赤字領地と黒い霧
グレイフォード公爵邸の執務室には、重たい静けさが積もっていた。
壁一面の棚に並ぶ帳簿は立派なのに、中身は立派とは程遠い。私は到着したその日のうちに五冊開き、三冊で頭を抱えた。
「小麦の購入量が二重計上されています。薬草の輸送費も不自然です」
向かいに立つ執事ハロルドが、眼鏡を押し上げる。四十五歳。几帳面そうな男だが、声には疲れが滲んでいた。
「奥様、そこまで早くお分かりになるのですか」
“奥様”と呼ばれて、少しだけ背筋が伸びる。
「分かるというより、浮いて見えるんです」
本当に、浮いていた。誤魔化された数字には赤い靄がまとわりつき、支払先不明の項目には黒い糸のようなものが絡んでいる。前世の知識だけでは説明できない異様さだ。
ルシアン公爵は机の端に寄りかかり、私の指先を目で追っていた。
「犯人は内か外か」
「両方ですね。領内の問屋が王都側の商会と組んでいます」
「名前は」
「ベルナール商会」
公爵の目が冷えた。どうやら聞き覚えがあるらしい。
私はさらに一冊めくる。そこで初めて、帳簿の上に薄い黒霧が這うのを見た。
「これ、数字だけじゃない」
黒い霧は東部の井戸修繕費から、医薬品代、護符代へと線のようにつながっていた。まるで領地全体を締め上げる縄だ。
「黒霧は財まで蝕む。昔からそうだ」
ルシアン公爵が淡々と言う。
「呪いで収穫が落ち、薬代が増え、王都から来る金まで消える。君の言う通り赤字だけでは済まん」
私は帳簿から顔を上げた。
「なら順番に切ります。まずは架空請求、その次に調達ルート、最後に呪いです」
執事が目を丸くする。
「最後がいちばん大きい問題では」
「数字の嘘を放置すると、本命に使えるお金が残りません」
前世でも今世でも、立て直しはいつもそこからだ。
ルシアン公爵は少しだけ沈黙して、それから椅子を引いた。
「好きに使え。人も予算も出す」
「本当に?」
「私が妻にしたのは飾りではない」
低い声でそんなことを言うから困る。契約だと分かっていても、心臓が変な跳ね方をした。
その夜、執務室を出ようとしたところで、廊下の向こうから物が割れる音がした。
次いで、誰かが怯えた声で叫ぶ。
「公爵様の呪いが、また……!」




