第107章 名を残す場所
書類の四頁目に、リディアの名はなかった。
結は最初から読み直した。
調査対象となる土地。
貸与された設備。
費用を負担する会社。
発見された構造物と、そこから得られる成果の扱い。
書かれていることは、どれも整っていた。
研究所が会社へ報告する義務も、その理由も理解できた。借りたものを借りたままにし、使った金の行方を説明しないわけにはいかない。
だが、リディアについては「調査協力者」とだけあった。
結は、その言葉に線を引いた。
欄外へ名前を書いた。
リディア。
それだけでは足りない気がして、さらに書き添えた。
共同研究者。
書いたあとで、結は机の前に座り直した。
自分も、同じことをしていた。
測定の手順は細かく残した。
紙を交換した時刻も、電圧も、坑道の気温も。
けれど、リディアがどのような立場でそこにいるのか、一度も書面にしなかった。
友人だから。
互いに知っているから。
その言葉で済ませていたことが、会社の書類では、別の意味になっていた。
昼前、結はリディアを研究所へ呼んだ。
机の上には、会社からの書類と、自分の観測帳を並べて置いた。
「先に、謝りたいことがある」
結が言うと、リディアは椅子を引く手を止めた。
「何?」
「あなたの仕事を、私がきちんと残していなかった」
結は書類を向けた。
リディアは、すぐには座らなかった。
数行読んでから、ゆっくり腰を下ろした。
「協力者」
「ええ」
「私も、そう呼ばれるものだと思っていたわ」
結は顔を上げた。
「でも、違うでしょう」
「測定も計算も、あなたがしている」
「何を測るか、あなたの話から決めたことが何度もある。輪の前で変化を起こしたのも、古い帳面を探してきたのも、あなたよ」
リディアは書類を見つめた。
結は、欄外の書き込みを指さした。
「共同研究者として、名前を入れてもらう」
「名前が入れば、何が変わるの?」
結は口を開き、閉じた。
それを、これから説明してもらうつもりだった。
リディアは責める顔をしていなかった。ただ、知りたがっていた。
「……いまは、全部は答えられない」
「なら、一緒に聞きたい」
「ええ」
「あなたから、あとで教えてもらうのではなくて」
結は頷いた。
リディアはようやく、外套を脱いだ。
本社の会議室には、窓が四つあった。
そのすべてから、会社の印が見えた。
向かいの倉庫。
駅へ続く貨物線。
通りを走る配送車。
結は書類を机へ置き、窓に背を向けた。
蓮はすでに来ていた。
先日の資産管理部の男と、法務を担当する女性が同席している。
律の席は、空いていた。
「父は来ないの?」
結が小声で尋ねると、蓮は椅子を引いた。
「最初から父さんが決めたら、僕たちは話を聞くだけになる」
結は、それ以上尋ねなかった。
リディアが隣へ座る。
資産管理部の男が、書類を揃えた。
「まず、こちらは調査の停止を求めるものではありません」
「ええ」
結は答えた。
「ただ、このままでは署名できません」
男の手が止まった。
結は四頁目を開いた。
「共同研究者の名前と、その人が持ち込んだ資料の扱いがありません」
「協力者に関する個別の契約は、研究所で整えていただく想定でした」
「その説明を、私は受けていません」
「では、説明が不足していました」
男は静かに言った。
結は、用意していた言葉を一つ失った。
もっと強く押し返されると思っていた。
法務の女性が、リディアへ顔を向けた。
「現在、研究所とは、どのような取り決めを?」
「旅費と食事代を受け取っています。測定の日は、家の仕事を休んで来ています」
「日当は?」
「ありません」
女性は書類へ目を落とした。
蓮も、結を見た。
結はその視線を受けた。
「私が、必要な手続きをしていませんでした」
会議は、予想していたより長くなった。
結は初め、名前の訂正を求めれば済むと思っていた。
実際には、名前の下へ書かなければならないことが、いくつもあった。
