第108章 輪の底にあったもの
坑道の奥で壁が崩れたのは、結が到着する二十分前だった。
怪我人は出なかった。
支柱を点検していた作業員が、石の向こうに空洞を見つけ、皆を下がらせていたからだった。
結が車を降りると、助手が駆けてきた。
「奥へ続いています」
「どこが?」
「輪の、裏です」
結は鞄を持ったまま坑口へ向かった。
蓮に腕を掴まれた。
「先に保安係が入る」
「わかってる」
「いま、通り過ぎようとした」
結は足を止めた。
弟の手が離れた。
坑道から、湿った土の匂いが流れてきた。
崩れたのは岩壁ではなかった。
古い石組みの隙間へ、後の時代に詰められた土砂だった。
取り除くと、人が屈んで通れるほどの開口部が現れた。奥には段があり、地下へ続いていた。
結は保安係の後ろを歩いた。
リディアが続き、最後に蓮が降りてくる。
段は、途中から泥に埋もれていなかった。
乾いた靴音が響いた。
灯りが、広い床を照らした。
結は立ち止まった。
これまで測っていた石の輪は、上端の一部にすぎなかった。
床の中央から、大きな円弧が立ち上がっていた。
人が二人並んでくぐれるほどの内径。その両脇には低い台があり、壁際から何本もの溝が集まっている。
結が灯りを動かすと、輪の内側に埋め込まれた細い金属が光った。
「……機械だったのね」
リディアが呟いた。
蓮は、輪より先に床を見ていた。
「ここを掘った人たちは、何も持ち帰らなかったのか」
隅に、折れたつるはしが落ちていた。
その近くには、採掘に使う古い木製の札があった。
誰かが、ここまで来ていた。
そして、再び埋めた。
低い台の一つに、円形の窪みがあった。
結は腰を屈めた。
外周に、細かな切り欠き。
中央には、黒ずんだ接点のようなものが並んでいる。
見覚えがあった。
結は鞄を開け、古い転送装置の図面を出した。
頁をめくる手が速くなった。
空一郎の装置と、同じ形ではない。
けれど、機器を保持する位置と、周囲から隔てる構造が似ていた。
「接続台かもしれない」
「何をつなぐ?」
蓮が尋ねた。
「ここへ来たものを」
結は図面と窪みを交互に見た。
この輪だけで、行き先を決められるとは思えなかった。
時計も、座標を指定する機構も見当たらない。
その代わり、外へ広がろうとするものを、一か所へ集めるように溝が刻まれていた。
リディアが壁へ近づいた。
「結、こっち」
灯りの下に、文字が現れた。
彼女の家の帳面と同じ、古い綴りだった。
リディアは、指を触れずに行を追った。
「『渡る者に道を与えるにあらず』……」
次の行は、一部が欠けていた。
「『隔たりの……揺らぎを鎮める』」
結は顔を上げた。
完成した転送装置ではない。
装置を働かせるための場所。
空一郎が、この世界でどうしても再現できなかった条件を、この施設が補うのだとしたら。
「CHUYUに見せたい」
言ってから、結は自分の声が大きかったことに気づいた。
午後には、地下室から運び出した通信機が坑道へ据えられた。
映像を送ることはできなかった。
結が寸法を読み上げ、助手が写真を撮り、リディアが碑文を写した。
蓮は入口で人の出入りを記録させた。
発見の知らせは、すでに本社へ届いていた。
追加の係員が二人来たが、弟は調査区域の手前で止めていた。
「写真は、整理してから渡します。いまは足場が悪い」
結には、その声が遠くに聞こえた。
手元の受話器から、CHUYUの声がした。
『寸法を、もう一度お願いします』
結は読んだ。
次に、溝の配置。
輪の厚さ。
金属の埋め込まれた位置。
しばらく返事がなかった。
「CHUYU?」
『保存されている転送試験の記録と、一致する比率があります』
結は受話器を握り直した。
