↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時を継ぐ者たち The Heirs of Time  作者: しゅんたろう as Augai Moritz


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
112/127

第109章 祖父の手



 リディアは、結の顔を見るなり言った。


「その話、まだ誰にもしていないでしょうね」


 結は病室の入口で止まった。


 手には果物の籠があった。


「どの話?」


「私が皆を助けたとか、そういう話」


 窓際のベッドで、リディアは枕を背に座っていた。顔色は昨日よりよかったが、湯呑みを持つ右手には、まだわずかな震えがあった。


 結は椅子を寄せた。


「していない」


「よかった」


「でも、あなたが押さえていなければ——」


「私も、何をしていたのか、よくわからないの」


 結は口を閉じた。


 リディアは湯呑みを膝へ置いた。


「あの石に残っていたものを、少し確かめるつもりだった。手を出したら、向こうから急に重さが来た。支えたというより、離せなくなったの」


「……そうだったの」


「英雄にされると、次もできると思われるでしょう」


 結は籠を床へ下ろした。


「次は、あの場に立たせない」


「それも、私抜きで決めないで」


 声は弱かった。


 けれど、結は頷いた。


 リディアはそこで初めて、彼女の抱えていた封筒へ目を向けた。


「持ってきた?」


 結は写真を取り出した。


 輪の中央に写った、歪んだ像。


 それから、古い映像から写した研究室の表示盤。


 リディアは二枚を並べた。


「似ているわね」


「ええ」


「でも、こちらから見えたなら、向こうからも?」


 結は顔を上げた。


 考えなかったわけではない。


 ただ、その問いを口にすると、出来事が急に近くなる気がしていた。


「……その可能性は、ある」


     


 研究所へ戻ると、地下の扉が開いていた。


 蓮が階段の下で待っていた。


 その奥に、見知らぬ男が二人いる。


 作業台の義体を、布の上から測っていた。


「何をしているの」


 結の声に、男たちは振り返った。


 一人が巻尺を下ろした。


「移送前の確認です」


 結は階段を降りきった。


「誰が移送すると?」


 男が書類を差し出した。


 本社の特別資産委員会。


 柊家から寄託された旧機材について、事故防止と保全を目的として、中央保管庫へ一時移管する。


 一覧には転送機材、記録装置、義体、そしてCHUYUと善一AIを収めた中枢機器が並んでいた。


「全部?」


「関連品を一括して保管する方針です」


「この二つは、動いているのよ」


 結は壁の機器を指した。


「ただの保管品ではない」


「ですから、専門の技師を手配しております」


「専門?」


 男は返事をしなかった。


 この時代に、二つのAIを移し替えられる技師などいない。


 結が書類を握り締めると、蓮がその手へ触れた。


「まだ、何も外させていない」


「あなたは知っていた?」


「来たのは、ついさっきだ」


「でも、会社の決定なんでしょう」


「だから、いま確かめている」


 蓮は男へ向き直った。


「寄託者の承諾書は?」


「委員会の承認があります」


「委員会は、寄託者ではありません」


「柊常務からは、緊急の措置として——」


「叔父さんが、何と言ったかではなく」


 蓮の声が低くなった。


「動かす権限が、どこにあるかを聞いています」


 地下室が静かになった。


 壁から、CHUYUの声がした。


『現在進行中の処理があります。予告なく電源を遮断すると、記録が損なわれる可能性があります』


 男の一人が、機器を見た。


 初めて、そこから誰かが話していることに気づいたような顔だった。


     


 律が来るまで、四十分かかった。


 その間、結は作業台の前から動かなかった。


 蓮は二人の男を階上へ上げ、委員会へ電話をかけていた。


 父は地下へ降りると、まず義体を見た。


 次に、結の手の中の書類を受け取った。


 読んでいる間、誰も喋らなかった。


「この移管は、止める」


 律は言った。


 結の肩から、力が抜けた。


 父は続けた。


「ただし、事故後の管理を、これまで通りにはできない」


「坑道は閉じている」


「坑道だけの話ではない」


 律は壁の機器へ目を向けた。


「何を持ち出せるか、誰が触れてよいか。私も、結も、決めずに来た」


 結は言い返せなかった。


 義体の修復を始めた日、自分は誰の承認も取らなかった。


 古い部品を坑道へ運んだときも同じだった。


「父さんは、叔父さんと話すの?」


 蓮が尋ねた。


「ああ」


「写真も、もう渡っている」


 律は息子を見た。


 蓮は階上から持ってきた紙を渡した。


 事故報告の送付先一覧だった。


 その一つに、太い鉛筆で丸がついていた。


「港湾でも、鉄道でもない。あれが輸送に使えると思った人は、必ず来る」


 結は弟を見た。


 彼の頬には、寝不足の影があった。


 律は書類を畳んだ。


「今夜、家で話そう。二人とも来なさい」


     


