井戸を清める妻
帳簿の次に私が向かったのは、東区画の共同井戸だった。
黒霧の影響で水が濁り、洗濯と炊事に使うだけで手が荒れるという。現地で見た井戸の縁には、帳簿と同じ黒い線がこびりついていた。
「修繕費は去年から計上されているのに、工事はされていません」
ハロルドが苦い顔をする。
「王都の認可待ちで止まったままです」
「待っていたら水の方が先に死にます」
私は新しく浮いた余剰金を頭の中で組み替えた。ベルナール商会を切った分の差額、護符購入費の見直し、備蓄倉庫の回転率改善。前世の私が見たら泣きそうな綱渡りだが、やるしかない。
「工房の余剰石材と、修繕班を二日だけ借りましょう。浄化は私がやります」
その場にいた成人たちがざわつく。
「奥様が?」
「昨日、公爵様の呪いを抑えた方ならできるかもしれない」
期待と不安が半分ずつ。分かる。私だって半信半疑だ。
井戸の縁へ両手を置くと、冷えた石の奥に濁った水脈が見えた。そこへ黒い澱が沈んでいる。私は息を整え、頭の中で帳簿を締めるみたいに、余分な線を一本ずつ切るイメージを重ねた。
じわりと金色が広がる。
黒い澱がほどけ、水面がゆっくり透明になった。
誰かが小さく歓声を上げる。次いで拍手が広がった。
私はその場でへたり込みそうになったが、先にルシアン公爵が腕を支えてくれた。
「無茶をするな」
「無茶をしないと間に合いません」
「それでも、倒れられると困る」
公衆の面前でそんな低い声を出されるのは反則だと思う。
井戸の水を最初に汲んだのは、ミリアだった。彼女は一口飲んでから大きくうなずく。
「いける。これなら工房が回るよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが静かに定まった。
ここで働く人たちの生活を、ちゃんと回したい。
契約だからではなく、私自身の意志で。
夜、公爵邸へ戻ると、ルシアン公爵が私の机に新しい羽根ペンを置いた。
「褒美だ」
「井戸一本で?」
「領地の水は一本ではない」
不器用な人なりのねぎらいなのだろう。私はそのペンを大事に受け取った。
けれど机の上には、もうひとつ手紙が増えていた。
王都からの正式招待状。差出人は、第二王子アルベルト。
今さら何の用だろう。




