旦那様の呪いは夜に疼く
私は考えるより先に音のした方へ走っていた。
中庭に面した回廊には、黒い霧が漏れていた。冷たくて、息を吸うだけで喉が痛む。使用人たちは距離を取ったまま、誰も近づけない。
その中心にルシアン公爵が立っていた。
右腕の紋様は肩まで広がり、剣を握る手がわずかに震えている。自分に向かってくる霧を、無理やり押さえ込んでいるのだとすぐ分かった。
「近づくな」
鋭い声だった。けれどその一言で足を止めるほど、私は従順な契約妻ではない。
「止め方があるなら言ってください」
「ない。だから離れろ」
本当に、こういうところだけ不器用だ。
私は回廊に散った黒い霧へ手を伸ばした。触れた途端、帳簿の赤い滲みを見た時と同じ感覚が走る。違うのは、こちらの方がずっと痛そうだということ。
霧の中心は、彼の手首にある契約印だった。
気づけば私は、その手を握っていた。
「エレノア!」
名前を呼ばれた瞬間、指先から淡い金色が溢れた。
黒霧が音もなくほどけ、彼の腕の紋様がわずかに薄くなる。私の胸元に下げた結婚証の飾り石も、熱を持って光った。
回廊にいた全員が息を呑む。
私は自分でも何をしたのか分からなかった。ただ、汚れた帳簿を清算するみたいに、黒い歪みをあるべき場所へ戻した感覚だけが残っていた。
ルシアン公爵が呆然としたまま私を見る。
「……痛みが、引いた」
「私にもよく分かりません。でも、たぶん浄化です」
前世にはなかった力だ。この身体に元からあったのか、契約のせいで目覚めたのかは分からない。
執事ハロルドが震える声で言った。
「奥様が公爵様の呪いを抑えた……」
それを聞いて、周囲の視線が一斉に私へ集まる。尊敬半分、驚愕半分。ひどく居心地が悪い。
ルシアン公爵は深く息をつき、私の手をそっと離した。
「君は、本当に厄介な妻だ」
「助けたのに」
「だから厄介なんだ」
彼はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が妙に熱くなる。
契約結婚は安全な取引だと思っていた。けれど呪いを分け合うような相手と、本当に距離を保てるのだろうか。
そんな私の迷いを笑うみたいに、翌朝には王都から手紙が届いた。
差出人は、聖女候補セシル・リュミエール。
嫌な予感しかしなかった。