 義体の共有制御の試験は、その日の予定表に入っていた。


 結は中止するつもりだった。


 だが、時計職人は定刻に来た。


 廊下に残る作業員の足跡を見てから、地下の机へ道具を置いた。


「今日は、やめますか」


 結は作業台を見た。


 右手の修復は進んでいた。


 動くのは、まだ指の一部だけだった。


 腕を上げることも、顔を向けることもできない。


 けれど、制御をCHUYUから切り離し、善一AIへ渡すための仕組みは、図面と模擬試験の上では確かめられていた。


『予定通り、接続の確認だけ行うことを提案します』


 CHUYUが言った。


 善一AIは何も言わなかった。


 結は椅子へ座った。


「指一本。短時間だけ」


 職人が頷いた。


「それなら、始めましょう」


     


 二つのAIが同時に動かそうとしないよう、切替器は機械式にしてあった。


 一方を切らなければ、もう一方へつながらない。


 結はCHUYUに確認した。


『右手の制御を停止しました』


 蓋のついた切替器を開く。


 結が取っ手を動かすと、接点が乾いた音を立てた。


「善一。こちらの状態は読める?」


『……少し待ってくれ』


 結は待った。


 義体は動かなかった。


『指の位置は、わかる。だが、力の値が落ち着かん』


「こちらで上限を掛けている。強くは動かせない」


『それは助かる』


 結は画面の数値を見た。


 乱れが、小さくなっていく。


『右手の下にあるのは、布かね』


「ええ」


『触れていると、わかる』


 結は顔を上げた。


 時計職人も、工具を持つ手を止めた。


 善一AIが、もう一度言った。


『わかるよ』


 人差し指が動いた。


 布の上を、爪の幅ほど滑った。


 止まる。


 それから、親指へ近づいた。


 結は呼吸を忘れていた。


「熱は、上がっていない」


 職人が小声で告げた。


 結は頷いた。


「善一、いったん戻して」


 指がゆっくり開いた。


 結は接続を切った。


 地下室には、冷却機の音だけが残った。


     


『妙なものだね』


 いつもの壁の機器から、善一AIが言った。


『記憶の中では、私は何万回も手を動かしている。だが、いまの一度は、知らない動きだった』


 結は記録へ時刻を書いた。


「怖かった?」


『少し』


 その返事が意外で、結は鉛筆を止めた。


『君の指を挟まないかとね』


 結は笑った。


 笑ったあと、昨夜から机に置いたままの写真へ目を向けた。


 善一とアヤ。


 研究室の棚に飾られていた、小さな額縁の複写だった。


 結はそれを取り、義体の右手の前へ置いた。


「もう一度、つないでもいい?」


『何をするのかね』


「写真に触れてみる?」


 返事は、すぐには来なかった。


 結は待った。


『頼む』


    


 切替器が鳴った。


 人差し指が、ゆっくり伸びた。


 写真の端に触れる。


 力が強すぎ、紙がわずかに曲がった。


 結は手を出しかけ、止めた。


 指の力が抜けた。


 今度は、紙を押さえるだけになった。


『これは、像があるのだね』


「ええ」


『触っても、顔まではわからん』


「あなたたちは、並んで立っている。アヤは、白い上着を着ている」


『研究室で撮ったものだ』


 指は、そのまま動かなかった。


『彼女は、写真を撮る前に、私の襟を直した』


 結は写真を見た。


 男の襟元は整っていた。


『その手が、冷たかった』


 時計職人が静かに目を伏せた。


 結は何も尋ねなかった。


 善一AIの記憶が、本当にそこまで残っていたのか。


 写真から、いま組み立てられたものなのか。


 その区別を、この場で確かめる気にはなれなかった。


 ただ、右手の下で、紙が少し震えていた。


     