誰が持ってきた資料なのか。
複製を作ってよいか。
別の人へ見せるとき、誰の許可が要るか。
測定を続けるかどうかを、誰が決めるか。
事故が起きたとき、治療費をどこから出すか。
リディアが途中で言った。
「疲れたときに、やめられますか」
結は振り返った。
「もちろんよ」
「あなたには、そう言える。でも、会社から費用が出ていると、私が勝手に中止していいのか、わからなかった」
部屋が静かになった。
結は、坑道の椅子で震えていた友人の指を思い出した。
「測定の途中でも」
リディアは続けた。
「私が、危ないと感じたときに」
法務の女性が頷いた。
「その権限は、明記しましょう」
結は自分の観測帳を開いた。
中止条件の欄には、脈拍、手の震え、息切れと書いてあった。
そこへ、一行を加えた。
本人の申し出。
話が輪そのものの扱いへ移ると、蓮が身を起こした。
「土地と、出てきたものを、一緒に扱わない方がいいと思います」
資産管理部の男が尋ねた。
「会社の鉱区内で発見された構造物です」
「はい。でも、用途も範囲もわかっていない。鉱山設備として登録すれば、あとで別の扱いが必要になったとき、余計な手続きが増える」
「では、現段階では?」
「現状を保管する。掘り出したり、移したりする判断は、まだしない」
結は弟を見た。
「会社の所有だと決めないということ?」
「いま、決められることだけ決めるということ」
蓮は彼女へ顔を向けた。
「研究所にも、勝手に持ち出してほしくない」
「そんなことはしない」
「将来の人にも、同じことが言えるようにしたいんだ」
結は黙った。
自分が見つけたものだから、自分がいちばん大切に扱う。
そう思っていた。
けれど、その自分も、古い部品を箱へ入れ、十分な検査をしないまま山道を運んだのだった。
資産管理部の男が、修正事項を読み上げた。
共同研究者の立場を別途定める。
家から提供された資料は、提供者の所有とする。
構造物は、当面、現地で保全する。
研究成果の権利については、今回の書類では確定しない。
「ただし」
男は顔を上げた。
「費用を負担する会社として、報告を受ける権利と、研究継続の判断は残ります」
結は頷いた。
蓮も、そこでは何も言わなかった。
会社の金で進める限り、その問題は残る。
今日は、そこまでだった。
会議室を出ると、廊下の椅子に律が座っていた。
膝の上には新聞があった。
結は足を止めた。
「待っていたの?」
「別の用事が、早く終わった」
父は新聞を畳んだ。
その端は、何度も折り直したように柔らかくなっていた。
リディアへ会釈し、蓮から書類を受け取る。
数頁読んでから、律は結を見た。
「署名は?」
「修正版を確認してから」
「そうか」
父はそれだけ言った。
褒めもしなかった。
叱りもしなかった。
結は少し物足りなく、同時に、少し楽だった。
律はリディアへ向き直った。
「これまで、負担をお願いしていた」
リディアは背筋を伸ばした。
「私も、知りたくて来ています」
「それでも、休んだ日の暮らしは別だ。そこを曖昧にしてはいけなかった」
リディアは小さく頭を下げた。
結も、隣で頭を下げた。
その日の夕方、蓮は地下室へ来た。
今度は書類を持っていなかった。
「見に来た」
結は作業台へ振り返った。
義体の右手には、薄い紙片が置かれている。
人差し指を動かし、紙を押さえる。
離す。
それだけの試験だった。
蓮は近づいた。
「もう、物を持てるの?」
「押さえるだけ。持ち上げるのは、まだ」
『力の調整を確認しています』
CHUYUが答えた。
結は記録を取り、指令を送った。
人差し指が曲がる。
紙片が机に押さえられた。
蓮は屈み込み、その指を見た。
「CHUYU」
『はい』
「触ってもいい?」
『現在の状態では問題ありません。強い力は掛けないでください』
蓮は、自分の人差し指をそっと近づけた。
義体の指の甲へ触れる。
冷たかった。
