第8章 歓談 遠い国の音楽
その日の夕刻、空一郎は再びラグエルの書斎へ招かれた。
昼間の書簡は片づけられ、机の端に酒瓶と二つの杯が置かれていた。
「飲めるか」
「少しなら」
「ならば、少しにしておこう。ベイルと争ったあとに、酒とまで争う必要はない」
空一郎は笑った。
ラグエルの話し方も、昼間より柔らかかった。
杯に注がれた酒は赤く、香りは故郷のワインに似ていた。空一郎は少量を口へ含んだ。酸味が強く、あとから果実の甘さが残る。
「君の国では、誰が治めている」
ラグエルが尋ねた。
「国民が代表を選びます。その代表が、法律や予算を決める」
「血筋ではなく?」
「少なくとも、役職を継ぐ正式な理由にはなりません」
ラグエルは杯を持ったまま、少し考えた。
「選ぶ者が、政治を知らなければ?」
「問題になります」
「金を持つ者が、票を買えば?」
「それも、起こります」
「では、なぜその方法を使う」
空一郎は、すぐには答えなかった。
教科書の説明なら、幾つも思い出せた。しかし、この男が尋ねているのは、制度の名前ではなかった。
「間違ったときに、替えられるからだと思います」
「私が間違えば、王が私を罷免できる」
「王が間違えたら?」
ラグエルは、彼を見た。
空一郎は杯を置いた。
「失礼でしたか」
「いや。ここには、私と君しかいない」
当主は、書棚の方へ視線を動かした。
「ただ、その問いを、誰の前でも口にしてよいとは限らん」
「覚えておきます」
「君の制度も、容易ではなさそうだ」
「そうです。選べるだけで、よい政治になるわけではありません。情報が届くことも、反対する人が黙らされないことも必要です」
「人が、自分に不都合な話を聞く仕組みか」
「そう言えるかもしれません」
ラグエルは、低く笑った。
「それは、王にも領主にも難しい仕事だな」
窓の外では、庭師が道具を片づけていた。
ラグエルは、その姿を見ながら言った。
「私は、新しい考えを嫌っているわけではない。だが、土地を預かる以上、明日の食事を用意しなければならん。十年後によい制度になると言われても、その前に民が飢えれば、失敗だ」
「分かります」
「本当に?」
空一郎は言葉を止めた。
帰還装置のために、何年かかるか分からない計画を立てている自分には、その問いが痛かった。
「……まだ、分かっていない部分が多いです」
ラグエルは頷いた。
「その答えなら、話を続けられる」
彼は酒を少し注ぎ足した。
「この国には、ハイラスタ同盟という貴族の集まりがある。私も、以前は彼らと多くの仕事をした」
「今は?」
「対立することが増えた。職人に土地を貸すことも、商人から金を借りることも、血筋の秩序を崩すと言う」
「領地を豊かにしても?」
「豊かになった者が、自分の判断で動き始める。それが困る者もいる」
空一郎は、杯の中を見た。
「ラグエル卿は、それで困らないんですか」
「困ることもある」
当主は率直に答えた。
「だが、貧しい者だけに囲まれて、私一人が豊かであっても、長くは保たん」
その言葉には、善意だけではない、領主としての計算もあった。
空一郎は、その両方を聞いておこうと思った。
扉がノックされた。
アリステリアが入ってきた。昼間とは違い、落ち着いた紅色の服を着ていた。
「お話の途中でしたか」
「国の治め方を教わっていた」
ラグエルが答えた。
「もう、そんな話を?」
彼女は空一郎を見た。
「まだ、食べ物の名前も教えきれていませんのに」
「食べ物の話の方が、上手にできると思います」
空一郎が答えると、彼女は笑った。
卓上の皿を指す。
「では、これは?」
「……昨日、教わりました」
「名前は?」
彼は思い出せなかった。
耳の中でCHUYUが答えかけたが、空一郎は小さく首を振った。
「分かりません」
「正直でよろしいですね」
アリステリアは隣の椅子へ座り、菓子の名をもう一度、ゆっくり教えた。
ラグエルは、そのやり取りを黙って見ていた。
数日後、空一郎は音楽室へ案内された。
中央に、鍵盤楽器が置かれていた。
木製の筐体には蔓草の彫刻がある。蓋の内側から弦が見え、鍵を押すと、小さな機構が動いた。
「クラヴィーナです」
アリステリアが言った。
「お国にも、こうしたものがありますか」
「よく似た楽器があります」
「弾けます?」
「子どものころ、習いました。最近は、あまり」
空一郎は許しを得て、一つずつ音を出した。
鍵の並びは似ているが、幅も、押した感触も違う。低音の数が足りず、音を伸ばす機構にも制限があった。
「そのまま弾くのは、難しいな」
《音域に合わせて、編曲案を出せる》
CHUYUが言った。
「骨組みだけでいい。あとは、やってみる」
アリステリアは少し離れて座った。
ミレナも、扉の近くで手を止めていた。
空一郎は、鍵盤へ指を置いた。
母が、休日の午後によく弾いていた曲。
ショパンの夜想曲だった。
最初の和音は、記憶した音と違った。
彼は速度を落とし、楽器の響きを聞いた。出ない音は別の高さへ移し、伸びない音は、次の音へ静かにつないだ。
譜面どおりではない。
それでも、旋律は残った。
家の廊下。台所で食器を片づける父。海一郎の部屋から聞こえる工具の音。
いつも、何か別の音と一緒に聞いていた曲だった。
ここでは、自分の指だけが、その続きを作っていた。
演奏が終わると、部屋はしばらく静かだった。
アリステリアが尋ねた。
「どなたが作った曲ですか」
「ショパンという人です。私が生まれるより、ずっと前の」
「あなたは、その方の曲を、誰から教わったのですか」
「母から」
彼女は鍵盤を見た。
「もう一度、弾いていただけますか」
「同じ曲を?」
「はい。今度は、私も少し、覚えたいので」
空一郎は頷いた。
彼女が隣へ来た。
彼は旋律の最初をゆっくり弾き、次に、彼女の手を置く場所を示した。
アリステリアが鍵を押す。
一音、間違えた。
「あら」
「私も、よく間違えました」
「今でも?」
「さっきも、何か所か」
彼女が顔を上げた。
「では、私が気づかなかったところは、間違いではないことにしましょう」
空一郎は笑った。
故郷の話をして、寂しさだけで終わらなかったのは、漂着してから初めてだった。
その夜、家族からの応答はなかった。
空一郎は、送信履歴を何度も開いた。
「今日も?」
「確認できる返信はない」
CHUYUが答えた。
「観測装置を増やせば?」
「受信できる範囲は広がる。でも、必要な経路そのものが失われていたら、台数だけでは変わらない」
彼は椅子の背へ身体を預けた。
「帰れる装置を作るつもりで来たのに、その装置を作る場所まで間違えた」
「間違えた原因は、まだ分からない」
「僕が選んで来たことは、変わらない」
CHUYUは黙った。
空一郎は窓を開けた。
知らない夜空がある。
この空を測るための機械も、ここで生きるための食料も、家族が用意したものだった。
それらが無事であることが、ありがたく、同時につらかった。
「母さん、今、何してるだろう」
「想像ならできる。でも、答えとしては渡せない」
「うん」
彼は窓を閉じた。
「今日は、想像でいい」
CHUYUの声が少し柔らかくなった。
「きっと、誰かに食事を取るように言っていると思う。自分の分も、取っているといいね」
空一郎は、卓上に残った夕食を見た。
冷めていた。
彼は皿を引き寄せた




