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時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第113章 迎えに来た兄




 腕の通信機が、三度目の光を放った。


 海一郎は、ようやく義体の手を離した。


「兄さん」


 送話口へ向けた声が、掠れていた。


「聞こえるか」


「ああ」


「何があった」


 海一郎は結を見た。


 蓮を見た。


 そして、椅子の上の義体へ目を戻した。


 伝えることが多すぎた。


 だが、最初の一言だけは、選びようがなかった。


「空一郎は、ここで亡くなっている」


 通信の向こうが静かになった。


 機械の雑音さえ、聞こえなくなったようだった。


「……確かなのか」


「子孫に会った。CHUYUもいる。祖父さんのAIも」


 長い間があった。


 結は顔を伏せた。


 遠い家族へ届いてほしかった言葉が、いま、その家族を傷つけている。


「兄さん」


「聞いている」


 陸一郎の声は、思っていたより静かだった。


「帰る道は、保たれているな」


「保たれている」


「なら、いったん戻れ」


 海一郎は目を上げた。


「僕は、まだ——」


「戻って、直接話してくれ」


 その声を聞いて、海一郎は口を閉じた。


 兄は研究室に一人でいた。


     


 帰還までの時間は、残り四十分だった。


 ポッドは接続経路を保つため、冷却と計算を続けている。初回の有人試験で、滞在を予定以上に延ばすわけにはいかなかった。


 結は記録の複製を用意した。


 空一郎の手帳。


 家族の系図。


 晩年の写真。


 そのうち写真だけを、海一郎は最後まで手に取れずにいた。


 結は封筒へ収め、表を伏せた。


「帰ってからで、かまいません」


 海一郎は頷いた。


「兄は、陸一郎といいます」


「知っています」


 結の返事に、海一郎が顔を上げた。


「空一郎の記録に、何度も出てきます」


「悪口も?」


 結は少し迷った。


 海一郎が、初めて笑った。


「それなら、本人だ」


 笑いはすぐに消えた。


「連れてきます」


 結は封筒を渡した。


「待っています」


     


 ポッドが出現したとき、陸一郎は床の誘導線の外に立っていた。


 機体が支持台へ降りる。


 噴射器は使われなかった。


 元の世界では、据え付けた受入設備が機体を支えた。


 キャノピーが開く前に、兄が歩き出した。


 海一郎は身体の固定を解いた。


 降りる途中で膝が揺れた。


 陸一郎が腕を掴む。


「怪我は」


「ない」


「向こうで、何か食べたか」


「まだ」


「座れ」


 海一郎は椅子へ座った。


 兄は湯を注ぎ、机の上の物を脇へ寄せた。


 いつもの動作だった。


 弟が帰ってきたときの、兄の動作だった。


 海一郎は、その手元を見ていられなくなった。


「兄さん」


「話は聞く。先に飲め」


 海一郎は湯呑みを両手で持った。


 陸一郎は向かいへ座らず、隣の椅子を引いた。


     


 二人で写真を開いた。


 最初の一枚には、庭が写っていた。


 椅子に座った老人と、その傍らの女性。


 老人の膝には、幼い子が乗っている。


 空一郎だった。


 目元に、面影が残っていた。


 けれど、二人が知る弟より、はるかに年を取っていた。


 陸一郎は写真を持ち上げた。


 近づけ、少し離した。


「こんな顔になるのか」


 それだけ言った。


 海一郎は答えられなかった。


 兄は次の写真を見た。


 工房。


 船。


 まだ短い線路の前で、大勢が並んでいる。


 その中央に、若い空一郎がいた。


 こちらは、知っている弟に近かった。


 陸一郎の指が止まった。


「この上着」


「うん」


「出ていった日に着ていた」


 兄は写真を机へ置いた。


 封筒の底から、小さな複写が滑り出た。


 手帳の一頁だった。


 兄さんなら、帰る方法を作ってから行けと言う。


 たぶん、正しい。


 陸一郎は、その二行を読んだ。


 何度も読んだ。


「わかっていたなら」


 声が途切れた。


 海一郎は、兄の手が震えるのを初めて見た。


     


 次の渡航まで、二日かかった。


 ポッドの点検。


 接続先の再計算。


 持ち帰った記録と、探査機の測定値の照合。


 海一郎はほとんど眠らずに作業し、陸一郎に寝台へ追いやられた。


 今度は、二人で行く。


 後席の機材箱を外し、座席を起こした。


 帰還に必要な機能は、どちらの席からも操作できるようにした。


 荷物は減らした。


 代わりに、小さな手提げ袋を一つ載せた。


「何?」


 海一郎が尋ねた。


「写真だ」


 陸一郎は袋を閉じた。


「向こうには、空一郎が子どもだった頃のものがないだろう」


     


 今回は、山の空き地ではなく、北の港の外れへ着くことになった。


 鉱山の地下で接続を保ち、探査機が確認した上空へ出口を定める。


 柊家の屋敷と、空一郎の記録を収めた旧邸は、そこから近かった。


 会社には、測量機材の搬入とだけ知らせた。


 蓮が手配した空き倉庫で、結たちは待っていた。


 空に細い歪みが生まれた。


 噴射音。


 見えない機体が向きを変え、港から離れるように降下した。


 陸一郎の前には、全周映像が広がっていた。


 海。


 岸壁。


 貨物船。


 幾本ものクレーン。


 光学迷彩を解除する直前、機体が港の正面を向いた。


 そこに、巨大な看板があった。


 柊の葉。


 その下の文字。


 Holly Olive Corporation。


 陸一郎は身を乗り出した。


 看板だけではない。


 船腹にも、倉庫にも、荷を積んだ車両にも、同じ印があった。


 海一郎が横顔を見た。


「空一郎の会社だそうだ」


 陸一郎は、しばらく答えなかった。


 弟を迎えに来た。


 その弟の名が、見渡す限りの景色に刻まれていた。


     