だが、止まっていたものが、いまは結の指令に応じて動く。
蓮が手を引くと、結は紙を外した。
「次は、もう少し柔らかく止めたいの」
「柔らかく?」
「触れたものを、壊さないように」
蓮は頷いた。
そのあと、何か言おうとして、やめた。
結は気づいたが、尋ねなかった。
義体の保守記録を閉じたところで、CHUYUが声をかけた。
『空一郎の通信試験について、関連する記録が見つかりました』
結は顔を上げた。
「欠けた四十七秒?」
『その区間の記録ではありません。次の試験までの間に残された、個人用の音声です』
蓮が椅子を引いた。
「聞いても?」
結は頷いた。
機器から、小さな雑音が流れた。
何かを削る音がする。
金属ではなく、木のようだった。
やがて、空一郎の声がした。
『試験、何回目だったかな。CHUYUが覚えているから、いいか』
短く笑う声。
結は鉛筆を取った。
『出力は上げない。前のやつは、部品がもたない』
作業の音が止まった。
『父さんに届けば、装置の癖くらい、わかってくれると思う。でも、時刻が合っているかどうか……』
そこで、別の声が入った。
遠くから、誰かが空一郎を呼んでいた。
女の声だった。
『いま行く』
空一郎が答えた。
記録を切ろうとしたらしい、小さな接触音。
だが、音声は続いた。
『いや。名を先に入れよう』
結の鉛筆が止まった。
『数値だけ届いても、誰のものかわからない。空一郎って入れて、それから……柊も。向こうで僕を探してるなら、その方が』
声が途切れた。
最後に椅子を引く音がし、記録は終わった。
地下室は静かになった。
蓮が尋ねた。
「その次の試験では、名前を送ったの?」
『送信内容の変更記録があります。ただし、受信の成否は確認されていません』
結は画面へ目を向けた。
自分が考えたことを、空一郎も考えていた。
無事だと知らせる。
その前に、自分だとわかってもらう。
始祖の功績を伝える記録ではなかった。
帰ってこない青年が、家の人に見つけてもらうための名だった。
蓮が帰ったあと、結は一枚の紙を机へ置いた。
柊。
空一郎。
それぞれ、ゆっくり書いた。
この世界では、柊の文字はすでに印として知られている。
読めなくても、その形を知る人は多い。
けれど、向こうの世界でそれを見た人は、会社を思い浮かべない。
家を思い浮かべるのだろう。
結は、今日、会議室で書いたリディアの名を思い出した。
同じ書類でも、名が入ることで、誰の仕事かが変わる。
同じ数値でも、名が添えられることで、誰から届いたかが変わる。
「CHUYU。空一郎が送ろうとした内容を、順番ごとに出して」
古い記録が開かれた。
最初は、接続条件を表す数値。
次に、試験用の短い符号。
その後に、名前を加えた改訂。
結は一つずつ写した。
途中で善一AIが言った。
『私が受け取る立場なら、まず、偶然の雑音ではないことを確かめる』
「ええ」
『次に、誰が作ったのかを考える』
「名前が欠けていたら?」
『読めるところから推測するだろうね』
「間違えるかもしれない」
『もちろん』
結は紙へ目を落とした。
欠けた名。
ずれた時刻。
知っている家の文字。
受け取った人が、すべてを正しく理解するとは限らない。
それでも、捨てずに置いてくれることはあるかもしれない。
結は新しい頁を開いた。
表題には、こう書いた。
**欠けても、誰からかが残るように。**
その下へ、同じ名を、違う方法で記し始めた。
文字。
音。
繰り返す符号。
まだ、遠くへ送れるものは何もなかった。
坑道の輪で確かめられたのは、原因のわからない、小さな揺れだけだった。
結はそれを承知したうえで、準備を続けた。
いつか信号を載せられるなら、その短い時間を、何を言うか迷うために使いたくなかった。
書き終えた紙を、空一郎の手帳の横へ置く。
古い頁と新しい頁に、同じ文字が並んだ。
柊。
結は灯りを消す前に、その二つをもう一度見た。




