第109章 祖父の手
リディアは、結の顔を見るなり言った。
「その話、まだ誰にもしていないでしょうね」
結は病室の入口で止まった。
手には果物の籠があった。
「どの話?」
「私が皆を助けたとか、そういう話」
窓際のベッドで、リディアは枕を背に座っていた。顔色は昨日よりよかったが、湯呑みを持つ右手には、まだわずかな震えがあった。
結は椅子を寄せた。
「していない」
「よかった」
「でも、あなたが押さえていなければ——」
「私も、何をしていたのか、よくわからないの」
結は口を閉じた。
リディアは湯呑みを膝へ置いた。
「あの石に残っていたものを、少し確かめるつもりだった。手を出したら、向こうから急に重さが来た。支えたというより、離せなくなったの」
「……そうだったの」
「英雄にされると、次もできると思われるでしょう」
結は籠を床へ下ろした。
「次は、あの場に立たせない」
「それも、私抜きで決めないで」
声は弱かった。
けれど、結は頷いた。
リディアはそこで初めて、彼女の抱えていた封筒へ目を向けた。
「持ってきた?」
結は写真を取り出した。
輪の中央に写った、歪んだ像。
それから、古い映像から写した研究室の表示盤。
リディアは二枚を並べた。
「似ているわね」
「ええ」
「でも、こちらから見えたなら、向こうからも?」
結は顔を上げた。
考えなかったわけではない。
ただ、その問いを口にすると、出来事が急に近くなる気がしていた。
「……その可能性は、ある」
研究所へ戻ると、地下の扉が開いていた。
蓮が階段の下で待っていた。
その奥に、見知らぬ男が二人いる。
作業台の義体を、布の上から測っていた。
「何をしているの」
結の声に、男たちは振り返った。
一人が巻尺を下ろした。
「移送前の確認です」
結は階段を降りきった。
「誰が移送すると?」
男が書類を差し出した。
本社の特別資産委員会。
柊家から寄託された旧機材について、事故防止と保全を目的として、中央保管庫へ一時移管する。
一覧には転送機材、記録装置、義体、そしてCHUYUと善一AIを収めた中枢機器が並んでいた。
「全部?」
「関連品を一括して保管する方針です」
「この二つは、動いているのよ」
結は壁の機器を指した。
「ただの保管品ではない」
「ですから、専門の技師を手配しております」
「専門?」
男は返事をしなかった。
この時代に、二つのAIを移し替えられる技師などいない。
結が書類を握り締めると、蓮がその手へ触れた。
「まだ、何も外させていない」
「あなたは知っていた?」
「来たのは、ついさっきだ」
「でも、会社の決定なんでしょう」
「だから、いま確かめている」
蓮は男へ向き直った。
「寄託者の承諾書は?」
「委員会の承認があります」
「委員会は、寄託者ではありません」
「柊常務からは、緊急の措置として——」
「叔父さんが、何と言ったかではなく」
蓮の声が低くなった。
「動かす権限が、どこにあるかを聞いています」
地下室が静かになった。
壁から、CHUYUの声がした。
『現在進行中の処理があります。予告なく電源を遮断すると、記録が損なわれる可能性があります』
男の一人が、機器を見た。
初めて、そこから誰かが話していることに気づいたような顔だった。
律が来るまで、四十分かかった。
その間、結は作業台の前から動かなかった。
蓮は二人の男を階上へ上げ、委員会へ電話をかけていた。
父は地下へ降りると、まず義体を見た。
次に、結の手の中の書類を受け取った。
読んでいる間、誰も喋らなかった。
「この移管は、止める」
律は言った。
結の肩から、力が抜けた。
父は続けた。
「ただし、事故後の管理を、これまで通りにはできない」
「坑道は閉じている」
「坑道だけの話ではない」
律は壁の機器へ目を向けた。
「何を持ち出せるか、誰が触れてよいか。私も、結も、決めずに来た」
結は言い返せなかった。
義体の修復を始めた日、自分は誰の承認も取らなかった。
古い部品を坑道へ運んだときも同じだった。