『部材の形状は異なります。ただし、接続を安定させるために空一郎が計算していた配置と、共通する部分があります』
善一AIの声が割り込んだ。
『結。その台に、まだ何も置くな』
「置いていない」
『よろしい。まず、輪の反対側を調べなさい。左右が対になっているなら、もう一方にも制御する場所があるはずだ』
結は灯りを持ち上げた。
向こう側の台は、薄い土に覆われていた。
リディアが刷毛を取り、ゆっくり払った。
何かが光った。
透明な石だった。
掌より少し大きく、台の中へ半ば埋め込まれている。
リディアの手が止まった。
「これ、生きている」
結は彼女を見た。
言い直すのを待った。
「ごめんなさい。そういう意味ではなくて……いまも、作用が残っている」
受話器から、善一AIの声がした。
『触れるな』
そのとき、台の奥で乾いた音がした。
床の溝に、淡い光が走った。
結は反射的に後ずさった。
リディアは動かなかった。
片手を台の上へ差し出し、何かを押さえるように肩へ力を込めていた。
「離れて」
「あなたも!」
「いま離すと、広がる」
輪の内側で、空気が歪んだ。
向こうの壁が、波打つ水越しのように見えた。
計測机の記録器が、激しく紙を掻いた。
助手が電源へ走った。
「切りました!」
光は消えなかった。
発電機の音だけが、遠くで途切れた。
結は受話器を落とした。
床へ這い、リディアの脇に出る。
透明な石の下に、薄い板が落ち込んでいた。
支えていた堆積物を払ったために、古い部材が元の位置へ戻ったのだった。
「ここ?」
リディアは歯を食いしばったまま頷いた。
結は工具を差し込んだ。
動かない。
蓮が彼女の肩を押し退け、長い梃子を差し入れた。
「どっちへ?」
「上。少しだけ!」
金属が軋んだ。
床の光が、一度強くなった。
輪の中央に、黒い面が現れた。
奥行きのない闇だった。
そこへ、一本の白い線が横切った。
文字のように見えた。
結が顔を上げる。
次の瞬間、板が浮いた。
光が消えた。
リディアが膝をついた。
結は彼女の腕を掴んだ。
「聞こえる?」
「……聞こえる」
「痛いところは?」
「頭。それから、腕」
蓮が外套を床へ敷いた。
リディアを座らせ、助手に医師を呼ばせる。
結は彼女の前へ屈んだ。
「触っていないのに」
リディアが呟いた。
「触っていなくても、近くにいた。私が——」
「結」
蓮の声だった。
「いまは、息をさせてあげて」
結は口を閉じた。
リディアの背へ手を添え、呼吸が落ち着くのを待った。
床には、受話器が転がっていた。
そこから、CHUYUが何度も名を呼んでいた。
リディアは町の病院へ運ばれた。
意識ははっきりしていた。
医師は一晩の安静を指示し、結にも帰るよう言った。
彼女は病室の外で、蓮から作業中止の書類を受け取った。
地下空間への立入停止。
保安確認が終わるまで、すべての作業を凍結する。
結は読んだ。
「必要な措置ね」
「署名を」
結は署名した。
蓮は受け取ったが、立ち去らなかった。
「姉さんは、見た?」
「何を」
「輪の中」
結は弟を見た。
廊下の向こうで、看護師が薬瓶を運んでいた。
「黒いところに、白い線があった」
「僕にも見えた」
蓮の声が低くなった。
「あれは、何だった?」
「わからない」
結は答えた。
今度のその言葉には、恐ろしさがあった。
夜、結が地下室へ戻ると、机の上に写真乾板の包みが届いていた。
助手が現像させたものだった。
事故の直前、全景を記録するために、カメラのシャッターが開かれていた。
長い露光の間に人が動いたため、床も、輪も、ひどくぶれていた。
だが、輪の中央にだけ、細い白線が写っていた。
結は拡大鏡を当てた。
横線。
その下に、短い縦線が数本。
