った物を、そのままにする」
蓮は義体の図面を思い出した。
結の机も、よく似ていた。
結は、リディアと旧邸の廊下にいた。
庭へ出る扉の前で、二人とも立ち止まっていた。
「怖かった」
結が言った。
リディアは頷いた。
「消えるかもしれないこと?」
「ええ。それから」
結は窓に映る自分を見た。
「帰してあげたいって、すぐに言えなかったこと」
リディアは、すぐには答えなかった。
結は続けた。
「私は家族を探していた。でも、見つけたら、自分たちが邪魔をしているみたいになった」
「邪魔ではないでしょう」
「でも、私たちがいなければ」
「それを言い始めたら、空一郎だって、あなたに会わずに帰れる人になるわ」
結は友人を見た。
リディアは廊下の先を見ていた。
「会ってしまったら、知らなかった頃と同じには決められない。陸一郎さんは、いま、その途中なんだと思う」
庭で、扉の軋む音がした。
陸一郎が一人で出てきた。
結は呼びかけようとした。
だが、彼の手に小さな写真帳があるのを見て、口を閉じた。
夕方、陸一郎は結へ、一つ頼みをした。
「空一郎の最初の家を、見たい」
「この旧邸ではなく?」
「もっと前のものがあれば」
結は頷いた。
「工房の跡が残っています。いまは、学校の敷地です」
「案内してもらえますか」
「もちろん」
翌朝、二人は町の古い通りへ出た。
蓮も同行した。
海一郎は、記録を取る小さな機器を陸一郎へ渡した。
いずれ元の世界へ帰るとき、家族に見せられるように。
学校では、ちょうど朝の授業が始まっていた。
子どもたちの声が、開いた窓から聞こえた。
校舎の脇に、低い石の基礎が保存されていた。
工房の跡だった。
陸一郎は、その前へしゃがんだ。
結が説明を始めようとすると、校舎から一人の教師が出てきた。
「見学の方ですか」
「はい」
結が答えた。
「始祖の工房を——」
そこまで言って、彼女は隣の男を見た。
陸一郎は、石に残る焦げ跡へ指を近づけていた。
結は言い直した。
「この方の弟さんが、働いていた場所を見に来ました」
教師は少し驚いた顔をした。
事情はわからなかっただろう。
それでも、工房の展示室の鍵を取りに戻ってくれた。
蓮は黙って姉を見た。
陸一郎が顔を上げる。
「ありがとう」
結は首を振った。
校庭を、遅れてきた子が駆けていった。
足を止め、石の前にしゃがむ陸一郎を不思議そうに見る。
「そこ、昔、火事になったんだよ」
陸一郎は子どもへ顔を向けた。
「そうなのか」
「でも、また作ったんだって」
子どもはそれだけ言い、校舎へ走っていった。
陸一郎は、その背を見送った。
弟の知らない子どもが、弟のしたことを覚えている。
焦げ跡の上へ、新しい朝の光が差していた。