「父さんは、叔父さんと話すの?」
蓮が尋ねた。
「ああ」
「写真も、もう渡っている」
律は息子を見た。
蓮は階上から持ってきた紙を渡した。
事故報告の送付先一覧だった。
その一つに、太い鉛筆で丸がついていた。
「港湾でも、鉄道でもない。あれが輸送に使えると思った人は、必ず来る」
結は弟を見た。
彼の頬には、寝不足の影があった。
律は書類を畳んだ。
「今夜、家で話そう。二人とも来なさい」
義体の共有制御の試験は、その日の予定表に入っていた。
結は中止するつもりだった。
だが、時計職人は定刻に来た。
廊下に残る作業員の足跡を見てから、地下の机へ道具を置いた。
「今日は、やめますか」
結は作業台を見た。
右手の修復は進んでいた。
動くのは、まだ指の一部だけだった。
腕を上げることも、顔を向けることもできない。
けれど、制御をCHUYUから切り離し、善一AIへ渡すための仕組みは、図面と模擬試験の上では確かめられていた。
『予定通り、接続の確認だけ行うことを提案します』
CHUYUが言った。
善一AIは何も言わなかった。
結は椅子へ座った。
「指一本。短時間だけ」
職人が頷いた。
「それなら、始めましょう」
二つのAIが同時に動かそうとしないよう、切替器は機械式にしてあった。
一方を切らなければ、もう一方へつながらない。
結はCHUYUに確認した。
『右手の制御を停止しました』
蓋のついた切替器を開く。
結が取っ手を動かすと、接点が乾いた音を立てた。
「善一。こちらの状態は読める?」
『……少し待ってくれ』
結は待った。
義体は動かなかった。
『指の位置は、わかる。だが、力の値が落ち着かん』
「こちらで上限を掛けている。強くは動かせない」
『それは助かる』
結は画面の数値を見た。
乱れが、小さくなっていく。
『右手の下にあるのは、布かね』
「ええ」
『触れていると、わかる』
結は顔を上げた。
時計職人も、工具を持つ手を止めた。
善一AIが、もう一度言った。
『わかるよ』
人差し指が動いた。
布の上を、爪の幅ほど滑った。
止まる。
それから、親指へ近づいた。
結は呼吸を忘れていた。
「熱は、上がっていない」
職人が小声で告げた。
結は頷いた。
「善一、いったん戻して」
指がゆっくり開いた。
結は接続を切った。
地下室には、冷却機の音だけが残った。
『妙なものだね』
いつもの壁の機器から、善一AIが言った。
『記憶の中では、私は何万回も手を動かしている。だが、いまの一度は、知らない動きだった』
結は記録へ時刻を書いた。
「怖かった?」
『少し』
その返事が意外で、結は鉛筆を止めた。
『君の指を挟まないかとね』
結は笑った。
笑ったあと、昨夜から机に置いたままの写真へ目を向けた。
善一とアヤ。
研究室の棚に飾られていた、小さな額縁の複写だった。
結はそれを取り、義体の右手の前へ置いた。
「もう一度、つないでもいい?」
『何をするのかね』
「写真に触れてみる?」
返事は、すぐには来なかった。
結は待った。
『頼む』
切替器が鳴った。
人差し指が、ゆっくり伸びた。
写真の端に触れる。
力が強すぎ、紙がわずかに曲がった。
結は手を出しかけ、止めた。
指の力が抜けた。
今度は、紙を押さえるだけになった。
『これは、像があるのだね』
「ええ」
『触っても、顔まではわからん』
「あなたたちは、並んで立っている。アヤは、白い上着を着ている」
『研究室で撮ったものだ』
指は、そのまま動かなかった。
『彼女は、写真を撮る前に、私の襟を直した』
結は写真を見た。
男の襟元は整っていた。
『その手が、冷たかった』
時計職人が静かに目を伏せた。
結は何も尋ねなかった。
善一AIの記憶が、本当にそこまで残っていたのか。
写真から、いま組み立てられたものなのか。
その区別を、この場で確かめる気にはなれなかった。
ただ、右手の下で、紙が少し震えていた。
夕方、CHUYUが事故の映像について、新たな照合結果を出した。
『表示盤の数値の一部を判読できました』