 夕方、CHUYUが事故の映像について、新たな照合結果を出した。


『表示盤の数値の一部を判読できました』


 結は急いで机へ戻った。


 画面には、拡大された白線があった。


 その隣に、古い転送装置の表示形式が並んでいる。


『右側は時刻表示と考えられます。ただし、日付は画面外です』


「同じ部屋の、いつかはわからない」


『はい。ただし、機器の配置が出発直前の記録とは異なります』


 結は二つの研究室を比べた。


 椅子の位置。


 机の上の箱。


 壁に掛かった配線。


 空一郎の記録では、右端にあった背の高い機器が、輪の向こうの像にはなかった。


 善一AIが言った。


『それは、実験台を増設する前だ』


 結は振り返った。


「出発より、前?」


『少なくとも、あの配置はそうだ』


 心臓が強く打った。


 表示盤の欠けはある。


 増設した機器は、まだない。


 部屋の記録をたどれば、時期を絞れるかもしれない。


 結は手帳を開き、日付を探した。


 頁をめくる。


 部品の受領。


 装置の組立。


 実験台の移動。


 その途中で、善一AIが声を上げた。


『待ちなさい』


 結の手が止まった。


『あの頃、私は、説明のつかない信号を受け取っている』


 室内の音が遠くなった。


「空一郎から?」


『わからなかった』


 善一AIの声は、ゆっくりだった。


『欠けた符号と、文字らしい形があった。孫たちの誰かが、未来で何かをしたのかもしれないと思った』


 結は、机の上へ目を落とした。


 柊。


 空一郎。


 欠けても残るようにと、自分が書いた送信案。


 その紙の端を、さっきまで善一の右手が押さえていた。


「その信号は、ここに記録がある?」


『受信波形そのものは、私の保存対象に含まれていない。だが、受け取った記憶はある』


 結は椅子へ座った。


 自分たちが送った信号だとは、まだ言えない。


 空一郎の試験が届いたのかもしれない。


 別の何かだったのかもしれない。


 それでも、ずっと空白だと思っていた向こう側に、受け取った人の記憶があった。


「何と書いてあったの」


 善一AIは答えた。


『全部は読めなかった。だから、書き写しておいた』


「どこへ?」


『書斎の机だ。青い表紙の帳面に』


     


 その夜の家族の話し合いに、結は写真を三枚持っていった。


 輪の向こうの研究室。


 出発前の研究室。


 そして、善一とアヤ。


 律とアンナ、蓮が、食卓の向こうに座っていた。


 結は一枚ずつ置いた。


「研究を、続けたい」


 蓮が何か言いかけた。


 結は弟を見た。


「ただし、会社のものを、私の判断で使う形は終わりにする。リディアにも、もう危険を引き受けさせない。止める仕組みを作って、外の人にも確かめてもらう」


 律は黙って聞いていた。


「そのための費用と、人が要る」


 結は最後の写真を指さした。


「私は、始祖を探しているつもりだった。でも、向こうにも、探していた人がいる」


 アンナが写真を手に取った。


 蓮は、研究室の像から目を離さなかった。


「つながった先が、出発より前なら」


 弟が言った。


「向こうでは、まだ空一郎は帰ってこなくなっていないのか」


「そうかもしれない」


「では、何を伝えるの?」


 結は答える前に、父を見た。


 その問いには、装置を作るだけでは済まない重さがあった。


「まず、彼がこの世界で生きたことを」


 結は言った。


「一人ではなかったことを、伝えたい」


     *


 その夜から、およそ一世紀半を隔てた、別の世界。


 葛城善一の書斎で、小さな受信灯がともった。


 善一は、読んでいた論文を机へ伏せた。


 予定した試験はない。


 研究室の装置も、待機状態のはずだった。


 表示盤に、短い線が現れた。


 消える。


 また現れる。


 善一は青い表紙の帳面を引き寄せた。


 時刻を書き、波形を写す。


 雑音に混じる形を、一つずつ拾った。


 読める文字は、まだなかった。


 それでも彼は、装置を切らなかった。


 廊下から、幼い子どもの声がした。


「おじいちゃん、何してるの?」


 善一は入口を振り返った。


 寝間着姿の孫が、扉の隙間から覗いていた。


「手紙かもしれないものを、受け取っているんだよ」


「誰から?」


 善一は、もう一度表示盤を見た。


 細い光が、闇の中を走った。


「それを、いま調べている」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。