 結は、機体から降りた男を見た。


 海一郎より、少し背が高い。


 足元を確かめるように地面を踏み、空を見上げた。


 それから、結たちへ向き直った。


「陸一郎です」


 結は頭を下げた。


「柊結です」


「蓮です」


 陸一郎は二人の名を、ゆっくり繰り返した。


 覚えるように。


 間違えないように。


「空一郎の家族に、会わせてください」


 結の胸が詰まった。


 あなたも、その家族なのに。


 そう思ったが、言葉にならなかった。


「父と母が、待っています」


     


 旧邸の門は、開け放たれていた。


 律とアンナが、玄関の前に立っていた。


 陸一郎は足を止めた。


 律の顔を見つめる。


 目元から、口元へ。


 海一郎と同じように、そこに弟の何かを探していた。


 律が頭を下げた。


「ようこそ、おいでくださいました」


 陸一郎も頭を下げた。


 それから、困ったように笑った。


「すみません。何と呼べばいいのか」


「律で、お願いします」


「では、私も陸一郎で」


 二人は握手をした。


 どちらが年長者なのか。


 誰が誰の祖先に当たるのか。


 考え始めると、挨拶ひとつできなくなる。


 アンナが静かに言った。


「まず、お茶を。長い旅でしたでしょう」


 陸一郎は、その言葉に頷いた。


     


 机の上へ置かれたのは、家系図ではなかった。


 陸一郎が持ってきた、小さな写真だった。


 三人の少年。


 いちばん幼い子は、頬に泥をつけている。


「これが、空一郎です」


 結が身を寄せた。


 蓮も覗き込んだ。


「何歳ですか」


「六つか、七つか」


 陸一郎は写真を指した。


「裏の排水溝へ入ったんです。落とした玩具を取りに」


「一人で?」


「止めたんですが、入った。戻れなくなって、私が引っ張り出した」


 海一郎が言った。


「出てきて最初に言ったのが、『奥は思ったより広い』だった」


 蓮が、思わず笑った。


 笑ってから、口を押さえた。


 陸一郎も笑った。


「そういう弟でした」


 次の写真には、壊れた模型が写っていた。


 その横で、空一郎が祖父に叱られている。


「これは、何をしたの?」


 結が尋ねた。


「祖父の部品を借りた。返すつもりだったと言い張ったんですが、もう削ってしまっていた」


 結は顔を伏せた。


 蓮が姉を見た。


 陸一郎は、そのやり取りに気づいた。


「似た人が、いますか」


 結は答えず、蓮が小さく頷いた。


 部屋に笑いが広がった。


 空一郎の話をして、皆が笑った。


 そのことに気づいた瞬間、陸一郎は言葉を失った。


     


 午後、結は二人の兄を、空一郎の使っていた部屋へ案内した。


 机は修復のため別の場所にある。


 棚と、椅子と、庭へ開く窓が残っていた。


 窓辺に、支持枠をつけた義体が座っていた。


 CHUYUは海一郎を迎えたあと、こちらへ移されていた。


「陸一郎さん」


 結が言った。


「空一郎が、ずっと一緒にいた人です」


 陸一郎は近づいた。


『陸一郎。お会いできて、うれしく思います』


「弟を、ありがとう」


 言うと、声が崩れた。


 彼はそれを抑えようと、唇を結んだ。


『空一郎から、伝言を預かっています』


 陸一郎が顔を上げた。


 海一郎も動きを止めた。


『元の世界の家族と、接触できた場合に再生するよう、依頼された記録です』


 結は椅子を運んだ。


 陸一郎は、今度は座った。


「聞かせてください」


     


 最初に、風の音がした。


 葉の擦れる音。


 遠くで、誰かが笑っていた。


 それから、空一郎の声が聞こえた。


 若くはなかった。


 兄たちの知らない、年を重ねた声だった。


『兄さん。海一郎』


 陸一郎は、膝の上で両手を組んだ。


『こんなものを残しても、届くかわからないけど』


 息を整える音。


『もし、迎えに来てくれたなら、まず謝らないといけない』


 海一郎が俯いた。


『でも、謝ることばかり話すと、また兄さんに叱られそうだから、先に言います』


 短い笑い声があった。


『僕は、ここで幸せでした』


 陸一郎の指が、強く組み合わされた。


『会いたい』


 しばらく、風の音だけが続いた。


『でも、ここで会った人たちも、僕の家族になった』


 庭の向こうから、女の声がした。


 空一郎が、そちらへ返事をする。


 穏やかな、日常の声だった。


『いま行く』


 記録は、そこで一度途切れた。


 陸一郎は顔を上げられなかった。


 連れて帰るために来た。


 だが、弟には、呼ばれて戻る場所があった。


 自分たちの知らない、この家に。


     


 日が傾く頃、陸一郎は一人で庭へ出た。


 海一郎は追わなかった。


 結も、窓辺で見送った。


 古い木の下に、長椅子があった。


 陸一郎はそこへ腰を下ろした。


 手には、幼い三兄弟の写真を持っていた。


 遠くから、汽笛が聞こえた。


 港ではクレーンが動き、弟の残した印をつけた船が、ゆっくり岸壁を離れていった。


「大きくしすぎだろう」


 陸一郎は呟いた。


 返事はなかった。


 それでも、もう一度言った。


「帰り道を作れって、言ったのに」


 写真の中の空一郎は、泥だらけの顔で笑っていた。


 陸一郎は、それを両手で包んだ。


 ようやく、泣いた。

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