結は急いで机へ戻った。
画面には、拡大された白線があった。
その隣に、古い転送装置の表示形式が並んでいる。
『右側は時刻表示と考えられます。ただし、日付は画面外です』
「同じ部屋の、いつかはわからない」
『はい。ただし、機器の配置が出発直前の記録とは異なります』
結は二つの研究室を比べた。
椅子の位置。
机の上の箱。
壁に掛かった配線。
空一郎の記録では、右端にあった背の高い機器が、輪の向こうの像にはなかった。
善一AIが言った。
『それは、実験台を増設する前だ』
結は振り返った。
「出発より、前?」
『少なくとも、あの配置はそうだ』
心臓が強く打った。
表示盤の欠けはある。
増設した機器は、まだない。
部屋の記録をたどれば、時期を絞れるかもしれない。
結は手帳を開き、日付を探した。
頁をめくる。
部品の受領。
装置の組立。
実験台の移動。
その途中で、善一AIが声を上げた。
『待ちなさい』
結の手が止まった。
『あの頃、私は、説明のつかない信号を受け取っている』
室内の音が遠くなった。
「空一郎から?」
『わからなかった』
善一AIの声は、ゆっくりだった。
『欠けた符号と、文字らしい形があった。孫たちの誰かが、未来で何かをしたのかもしれないと思った』
結は、机の上へ目を落とした。
柊。
空一郎。
欠けても残るようにと、自分が書いた送信案。
その紙の端を、さっきまで善一の右手が押さえていた。
「その信号は、ここに記録がある?」
『受信波形そのものは、私の保存対象に含まれていない。だが、受け取った記憶はある』
結は椅子へ座った。
自分たちが送った信号だとは、まだ言えない。
空一郎の試験が届いたのかもしれない。
別の何かだったのかもしれない。
それでも、ずっと空白だと思っていた向こう側に、受け取った人の記憶があった。
「何と書いてあったの」
善一AIは答えた。
『全部は読めなかった。だから、書き写しておいた』
「どこへ?」
『書斎の机だ。青い表紙の帳面に』
その夜の家族の話し合いに、結は写真を三枚持っていった。
輪の向こうの研究室。
出発前の研究室。
そして、善一とアヤ。
律とアンナ、蓮が、食卓の向こうに座っていた。
結は一枚ずつ置いた。
「研究を、続けたい」
蓮が何か言いかけた。
結は弟を見た。
「ただし、会社のものを、私の判断で使う形は終わりにする。リディアにも、もう危険を引き受けさせない。止める仕組みを作って、外の人にも確かめてもらう」
律は黙って聞いていた。
「そのための費用と、人が要る」
結は最後の写真を指さした。
「私は、始祖を探しているつもりだった。でも、向こうにも、探していた人がいる」
アンナが写真を手に取った。
蓮は、研究室の像から目を離さなかった。
「つながった先が、出発より前なら」
弟が言った。
「向こうでは、まだ空一郎は帰ってこなくなっていないのか」
「そうかもしれない」
「では、何を伝えるの?」
結は答える前に、父を見た。
その問いには、装置を作るだけでは済まない重さがあった。
「まず、彼がこの世界で生きたことを」
結は言った。
「一人ではなかったことを、伝えたい」
*
その夜から、およそ一世紀半を隔てた、別の世界。
葛城善一の書斎で、小さな受信灯がともった。
善一は、読んでいた論文を机へ伏せた。
予定した試験はない。
研究室の装置も、待機状態のはずだった。
表示盤に、短い線が現れた。
消える。
また現れる。
善一は青い表紙の帳面を引き寄せた。
時刻を書き、波形を写す。
雑音に混じる形を、一つずつ拾った。
読める文字は、まだなかった。
それでも彼は、装置を切らなかった。
廊下から、幼い子どもの声がした。
「おじいちゃん、何してるの?」
善一は入口を振り返った。
寝間着姿の孫が、扉の隙間から覗いていた。
「手紙かもしれないものを、受け取っているんだよ」
「誰から?」
善一は、もう一度表示盤を見た。
細い光が、闇の中を走った。
「それを、いま調べている」