文字かもしれない。
機械の目盛りかもしれない。
写真の傷である可能性もあった。
彼女は乾板を読み取り器へ置いた。
「CHUYU。これを見て」
画面に像が広がる。
補正され、傾きが直される。
善一AIが、突然言った。
『止めてくれ』
結の手が止まった。
「何?」
『その右端を、もう一度』
像が移動した。
白線の脇に、小さな暗い形があった。
斜めに切れた四角。
結には、何の形なのかわからなかった。
長い沈黙のあと、善一AIが言った。
『私の研究室には、表示盤の右上に欠けた箇所があった』
結は画面を見た。
『空一郎が、工具をぶつけた。交換するつもりで、そのまま使っていた』
「似ているだけかもしれない」
『そうだ』
善一AIは、すぐに答えた。
けれど、その先の声は、いつもと違っていた。
『似ているだけであっても、調べてほしい』
結は空一郎の記録を開いた。
出発前の映像。
祖父の研究室。
装置の点検。
何度も見たはずの背景を、今度は端から探した。
机の上には、工具と、飲みかけのカップがあった。
青年の手が画面を横切る。
その向こう。
大きな表示盤の右上に、斜めの欠けがあった。
結は二つの画像を並べた。
完全には重ならない。
事故の写真は粗く、歪みも大きい。
それでも、欠けの位置と、その下の固定ねじの間隔は合っていた。
椅子が音を立てた。
結は立っていた。
「つながった……?」
『まだ断定はできません』
CHUYUが言った。
『ただし、偶然の一致として扱うには、共通点が複数あります』
結は画面へ手を伸ばした。
指先は、冷たい表面に触れただけだった。
あの黒い面の向こうに、部屋があったのか。
空一郎が出てきた部屋。
家族が、彼を待っていた場所。
結はゆっくり手を下ろした。
「今日の手順は、二度と繰り返さない」
誰に向けたともなく言った。
「リディアが押さえなければ、何が起きたかわからない」
『はい』
「まず、止める方法を作る。それから、見るだけの接続を」
彼女は新しい帳面を開いた。
これまでの調査名では、もう足りなかった。
石の輪。
この世界の魔法に応じ、空一郎の装置と共通する条件を作る古い施設。
どこへでも行ける扉ではない。
だが、遠く隔たった世界へ接続するための足場にはなり得る。
結は表紙に書いた。
**Noös Gate。**
同じ夜、本社の資産管理部では、事故報告の写しが一通、役員用の封筒へ入れられていた。
添付された写真には、輪の中央の像が写っていた。
受け取った男は、長くそれを見た。
「柊家の旧保管品を使ったのか」
「はい。研究所への寄託品です」
「では、その目録を」
係員が退出する。
男は写真を伏せた。
机には、港湾会社の買収案と、国境鉄道の契約書が積まれていた。
その二つを脇へ寄せ、事故報告を中央に置いた。
結が最後に開いたのは、病院へ持っていくための小さな便箋だった。
何度か書き出して、消した。
見つかった、と知らせることは簡単だった。
あなたのおかげだ、と書くこともできた。
だが、そのどちらも、いま最初に伝えたい言葉ではなかった。
結は短く書いた。
――怖い思いをさせた。明日、顔を見に行きます。
そのあとに、一行添えた。
――輪の向こうに、部屋が見えたかもしれない。一緒に確かめてほしい。
封をして、机へ置く。
画面には、古い研究室が映っていた。
椅子の背。
壁の棚。
欠けた表示盤。
その映像を、善一AIは消さなかった。
『結』
「何?」
『左の棚の下に、写真がある』
結は目を凝らした。
小さな額縁だった。
男と、女が並んでいる。
『アヤだ』
結は椅子へ座った。
空一郎が会わせたかった人。
その人の顔が、いま初めて、彼女の前にあった。




