辺境行きの馬車で前世を思い出す
王都を出る馬車の窓から見える景色は、腹立たしいほど晴れていた。
婚約破棄の翌日に別の公爵と結婚する女。噂好きの淑女たちなら、どんな下世話な題名をつけるだろう。けれど私の膝の上にあるのは恋文ではなく、辺境グレイフォード公爵領の仮決算書だ。
「読むのか」
向かいに座るルシアン公爵が、呆れたように訊いた。
「読むべきものがあるなら読みます」
「怖くないのか。呪われ公爵の領地だぞ」
「怖いです。でも無知のまま行く方がもっと怖いので」
そう返すと、公爵は小さく笑った。意外にも、その笑みは冷たくなかった。
馬車の揺れに合わせて、前世の記憶が少しずつ馴染んでいく。満員電車、監査資料、月末の残業。私は日本で三十一歳の会社員だった。倒れる直前まで数字と戦って、気づけばこの世界のエレノアとして生きていた。
前世の私は恋愛より締切を優先していた。今世の私は恋愛に裏切られた直後だ。契約結婚という響きに夢を見る余裕なんてない。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「殿下はなぜ、あんなに救済金の話を嫌がったんでしょう」
ルシアン公爵は窓の外を見たまま答えた。
「黒霧の被害が広がれば、辺境はさらに王都へ頭を下げる。予算を握る側には都合がいい」
「そして未着金は、途中で消えている」
「おそらくな」
彼の声には怒りより諦めが混じっていた。長く耐えてきた人の声音だ。
その時、馬車が大きく揺れ、公爵の右手袋が少しずれた。黒い紋様が肘近くまで這っているのが見えた。まるで夜が皮膚に染みこんだみたいだった。
私が目を止めると、彼は何でもないふうに手袋を直す。
「公爵様、その呪いは」
「領地の核とつながっている。黒霧を抑えるたび、私に戻る」
言い方が軽すぎる。
「治療は?」
「効かなかった」
それだけで会話を終わらせる気らしい。けれど私は黙れなかった。
「私、帳簿の滲みも、その呪いも、見えるみたいです」
ルシアン公爵の灰色の目がまっすぐこちらを向いた。
「なら、君は思っていた以上に必要だ」
必要。
昨日まで王子に切り捨てられた私にとって、その一言は妙に重かった。
夕方、馬車が辺境へ入る。空気が変わったのが分かった。遠くの森と屋根の端に、薄い黒霧が貼りついている。
私は決算書を開き、赤く浮く数字を見つめた。
この一年、妻役でも何でもやってやる。
どうせなら、不正も呪いもまとめて黒字に変えてみせる。




