第110章 最初の宛名
青い帳面のことを、海一郎は忘れていた。
祖父の書斎。
夜更けの表示盤。
手紙かもしれないものを受け取っているのだと、善一は言った。
当時は、その言葉より、寝る時刻を過ぎても叱られなかったことの方が、うれしかった。
思い出したのは、弟の失踪から長い時間が経った夜だった。
海一郎は研究室の床に座り、空一郎の残した装置の記録を読み直していた。
また同じ箇所だった。
転送の直前、座標の補正値が跳ねる。
時刻設定は、祖母アヤの事故が起きた日を指していた。
そこまでは、何度確かめても変わらない。
なのに、接続先の状態を表す値だけが、計算の範囲から外れている。
「どこへ行ったんだよ」
声に出しても、返事はなかった。
机の隅に、古い写真が置かれていた。
祖父の書斎で撮った、三兄弟の写真。
陸一郎が椅子に座り、海一郎がその背に手を掛けている。空一郎は、二人の後ろで祖父の帳面を勝手に開こうとしていた。
青い表紙だった。
海一郎は立ち上がった。
柊家の食卓では、誰もすぐに席を立たなかった。
結が持ってきた写真は、中央に並べられていた。
律は長く考えてから、蓮へ尋ねた。
「会社として、いくら出せる」
蓮は結を見ず、答えた。
「安全な観測を再開する分なら、調整できます。それ以上は、設備と工程が出てからです」
「本社の委員会は?」
「移管の中止には従うでしょう。ただ、研究成果の扱いを曖昧にはしておけないと言ってきます」
律は頷いた。
結が口を開いた。
「曖昧にしないために、外の人を入れたい」
「誰を?」
「大学の物理学者。鉱山の保安技師。それから、魔法の実務を知る人。柊家とも会社とも、違う立場の人が要る」
蓮が書類へ目を落とした。
「費用は増える」
「ええ」
「その人たちが、止めると判断しても?」
結は膝の上で手を組んだ。
止められたくない。
それは変わらなかった。
だが、リディアが動けなくなった瞬間を、自分はすぐそばで見ていた。
「理由を確かめる。それでも危険なら、止める」
蓮はようやく姉を見た。
律が言った。
「当面の費用は、会社と家の支出を分ける。会社には用途を説明する。家から出したからといって、私たちだけで決められることにはしない」
アンナは、机の上の写真を揃えた。
「リディアさんにも、同じ席で話してもらいましょう」
結は頷いた。
会議は、それで終わると思った。
だが、父が写真の一枚を手に取った。
「この人たちは、自分の孫がこんな遠くに家族を残したと、まだ知らないのだな」
結は答えられなかった。
父は、善一とアヤの写真を静かに戻した。
観測が再開されたのは、それから三週間後だった。
坑道には、もう剝き出しの電線はなかった。
輪の両側へ設けた遮断板は、電源が落ちれば重りで降りる仕組みにした。人が輪の前に立たなくても、離れた場所から操作できた。
透明な石へ触れる必要もなくなった。
リディアは別室に座り、ごく弱い作用だけを与える。その状態を長く保つ役目は、輪の周囲に残されていた古い構造が担った。
用途のわからなかった溝の幾つかは、作用を逃がす経路だった。
土砂で塞がれていた部分を開けると、立ち上がりの急激な変化が小さくなった。
「古い施設を、半分詰まらせたまま動かしたわけか」
大学から来た物理学者は、図面にそう書き込んだ。
結は訂正しなかった。
新しい計測室の壁へ、その写しを貼った。
皆が見える場所に。
最初の接続で、輪の中に像は現れなかった。
二度目も同じだった。
三度目、闇の向こうに白い縁が見えた。
結は椅子の肘掛けを掴んだ。
隣で、蓮が時計を見ている。
「八秒」
床の一部。
机の脚。
画面が揺れ、消えた。
「十秒。終了」
助手が装置を止めた。
遮断板が降りる。
誰も立ち上がらなかった。
計器を読み、リディアの状態を確かめる。
異常がないとわかってから、結は深く息を吐いた。
「次は、こちらを動かす」
机の上には、小さな遮光器があった。
光を一度だけ遮る。
間を置いて、二度遮る。
相手が受信しているなら、自然の揺れと区別する手掛かりになる。
送る内容は、まだ名前ではなかった。
まず、届くかどうか。
四度目の接続で、表示盤が見えた。
右上に、欠けがあった。
結は計画通りに遮光器を動かした。
一度。
間を置いて、二度。
輪の中の像には、変化がなかった。
終了の合図が出る。
その直前、向こうの机の上で、何かが光った。
結は身を乗り出した。
「延長しない」
背後から、物理学者が言った。
結は手を止めた。
遮断板が降りた。
闇が、ただの石の輪へ戻る。
結は椅子から立たずに言った。
「記録を、すぐに」
向こうの世界で、善一は受信機の蓋を開けていた。
配線に異常はない。
試験用の発振器も切ってある。
それなのに、外部入力の指示灯がともった。
一度。
短い間。
続いて、二度。
善一は手を止めた。
同じ形が繰り返された。
今度は帳面へ写さず、まず時計を見た。
記録を残す。
入力端子を切り替える。
指示灯は、消えなかった。
「……そこか」
善一は表示を拡大した。
通常の通信系統から入っているのではない。
休止中の実験装置、その観測部に直接、変化が生じていた。
彼は予備の記録器をつないだ。
次に、机のスタンドを動かした。
白い紙を立て掛け、その前で手を一度振った。
五度目の接続は、翌朝だった。
輪の中に、白い面があった。
昨日まではなかったものだった。
結が顔を上げる。
白い面の前を、影が横切った。
一度。
少し間を置いて、二度。
誰も声を出さなかった。
助手の鉛筆が、机から落ちた。
結は遮光器へ手を伸ばした。
「一度、二度」
自分へ言い聞かせるように呟き、昨日と同じ動きを送る。
向こうの影が止まった。
次に、三度動いた。
「記録」
蓮が言った。
その声も震えていた。
結は三度、光を遮った。
白い面が、向こう側へ引かれた。
袖が見えた。
人の手。
結は立ち上がった。
輪の向こうに、一人の男がいた。
写真より少し年を取った顔。
白髪の混じる髪。
眉を寄せ、こちらを見ようとしていた。
「善一……」
結の声は、装置のある部屋へ漏れただけだった。
向こうの男は、何かを言った。
聞こえなかった。
「あと四秒」
蓮の声。
結は遮光器を離し、机へ用意していた紙を掴んだ。
柊。
太い墨で書いた、一文字。
それを、観測部の前へ差し出した。
男の顔が変わった。
一歩、近づいてくる。
その口が、確かに動いた。
誰かの名を呼んだ。
遮断板が落ちた。
結は紙を掲げたまま、暗い輪を見つめていた。
善一は、動かなくなった装置の前に立っていた。
若い女だった。
像は粗く、細部はわからない。
それでも、最後に示した文字は読めた。
柊。
彼は書斎へ戻り、机の引き出しを開けた。
孫たちの写真が入っている。
陸一郎。
海一郎。
空一郎。
三人とも、まだ子どもだった。
善一は写真を置き、青い帳面を開いた。
先に受け取った不完全な符号の横へ、今夜見た文字を書いた。
柊。
その下へ、しばらく迷ってから記した。
若い女性。こちらの信号に応答。
孫たちに関係する者か。
廊下に、足音がした。
善一は帳面を閉じなかった。
地下室では、善一AIが記録映像を見ていた。
結は正面に座り、何も尋ねずに待っていた。
義体の右手は、作業台の上にあった。
昼間、蓮の指に触れた手だった。
『覚えている』
ようやく、善一AIが言った。
結の背筋が伸びた。
『あの文字を見た。だから、孫たちが関係していると考えた』
「私たちだったの?」
『そうだったのだろう』
結は目を閉じた。
探していた過去の信号。
それを送る側に、自分たちが立っていた。
だが、善一AIは続けた。
『ただ、君の顔を見た記憶はない。明るい形と、人らしい輪郭だけだ。こちらの映像より、向こうの像は不鮮明だったはずだ』
「では、まだ名前を」
結は机の紙を取った。
柊。
空一郎。
何度も書き直した文字だった。
『結』
善一AIが呼んだ。
『私が受け取ったものは、十分には読めなかった』
「ええ」
『君たちが精密に送っても、あの時代の私には、すべてを読み取れないかもしれない』
結は紙を見つめた。
「それでも、残してくれたのね」
『青い帳面に』
結は頷いた。
相手は、届いたものを捨てなかった。
それなら、続きを送れる。
海一郎が青い帳面を見つけたのは、夜明け前だった。
書斎から移された箱の、いちばん下。
表紙は擦れ、背の糸が一か所切れていた。
頁を開くと、祖父の字があった。
幼い頃には読めなかった計算式。
装置の構成。
日付。
海一郎は指で行を追った。
そして、止まった。
柊。
若い女性。こちらの信号に応答。
海一郎は椅子へ座った。
次の頁に、文字の断片があった。
空一郎の名。
読み取れなかった部分を示す空白。
その下に、祖父の推測がいくつも並んでいる。
家族内の実験か。
未来からの通信か。
海一郎は、その頁を撮影した。
陸一郎へ送る。
すぐに電話が鳴った。
「見つかったのか」
兄は挨拶をしなかった。
海一郎は、帳面を押さえた。
「行き先の手掛かりかもしれない」
「空一郎からか」
「まだ、わからない。でも、祖父さんは受け取っていた」
受話器の向こうで、何かを閉じる音がした。
「いま行く」
通話が切れた。
海一郎は帳面の頁を戻した。
記された受信時刻。
空一郎が出発した時刻。
その二つを、同じ画面へ入力する。
これまで誤差として除いていた値を、今度は残した。
計算が始まった。
画面の中で、一つの座標が定まらずに揺れ続けた。
海一郎は、それを見つめた。
時刻のずれではなかった。
場所の誤差でも、説明できなかった。
弟が出ていった先には、自分たちの装置が、まだ名前を与えていない隔たりがあった。




